第6話 後編

 昼前にも関わらず、部屋の中は薄暗い。

 窓の外から覗く四角い空は、厚い黒い雲が覆う。

 大紀は照明も点けずに、亜生の目だけを見つめている。

 掴まれた腕から、彼の熱が伝わってくる。

 眉をひそめた大紀の漆黒の瞳がさらに濃く見えて、亜生は咄嗟に視線を散らした。

 今は大紀の瞳に吸い込まれそうになる自分を止めることだけで精一杯。


 フロアは自分と大紀しかいないみたいに、辺りは不気味なほどに静かだった。

 まもなく雨が降り出すと、瞬く間に窓ガラスが滴る。

 大紀が口を開いた。

「会いたかった」

 彼の瞳と言葉に、全身が震える。

 亜生は即座そくざに顔を背けて、唇を噛んだ。

 返事はしなかった。正確に言うと、できなかった。

「会いたかった、ずっと。……ずっと、会いたかった」

 大紀は何度も繰り返す。

 亜生は俯いたまま「彼はもう結婚している。これは自分自身が終わらせた恋なんだ」と、口を固く結んでいた。

 その時、大紀に掴まれたままの亜生の腕が引っ張られる。


 次の瞬間、亜生の体は大紀の胸の中に収まっていた。

 亜生がそれを理解するのに、しばらく時間が掛かった。


 一年ほどしか経っていないのに、懐かしいと感じる彼の匂い。

 大紀との思い出の香りが、亜生を少しずつ過去へと呼び戻す。

 彼の胸にかすかに混じる〈初めてぐ甘い香り〉と、亜生の首筋から頬に触れる大紀の指にある〈硬いもの〉が、彼と別れてからの時の流れを知らしめる。

 亜生の脳裏に『既婚者』『常務』『不倫』『同性』と、言葉が静かに押し寄せた。

 正気に戻った亜生は、大紀の体を押し返す。

 彼は離してくれない。

「は、離し……」

 もがけばもがくほど彼の力は強くなって、亜生の頬は大紀の胸の中に埋もれていく。

「いや、いやだ! 離し……離っ」

 何が起こったのかと、亜生は自分の感覚を疑った。


「んっ……、んむっ……」

 息が止まりそうだった。

 大紀は何度も唇を重ねてくる。

「……ふっ、んっ! やっ……んぐっ……」

 大紀を突き放そうとするも、いつの間にか亜生は両手首を窓の傍の壁に付けられた。

 大紀の唇が、何度も重なり続ける。

 亜生はどうにもならず、彼の下唇を噛んだ。

「うっ……」

 大紀が一瞬ひるんだすきに、亜生は彼の体を強く押した。

 けれど再び彼に腕を掴まれて、今度は背後から抱きしめられる。

「いやっ、いやだってば」

 自分の体を覆う彼の腕を振りほどこうと、亜生は抵抗した。

 耳元で、大紀がささやく。

「何が『いや』なんだ? ……勝手なこと、言うなよ」

 冷たさを含む彼の言葉に、亜生は恐怖で押し潰されそうになる。

 大紀は言葉を続けた。

「亜生、正式にうちの担当になれ。そうしないのなら、蘇堂はこの件から手を引く」

(えっ……、お、おどしてるの?)

 亜生は頭の中が混乱し始める。

 耳元に、彼の吐息が掛かる。

 大紀の鼻先が亜生の頬から静かに下へと流れて、首筋に口づけを感じた時、再び彼が囁いた。

「分かるよな。亜生のわがままで、両社が損害を受けるぞ?」

(何言ってるの? 何で……?)

 胸が締めつけられて、息をすることもままならない。

 亜生の右頬に、大紀の頬が貼りつく。

 選択肢はないと言うばかりに、無言の圧力を掛けられているかのようだった。

 大紀が低く呟く。

「決まりだな。雪代社には、俺から伝えておく」

 有無を言わさない、という彼の言葉。

 大紀は亜生の額に口づけると、部屋を出ていった。


 亜生は一人うずくまる。

 部屋の静寂せいじゃくの中、小さく雷鳴らいめいが聞こえ始めた。

 大紀への失望と恐怖、自分自身が未だ抱く彼への断ち切れていない想いで、亜生は声を呑み込むようにして泣いた。


 * * *


 翌日、亜生は正式に蘇堂の担当として加わっていた。

 亜生は峯島から、「蘇堂との仕事をとってきたのは架」で、架が異動して来た理由の一つと知らされる。

 架から大紀との関係についての言及げんきゅうは特になく、亜生はひとまず安堵した。

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