第6話 前編

 昼食を終えた亜生が部署に戻ると、部長に呼ばれた。

 企画開発部長の峯島みねしま映司えいじは、そこにいるだけで部署内の士気しきが高まるほどの人物。

 亜生の十歳年上で、彼は仕事に対しても人に関しても視野が広くて頼もしい。優美な顔立ちと引きしまった体の長身、加えて独身ということもあって、社内の女性陣の間では〈最後のとりで〉と言われているほど関心を引きつけるも、当の本人は結婚願望というものがないらしい。

「佐久田くん。急で悪いんだけど、明日、新條くんに同行してほしい」

 架が異動早々で担当となった新規の取引先が、亜生を指名しているとの話だった。

「あの、俺ですか? その、俺、専門外ですけど、いいんでしょうか」

 亜生は素直に問いかけた。

 峯島は架がいればその点に関しては問題はないと答えながらも、首を傾げている。

「よく分かんないんだよね。向こうが、お互い新規同士だから知り合いがいると安心するとか言ってて」

 峯島はそう言い終えると架を呼んだ。

「新條くんは、何か聞いてる? 『蘇堂すどうグループ』から」

 社名を耳にした途端、心臓にくいが打ち込まれたような衝撃が走る。

(えっ……、すど、う……?)

 目の前で峯島と架が話をしているけれど、内容など耳に入ってこない。

「……くん? 佐久田くん?」

 峯島の声に、亜生は我に返る。

「あっ……、すみません」

「明日は新條くんと二人で行ってきてね」

 峯島はそういうことでと言わんばかりの笑顔を浮かべた。


 亜生は席に戻ると、気持ちを落ち着けた。

(「蘇堂の知り合い」って、あの人ぐらいしか……。いやいや、大丈夫。『蘇堂』といっても、別に、あの人な訳じゃないし。それに、業種も違うし……)

 亜生は自己暗示を掛けるように「大丈夫、大丈夫」と何度も深呼吸を繰り返す。


 * * *


 亜生は朝一、架とともに蘇堂グループ本社ビルに出向いた。

『今日一日天気は不安定』とニュースで確認した予報通り、今にも雨が降り出しそう。

 亜生の現在の心情を表すような、重苦しくくもった灰色の空が続いている。

 昨日の夜は寝つけず、不安がないと言えば嘘になる。

 例のあの人、いや、『元彼の大紀の勤務先』と当然知ってはいるけれど、亜生は蘇堂の本社に来るのも、建物を目にしたのも、実は今日が初めて。


 蘇堂本社は、高層ビル群の中で一番高い。

 アプローチ正面から見上げた本社ビルの先は今、雲のようなきりが覆っている。

 中に入ると、エントランスから全面ガラス張り。正面に構えた二階へ続くであろう階段でさえも、側面と向こう側が透けている。

 近未来を描いた小説の挿絵に登場しそうな、建物全体が白と銀の光沢で埋め尽くされていた。

 気後きおくれする亜生とは対照的に、架は飄々ひょうひょうと受付を済ませる。


 ガラス張り仕様のエレベーターで上に向かった。

 ビルの外の景色が、またたく間に地上から離れていく。

 目的の階でエレベーターが停まると、開いた扉の先にはりガラス状の壁が並んでいた。

 蘇堂の担当者を待つ数秒の間、亜生には時が止まったのではないかと思うほどに長く感じる。

 架がこちらに向かって何かを話しかけているような気はしたけれど、亜生は上の空で頭を振るだけが精一杯。

 亜生の握った手の平が、瞬く間に湿っていく。


「お待たせしました」

 蘇堂の開発部数名が姿を見せる。

 磨りガラスの壁にある扉が開けられると、そこはミーティングルームだった。

 亜生はやりとりを交わす架の一歩後ろに隠れて、挨拶をしながら彼らの顔を確認する。

 亜生が胸を撫で下ろした時、蘇堂側の一人が歯切れの悪い口調で話す。

「実はもう一人、担当の者がおりまして。本件の責任者なのですが、少々お待ちいただきたく」

 加えて申し訳なさそうな様子で「お掛けください」と言うと、その人は引きつったような笑顔を見せた。

 その時、扉の開く音と同時に亜生の背筋せすじこおりつく。

「お待たせして、申し訳ございません」

 聞き覚えのある、いや、一番聞きたくなかった耳触みみざわりのよい低い声。

 確認など必要のない、まぎれもなく、亜生が昨年別れを告げた香山大紀だった。

 額に掛かる漆黒の髪と同じ色をした瞳の流し目。濡れたような艶の唇と、口元のほくろ。色香のある長身が相変わらずあやしげな熱を帯びて、彫刻のようなたたずまいは嫌味なほどに健在。


「改めてご挨拶させていただきます。私、開発総責任者の香山と申します」

 大紀は亜生と架に名刺を差し出す。片方の手には、当然のようにして銀色に輝く指輪。

 心臓が秒でえぐられた。

 不意に懐かしい香りが亜生の鼻先を掠めて、彼の名刺を落としそうになる。

 忘れもしない香り。

 大学生の時に大紀と一緒に選んだ、檸檬色のあの香水。

『これを着けていれば、いつでも亜生と一緒だな』

 いつも大紀が言っていた。

 なぜ、よりにもよって、今日着けているのか、と亜生は激しく動揺する。


 架が口を開いた。

「あの、初対面で申し訳ございませんが、『常務』って書いてありますけど」

「ええ。本来、私は担当外なのですが、よろしくお願いいたします」

 屈託くったくのない笑顔を見せる大紀に、架も「よろしくお願いいたします」と笑みを返す。

 気持ちが定まらない亜生をよそに、大紀はその場にいる全員に向けて言葉を掛けた。

「今回亜……、佐久田さんとのご縁もありまして、本件を進めることができます。ありがとう、佐久田さん」

 どうしたって話の筋が見えてこない。亜生の抱えていた不安が現実となって、姿を表した。

 もう会うことはないと思っていた人が、元恋人が、仕事とはいえ、今、目の前にいて、自分だけが未練のあるような気持ちになっていて、向こうは何の動揺も見せずに、自分以外の人との証を左手の薬指に着けている。自分との過去の香りまで身にまとって、担当外同士でありながらもミーティングの場に同席など、全てが理解不能。

 当然、誰もそんなことは微塵みじんも感じていない。

 当の大紀も、そつなく仕事をこなしている。

 亜生は黙ったまま彼らの話に耳を傾けて(実際は傾けているフリ)、一人蚊帳かやの外のような気分で、この時間が終わるのを今か今かと待つばかり。


 しばらくして、ミーティングが終わる。

「でも、佐久田さんが知り合いで助かりました」

 蘇堂の担当者は、終始穏やかにコトが運んだと安堵しているようだった。

「いえ……。そもそも私は、担当ではありませんので。次回から専門である新條が対応しますので、ご安心ください」

(上手く言えた? 躱せた? 今、俺、どんな顔してる?)

 亜生は一刻も早くここから逃げたい一心で、架に「先に下に戻ります」と告げた。

 ミーティングルームを出ようと、亜生は扉を開ける。

「亜生! 待てよ!」

 久しぶりに大紀に名前を呼ばれて、亜生は思わず足が止まる。

 胸が、激しく脈を打っていた。

 突然大きな声を発した大紀に、架と蘇堂の担当者たちは当然皆、驚いている。

「ええっと、その……、ちょっと」

 そうにごした大紀は、亜生の返事も聞かずに腕を掴む。

 本当は「離して」とか「帰るんだから」とか言えばよいのに、大紀を目の前にした亜生にそんな余裕はなかった。

 自分でもどうすればよいのか、どうすることが正解なのか、分かるはずもないほど亜生は酷く混乱していた。

 フロアの一番奥の部屋の前に着くと、大紀は亜生を開けた扉の中へ押し込んだ。

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