第5話

 丸和百貨店を出て、二人で街へと繰り出す。

 十年ぶりの雑踏ざっとうの中は、歩くことさえもぎこちない。

 対向する人波で肩と肩がぶつかる度に、亜生は「すみません」「ごめんなさい」と言いながら、架の後ろを追っていく。

 架は見兼ねたのかあきれ返ったのか「俺に掴まってて」と、亜生の手を自分の腕に運んだ。

 亜生はためらったけれど、有無うむを言わさず彼は腕を組む。


 夕食には少し早い時間帯。

 路面店が立ち並ぶ大通りは人混みが途絶えずも、陽はかたむいてきている。

 亜生が眩しさに目を逸らした先には、大きなショーウィンドウ。銀色のタキシードが飾られていた。

 隣には、当然のように純白のウエディングドレスがついで置かれている。

 亜生は足が止まる。

『世間』というメインストリームから自分は『隔絶かくぜつ』している、となんとも言葉にならない気持ちになった。

 不意に、ガラスに跳ね返って映る自分の姿を目に捉えた。

 片腕には架、もう片方には架から贈られた香水の入った小さな白い紙袋を提げている。

 亜生は不思議なくらいに落ち着きを取り戻していく。

(……うん、なんだろ。悪くないかも)

 隣にいる彼は、恋人ではない。だけどこうやって街中を腕を組んで並んで歩くのも案外よいものだなと、ガラスに映る自分を見つめて自然と笑みが零れる。

「佐久田くん、どうしたの?」

 架の声に亜生は振り向く。笑み混じりに首をかしげる彼を見ていると、先ほど感傷にひたっていた自分が何だか滑稽こっけいに思えてくる。

「いえ、すみません。何でもないです」

 はぐらかすように亜生が答えると、架は眉を寄せた。

「ええっと、その、人混みを歩くの、久しぶりで……」

 亜生は伝えられる範囲の言葉を掻き集める。

 彼は納得したのか「そうだったんだ」と返事をすると、表情を緩めた。

 再びの雑踏。亜生は自分の隣で悠然ゆうぜんと歩く架に安堵あんどを覚えた。


 大通りを抜けて、路地に入る。

 辺りは早くも街灯がき始める。

 架は楽しげに話しているけれど、互いに組む腕のことを忘れているようで、道ですれ違う彼らの、彼女らの向ける視線に、亜生は紙袋を持つ手に再び力が入った。

「今は恋人と腕を組んでいる訳ではない」と亜生は下を向かずに顔を上げ続ける。

 すると、視界が開けたように周りが目に入るようになった。

 自分たちのように腕を組んで歩く人は恋人同士だけではなくて、家族連れや親子、中には女性同士もいる。もちろん、男性同士も。

 彼らの皆が皆『ゲイ』や『レズ』などではない。

 自分だけが気をむことはなかったと、亜生はひそかに胸を撫で下ろす。


「着いたよ。今日はここで食事をしよう」

 架の言葉の先へと、亜生は視線を向けた。

 暖色に照らされた白壁と軒先のきさきに植物が置かれた店構えに、茶色のプレートが掲げてある。

 木枠の黒板に白いチョークで飲食のメニューが書かれている。その下には、掲げられたプレートと同様の英字が並ぶ。

 おそらくこれが、ここの店名。

「夜はダイニングバーなんだ」

 架は馴染みの店だと言って、同じく木枠製のガラス扉のノブに手を掛けた。


 ウッド調の店内。四脚のテーブル席が六つほどと、手前と奥にそれぞれカウンター席がある。

 ところどころに緑が配置されて、架は店主らしき人物に会釈えしゃくした。

 亜生は架に腕を組まれたまま、ワインラックで仕切られた席の間を進んでいく。


 突き当たったカウンター席。隣り合って腰を下ろした。

 正面は大きなガラス窓。窓越しには店外と同じ暖色で照らされた中庭のような小さな空間が広がっている。

 一枚板のテーブルの上にはメニューブックと、瓶に入ったオリーブオイルと木製のペッパーミル。

 架とともにメニューに目を通していると、店員が「本日のおすすめと、こちらにもあります」と、席の後方に大きな黒板を立てかけた。旬のものを使ったメニューが連なっている。

 どれもが魅惑的に見えて、選び切れない。

「アラカルトにしようか」の架の提案に、亜生は思わず返事の代わりに彼へと笑みを向ける。

 彼もまた、微笑み返した。


 頼んだ料理が運ばれてくる前に、二人で軽く乾杯をした。

 亜生がアルコール類が苦手なことを告げると、意外にも架も同じだと分かって、二人で選んだノンアルコールのスパークリングワインでグラスを交える。

 グラスに何度か口を付けると、一品目のフリットが置かれた。

 恋人だった大紀とは、周りの目を気にして食事に出かけることも少なかった。恵や親しい人以外の誰かと夕食をともにするなんて、初めてかもしれない。


 架は率先そっせんして手際てぎわよく、白い皿にフリットを取り分けてくれる。

 皿の一つを亜生の前に置くと、透明の小さなガラス製の器に入ったオーロラソースみたいなものを傍に置いた。

「改めて乾杯」と架が言って、互いにグラスを持ち上げる。


 架とは自然と砕けた会話をするようになっていた。

 些細ささいな、他愛のない、何気ない話で言葉をわす度に、心が緩やかに解放されていくような気分だった。

 時折、目の前のガラス窓に映っている自分が「普通の休日を友人と楽しむ普通の人」に見えて、亜生は度々笑みが零れる。

 架と過ごす今の時間。自分の過去の恋愛に性的志向、世間の常識やしがらみなど、亜生は一時的でも忘れることができた。


 取り分けたパスタを食べ終えて、アクアパッツァが運ばれてきた頃には、体が風船のように軽くなっていた。

 架はどの料理も当然のように二人分にサーブする。

 亜生がアサリのからを自分の皿の上方へけた時、牛フィレがやってきた。


 一通り食事を終えた頃には、亜生は架について知っていることが増えていた。

 昼間に百貨店で会った妹の紫と仲がよいこと、この店が彼の行きつけなこと、この店の近くに住んでいること、意外にインドアなこと、休日に家事全般を済ませること、平日でも自炊をすること(見せてくれた料理の写真は本格的なものだった)、そして今、彼に『彼女』がいないこと、など……。


 * * *


 店から出た時は、まるで夢から覚めるようだった。

 現実に戻った「ゲイの自分」の手の中に残っていたものは、「ノーマルの架」が贈ってくれた香水の入る白い紙袋だけ。

 日中の暖かさが残る外気の中を、架とともに歩く。

「全てが泡となって消えた」、そんな感覚だった。

 彼は自分の家とは反対方向にも関わらず、律儀にも『男』である亜生を駅まで送ってくれた。

 別れ際、架に「また明日」と言葉を掛けてもらえて、社交辞令だとは分かっていても、そういうを言葉を交わせることが嬉しかった。

 直後に「気をつけて」と、架は一言添えてくれた。

 彼にとっては、一連の定型文なのだろう。

 けれど、亜生にはこんな自分でも大切なもののようにあつかわれているみたいで、心が一瞬で熱くなった。


 * * *


 自宅に戻った亜生は、シャワーを済ませるとベッドにもぐり込んだ。

 間接照明だけを点けたベッドルーム。ベッドサイドに架が贈ってくれた香水の入った白い紙袋が浮かび上がって、亜生は不意に手にとった。

 ベッドの横に立って、紙袋の中から香水の入った箱を取り出す。

 箱を開けて、香水の瓶を出した。

 黒いガラス製の青色がかった香水は、照明の加減か、重厚感が漂う。

 キャップを外して、スプレー部分を一押しした。

 優美で爽やかな香りが掠める。

 亜生は再び、次は数回押して、そこを通り抜けた。

 自分自身と部屋の中に、香りが落ちていく。

 今度はベッドで仰向あおむけになって、亜生は天井の方に向けてスプレー部分を一押しした。

 鼻元へと、気品ある香りが強く広がる。 

 シャワーを浴びたばかりの自分の香りを、架の香水が上書きしていくような気分だった。

 心地ここちよい香気こうきに、亜生は次第に心が温かくなる。

 もう一度上に向けて香水を吹きかけてから、亜生は眠りにいた。

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