第4話 後編
新條紫、架の妹。兄同様、容姿端麗で人当たりもよい。
二人の会話を聞く限り、亜生がゲイだということには気づいていない様子。
紫は時折架と笑顔を交えながら、売り場や百貨店についての話をしてくれている。
亜生は彼らが口を開く度に、自分がゲイだと気づかれるのではないかと不安が
昔の体験が呼び起こされる自分がいて、逃げ出したくてたまらなかった。
「そうだ。今日は買い物しないの? もちろんするわよね?」
偶然にも、紫が話題を変えてくれた。
紫は架の
亜生たちがフロアの中央部に行き着くと、できていた人だかりの真ん中に、ブランド各種の香水が一堂にディスプレイされていた。
磨かれた透明のガラスの台座の下部には、黒色のカーペットが敷かれている。
ライティングにもこだわっていて、様々な色の香水の瓶が光りを浴びて乱反射している様は、開け放たれた輝く宝石箱。
「いいでしょ。こう見ると、ジュエリーみたいよね」
紫の言葉に、亜生は何度も首を縦に振る。
何かを見て『美しい』と感じたことも、久しぶりのような気がする。小さい頃は、家の窓から見える景色でさえ輝いていた。大人になるにつれて、心は
亜生は中央に飾られている香水の一つを手にとった。
白いブランドロゴがあしらわれた四角い黒のガラスの中に、青みがかる香水。瓶のキャップは艶のある黒で、ディスプレイの効果だろうか、高級感が増している。
「テスターもありますから、試してみて」
紫が近くの引き出しから試香紙を出した。
『百貨店の化粧品売り場』という
紫は先ほどの黒いガラスの香水を
彼女に
上品な清涼感が広がる。
「あ、いい香り」
亜生は不意に呟いた。
何度か鼻の前で試香紙を動かす。亜生はなんだか覚えのある香りのような気がしてきた。
「それ、いい香りだよね。俺も使ってる」
声を受けた亜生が顔を上げると、隣で架が微笑んでいる。
彼の香りだったんだと納得した時、亜生の目は一つの香水の瓶を
円柱型のガラスに入った、透き通る
亜生が昨年別れた恋人、香山大紀が愛用していたもの。
一瞬で、亜生の頭の中を大紀が埋め尽くしていく。
大勢の人が集まる騒めきの中、明るい店内にも関わらず、目の前が音を失くすように真っ暗になる。
何をしていても、どこにいても、一人でいる時だけじゃなく、誰かといても、未だに彼の
あまりに長く、そして短い時を過ごした、十年という代償。
「佐久田くん」
突然耳元で聞こえた声が、亜生を現実へと引き戻す。
架が小さめの白い紙袋をこちらに差し出していた。
「佐久田くんにプレゼント」
彼は亜生の手をとると、紙袋を持たせる。
「えっ、あの……」
「今試してた香水。俺とお
架は再び微笑んだ。
不意に受けとった紙袋には、先ほどの四角い黒のガラス瓶と同じブランドのロゴが印字されている。
「これ……。あの、本当にいいんですか?」
亜生が恐縮すると、架はなぜか真面目な顔をする。
「受けとってほしいんだ。佐久田くんに」
静かに訴えかけるような彼の真剣さに、亜生はこれ以上断るのも申し訳なく感じた。
「……ありがとうございます。新條さん」
亜生が返事をした途端、架は笑顔を浮かべた。不覚にも、亜生は胸がときめく。
「あ、あの。これのお礼というか、俺も新條さんに、何か贈っていいですか?」
気持ちの
こういう時、改めて同性との距離が掴めていないことを思い知らされる。
当然ながら、ゲイといっても『全ての男性が恋愛対象』の訳ではない。亜生がゲイだと知る人たちは別としても、同級生、同窓生、会社の同僚や上司という〈そうでない人たち〉とどう接することが正解なのか、正直、分からなくなる時がある。
(お礼だなんて言ったのが重かった?)
亜生は顔を
紙袋を持つ自分の手に、自然と力が入る。
架が口を開いた。
「……それじゃあ、このあと、一緒に食事しない? 二人だけで」
予想もしなかった答えだった。亜生は驚きと同時に顔を上げる。
架は小さく笑ってから、噛み砕くようにして言葉を続けた。
「お礼は、今晩一緒に食事をしてほしいな。もちろん、佐久田くんに用事がなければだけど」
(俺の用事なんて、クリーニングに出していたスーツをとりに行くぐらいだ……)
亜生は心の中で呟いた。
目の前で架がなぜか嬉しそうにこちらを見ているので、亜生は
「えっと、俺でよければ。ぜひ、お礼させてください……」
亜生がそう答えると、架は再び微笑んだ。
「ありがとう。楽しみだな」
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