第10話
会社から一駅。新築の高層マンション。
新婚の恵はここに引っ越してからも、変わらず毎日のように亜生に声を掛けてくれる。
玄関で靴を脱いでいると、彼の妻が出迎えてくれた。
「亜生ちゃん待ってたよ。早く上がって!」
彼女は明るい声と笑顔でそう言うと、スリッパを素早く取り出す。
片手には恵同様、真新しい銀色の指輪が光っている。
それを見ると、自分が世間の〈
それでも、目の前にいる二人が幸せな顔をしているので、亜生は自然と笑顔を取り戻した。
「ありがとう。お邪魔します、
亜生は笑みを返して、スリッパを
恵の妻の幡川
明るくて優しい性格に加えて、当時から『美人』と
亜生がゲイだということを知っても、彼女はなんのためらいもなく受け入れて、というか彼女自身、偏見という
結婚してから、彼女はトレードマークだった黒髪のロングヘアをミディアムボブに変えて、さらに美しくなった。
リビングに通されてソファーへと腰を下ろすと、いつものように食事を用意してくれていた。
夕食を終えると、亜生はその都度片づけを買って出る。
美里はその度「彼の担当だから」と言って、亜生に微笑む。
恵が自然とキッチンで手際よく動いている姿を見ていると、亜生は二人の関係が羨ましく思えてならない。
片づけ終えた恵が、三人分の飲み物を手にリビングに戻ってくる。
「亜生、単刀直入に聞くよ」
恵がマグカップをテーブルの上に置きながら言った。
「えっ? う、うん。何?」
亜生が戸惑い気味に答えると、恵が隣に腰を下ろした。
彼が隣に座る時は
「大紀くんと、何かあるよね」
恵の言葉に、亜生は息を呑んだ。
「……ええっと。なんのことかな?」
たまらずはぐらかそうとするも、恵に通用する訳がない。
恵は一つ溜め息を吐くと、膝の上に肘を付けて両手を組んだ。
「仕事中に、キスマークなんて付かないだろ、普通」
心臓の辺りに、何か鋭いものが突き刺さったような感覚に
「な、んで、知って……」
知っているのは、自分以外では大紀と架だけ。
大紀が恵に言ったのか、それとも他に誰かが見ていたのか。亜生は不安に襲われる。
再び、恵が息を一つ吐いた。
「新條さんが教えてくれた。その時、大紀くんの名前が出た。なんで、俺に言わなかったんだよ」
恵は顔を伏せたまま。彼のその姿に、亜生は心が痛む。
いつだって恵は、こうして心配してくれる。
亜生が恵に『自分がゲイ』だと打ち明けた時、大紀が好きだと言った時、大紀に彼女がいたと知った時、大紀と付き合えた時、大紀と別れた時。
恵はいつでも一緒に受け止めてくれた。
だからこそ言えなかった、言いたくなかった。恵をいつまでも巻き込みたくない。
亜生は言葉に詰まって、唇を噛んだ。
「何があったんだ? 言えよ、亜生。俺たちが守るから。ここにいるのは、亜生の味方だけだ」
自分の目を見て、眉を顰めながら噛みしめるように言葉を紡ぐ恵に、亜生は胸が張り裂けそうだった。
美里も彼と同じ表情をしている。
目の前にいる二人の顔を、亜生は
これ以上はもう迷惑を掛けたくないという思いと、本当は誰かにこうやって手を差し伸べてほしかったという
何からどう言えばいいのか、答えがまとまらない。
亜生の肩に、恵が手を置いた。
それが何かの合図のように、亜生の両目から堰を切ったように涙が流れ始める。
亜生は今まであったこと全てを、二人に正直に話した。
大紀との再会、そしてキス。……それから、「大紀に選ばれなかった」という自分の胸の内をぶちまける。
泣きじゃくる自分に情けなさが加わって、亜生は流れ出る涙を止めることができない。
その時、リビングの扉が勢いよく開く。
「許さねぇ……」
怒りを混じえたような声が聞こえた。
亜生は扉の方に顔を向ける。
恵の兄の幡川
櫂は亜生の足元に膝を突いて、手をとった。
「亜生、もう大丈夫だからな! 許さねぇ、あいつ……」
力強い櫂の手の温かさが、亜生の涙を自然と止めた。
恵と見間違うほど似ている中性的な顔、緩くパーマがかった黒髪の前下がりボブに、片耳のピアスが部屋の明かりを反射している。
「ちょっと櫂くん、出てくるの早いから」
恵が溜め息混じりに言った。
今すぐにでも大紀の元へと殴り込みに行きそうな櫂を、恵がたしなめる。
「いいから、落ち着けよ。櫂くんがそんなんじゃ、亜生、また一人で抱え込んじゃうだろ」
「だって! あんな話聞いて、黙ってらんないだろ! 身内だと思って我慢してれば、大紀のやつ……」
櫂は今度は今にも泣き出しそうな顔になって、肩を震わせる。
「だから、なんで櫂くんが泣くの! もう。亜生が泣けなくなるじゃん」
「……亜生ぉ」
櫂は泣き出した。
恵は再び溜め息を吐くと、頭を抱えている。
「ごめんな、恵ちゃん。これでも一応、止めてたんだけど」
端正で引きしまった顔立ちと清涼感が漂う黒髪のショートヘアの昭良が、泣きじゃくる櫂の後ろから代わりに答えた。
恵は「昭良くんはいつも櫂くんを甘やかし過ぎだ」と、諦めたように苦笑いした。
亜生は未だ状況を飲み込めないまま、瞬きを繰り返す。
恵が今度は優しく微笑む。
「大勢でいたら、話しづらいかと思ってさ。ごめん」
そう言って、恵は亜生の頭を撫でた。
「みんな、亜生ちゃんのことが大事だから、今日ここに集まったんだ」
昭良は表情を緩めた。
櫂と昭良の手には、少し
櫂と昭良も十年来の交際で、彼らはともに美容師。二年前に二人で独立して、現在は人気の街の路面店という立地に美容室を構えている。
昭良が亜生の手を握っている櫂の手を掴んで離した。
「櫂。亜生ちゃんは可愛い弟だけど、俺以外の手を握るのはダメだから」
こういう時にでも嫉妬を忘れない昭良の行動に、亜生は思わず顔がほころんだ。
彼らの仲のよさも、羨ましい限り。
「亜生ちゃんは、やっぱり笑顔がいいよ」
美里がそう言って優しく笑う。
亜生は心が随分と軽くなった気がした。胸につかえていたものが涙とともに流れて、ここにいる恵たちの優しさと温かさに「こんな自分でも、皆、愛してくれている」と胸が一杯になった。
「何があっても、俺たちが付いてる。大丈夫だ、心配するなよ」
恵がそう言って笑った。
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