第11話 前編
亜生は翌日出社すると、お礼と報告(自分がゲイだということは伏せて)を兼ねて、架を待った。
出勤して来た架に声を掛けようとしたけれど、今日も彼は瞬く間に女性たちに囲まれる。
仕方がないと、亜生は昼に持ち越すことにして席に着いた。
いつの間にか、架は女性たちの輪から抜け出ていた。自分の席に戻った彼は、なぜか亜生の手をとる。
「場所を変えよう」
架はそう言って、同じフロアにある簡易応接室へと亜生を引き込んだ。
始業前の静けさが少し残る。架の香りで、朝の爽やかさが増しているような気がした。
「今まで気づかなくて、ごめん」
向き合う架は、眉を顰めた。責任を感じているような彼の顔に、亜生は途端にいたたまれなくなる。
昨日、あのあと恵から「蘇堂との仕事の時は大紀くんと二人きりになるな」や、なぜか「新條さんから離れるな」と念を押された。
架にそれとなく話を切り出そうと思っていた矢先、亜生は逆に彼から「昨日幡川くんから聞いた」と話される。架は「俺が守る」とまで言った。
亜生が大紀を拒むということは、蘇堂との取引自体がなくなる可能性がある。
何より蘇堂との話を持ってきたのが架本人だから、迷惑というかこれ以上彼の足を引っ張るようなことはしたくない。
架の手が未だ繋がれていることにようやく違和感を覚えた亜生は、彼の手から抜け出す。
「すみません。その、俺の方こそ、もっと早くお伝えしていれば……」
「いや、いいんだ。言いづらかったことだよね。本当に、ごめん」
架の一言一言が心に
「本当に、申し訳ありませんでした」
亜生は正直に今の気持ちを込めた。
架は遮るかのように、今度は亜生の両手をとって言葉をくれる。
「俺がいるから、安心して」
架は優しく微笑んだ。
この瞬間、亜生は全身が温かい何かに包まれた気分になった。
数日後、蘇堂との打ち合わせの朝。
受付で蘇堂の担当者を待つ間、架は落ち着かない亜生を見兼ねてか、深呼吸を促す。
架を追うように何度か息を吸っては吐いた時、担当者が現れた。
「おはようございます。それでは上に」
担当者はエレベーターホールへと歩き始める。
乗り込んだエレベーターが上へ向かう中、架が亜生の手を繋いだ。
突然のことに驚いて、亜生は架の顔を見る。彼は上がる階数を目で追ったまま。
確かに「守る」とは言ってくれたけれど、大紀のいないところでまで気を配ってくれる彼の優しさに、亜生は間が持たない。
架が「亜生がゲイ」だと知れば、彼は拒絶するのだろう。
この手が二度と繋がれることはないと思うと、亜生はなぜか胸が苦しかった。
結局、彼は階に着くまで、一度もこちらを見なかった。
打ち合わせを終えた時、大紀が
「亜生、ちょっと」
架が亜生の横から一歩前に出た。
「すみません、香山さん。個人的な用ならば、私どもはこれで失礼します」
架の言葉に大紀は眉を顰めると、自分のネクタイを緩めながら
「ああ、そういえば、先ほどの資料に質問があったようで」
大紀の声が合図のように、蘇堂の担当者が架に向かって話し始める。
架が気を取られている間に、亜生は大紀に手をとられて、瞬く間に隣のミーティングルームに引きずり込まれた。
大紀が扉を閉める。薄暗い部屋の中、大紀は亜生の腰を抱き寄せると、顔を近づけてきた。
「やめて」
亜生は顔を逸らして、大紀の手を押しのける。
彼は今度は両手で亜生の動きを
「なんで逃げるんだ? 亜生」
再び大紀の顔が近づいてきた時、扉が開く音がした。
同時に、大紀の手が緩む。
亜生は「架が来た」と
反して、女性の声がした。
「何をしているの?」
「セイカ、なんで……」
扉の前に立っていた女性は、亜生が以前エレベーターホールですれ違った「大紀の妻」だった。
緩やかに巻いた茶色の長い髪に、艶やかで
極めつけに、彼女の細い手足が女性だけが持つ柔らかさを形作っている。
亜生は早く逃げ出したくて、たまらず口を開いた。
「失礼します」
「亜生、待てよ!」
大紀の言葉に耳を貸すこともなく、亜生は振り返らずに部屋を出る。
彼女の隣を横切った時、大紀のスーツに毎度微かに残っている甘い香りがした。
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