第11話 後編

 亜生が打ち合わせ場所に戻ると、架は未だ蘇堂の担当者につかまっていた。

 架の隣に腰を下ろした亜生は、少しだけ心に落ち着きを取り戻す。

 架が話の合間あいま、亜生に小さく声を掛けた。

「佐久田くん、もしかして……」

 そう途切れると、架の顔が青く見えた。

「いえ、大丈夫です。ちょうど、奥様が来てたみたいで」

 意外にも淡々と言葉が出た自分に、亜生は驚いた。大紀の妻と鉢合はちあわせしたばかりで動揺しているはずなのに、今は不思議と冷静になっている。

「あのー、もしかして、うちの香山の?」

 蘇堂の一人が口を挟む。

「えっ? ええ。隣に」

 亜生が返答すると蘇堂側が騒ついた。亜生が架と顔を見合わせた時、別の人が口を開く。

「よくお見えになるんです。そうそう、この資料にもお名前が」

 亜生は再び架と顔を見合わせると、互いに手元にある資料に目を向けた。

 数枚めくったページの中央に『藪沢やぶさわ聖花せいか』と名がある。

 担当者の話では『蘇堂の大株主のご息女そくじょ』で、仕事は旧姓で続けているとのこと。蘇堂グループの役員でもある父親の代わりをすることもあって、言うなれば〈強力な後ろだて〉のような存在らしい。

 亜生は彼らの話を耳にしながら、自分が大紀に選ばれなかったことが腑に落ちたような気がした。


 大紀が優しかったから気に留めることは少なかったけれど、勉強や仕事に関しては昔から向上心があった。

 だから亜生は、大紀は公私混同しない人間だと勝手に思い込んでいたのかもしれない。

 ……それでも、彼は出世のために結婚するような人じゃない。亜生の知る大紀は、野心はあってもいつでも誠実だった。

 だから、彼はおそらく恋をしたのだろう。今の彼の妻に……。


 その時再び、女性の声が聞こえる。

「お仕事中、失礼します。アオさん、いらっしゃいます?」

 亜生は嫌な予感しかしない。


 * * *


 聖花に呼ばれるまま、亜生は再び隣のミーティングルームに入る。

 窓の傍で、大紀がばつの悪そうな顔をして立っていた。

 聖花は部屋の照明を点けると、早速口を開く。

「あなたが、アオさん?」

「……はい。佐久田亜生と申します」

 亜生は平静を保って言葉を返しながらも、冷や汗が背中を伝っていく。

唐突とうとつに申し上げますけど、香山とどういうご関係で?」

 躊躇ちゅうちょなく話を切り出す聖花は、全てを見透みすかしているかのような目をしていた。

 大紀が何か言いたげにしているけれど、聖花が両目で制す。

 亜生はたまらずつばを呑んで、恐る恐る答えた。

「あの、その、俺は……、同じ学校の、後輩です」

 嘘ではない言葉で、亜生は場を収めようとした。

 聖花は答えに納得がいかないのか、亜生を問い詰める。

「『寝言うわ言で、あなたの名前を呼ぶ関係』、の間違いじゃないですか?」

「えっ……」

 冷ややかな目つきで自分を見つめている聖花に息を呑みながら、亜生は彼女に返す言葉を探す。

 間違っても「自分はゲイで、ご主人の元彼です」だなんて、言える訳がない。

 亜生を一点に見る聖花の顔は、全ての表情筋が硬直こうちょくしているかのように一切崩れない。……まるで、蝋人形。

 聖花は答えを返してこない亜生に痺れを切らしたのか、さらに言葉で詰める。

「答えられないということは、お認めになるんですね」

「いいえっ、そんな……」

 聖花の冷たい視線に、亜生はどう切り出そうか迷う。

 本当のことは言えない。だけど取りつくろうにも、逃げ切るだけの答えが見つからない。

 その時、背後から低い声がする。

「お取り込み中、申し訳ありません」

 亜生の荷物を手にした架が、中へと入ってくる。

 架は亜生の手をとった。

「これ以上は私的なことですので、お答えできかねます。私たちは、これで失礼します」

 架が聖花の隙をつくように告げる。

 亜生は架に手を引かれるがまま、ミーティングルームを出た。


 * * *


 架に連れられてエレベーターで下に向かう中、亜生は口を開いた。

「あの、新條さん。……ありがとう、ございました」

「ごめん。『守る』って言っときながら、俺……、ごめん」

 架は俯いた。

 何の関係もない架を結局は自分たちの痴情ちじょうのもつれに巻き込んだと、亜生はスーツの袖を握る。

「謝らないでください! 俺が……」

 ゲイだから、と続きが言えずに亜生は口籠る。

「香山さん、学校の先輩だったんだね。ええっと、ごめん。さっき聞こえちゃって」

「あっ、いえ。はい……」

 亜生が返事をすると、架はそれ以上何も聞かなかった。


 架に繋がれている自分の手を、亜生は見つめていた。本当は今すぐにでもこの手を離すべきとは分かってはいる。けれど、今はそれができない。

 架の手はあまりにも心地よくて、温かくて、優しくて。このまま永遠に繋いでいたいとさえ感じていた。

 だから架が自ら手を離すまでは離さないでいようと、亜生は彼の親切心に甘えた。


 架は部署の前まで亜生の手を繋いでいた。

 部署にいる時の架は、大概女性たちに囲まれている。先ほどまで繋がれていた彼の手が遠い昔のように感じて、亜生は途端に現実を突きつけられた気分だった。

 架の行動は動揺していた自分のことを思ってのことだろうと、亜生は深く考えないように気持ちを切り替える。

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