第12話 前編

 昼下がり、部署で仕事をしている亜生の元に「蘇堂の人が来ている」と、受付から連絡が入る。

 話によると「新條さんではなく、佐久田さんを」と、名指しで呼んでいるとのこと。

 席の隣を見ると、架の姿はない。

 亜生は不安になりながらも、「蘇堂の人」が待つ受付へと向かった。


 不安が押し寄せる中、亜生はエレベーターを降りる。

 そこには、完全に見覚えのある後ろ姿。

 亜生は何度も深呼吸を繰り返してから、彼の後ろから歩み寄る。


「香山さん、どうされましたか?」

 声を掛けた亜生へと、大紀は振り返った。

「亜生、そんな他人行儀はやめてくれ」

 大紀は眉を顰めて、溜め息を交える。

「私用なら、失礼します」

 亜生は毅然きぜんとした態度を示して、大紀に背を向けた。

 唇が、膝が、震えている。これは失恋の副作用だと、亜生は自分に言い聞かせる。

 突然、大紀に腕を掴まれた。

「待て! 大事な話があるんだ。どこか二人だけで話せる場所はないか?」

 大紀の真剣な眼差しに、亜生はまんまとほだされる。


 * * *


 別階、亜生は空室のミーティングルームに大紀を連れて入る。

 壁際に長い一連の白いテーブルと、前には椅子が複数並んでいる。

 亜生は大紀と距離をとるようにして、窓際へ数歩進んだ。

 二人きりの沈黙に、耐えられそうにない。

 出す声が震えることは分かっていた。それでも、亜生は言わずにはいられなかった。

「ご用件は、なんですか?」

「亜生。二人でいる時に、そんな話し方をするな」

 大紀は持っていた鞄を近くのテーブルの上に置いた。

「あの。話がないのなら、仕事に戻ります」

 震える声を止められないまま、亜生は彼に背を向ける。

 本当は大紀がどんな話をしだすのかと、不安でたまらない。

 亜生は彼に悟られないように胸の前で手を強く組んだ。

「俺の名前を呼んでくれ。亜生」

「えっ……」


 次の瞬間、亜生は大紀に後ろから抱きしめられる。

 大紀の顔が亜生の肩に乗って、彼の両手は腰をらえている。

「呼んでくれ、俺の名前を」

 大紀からは、二人の思い出の香りが漂う。

 昨日の今日でりもせず、彼はなぜまたこんなことをするのだろうと、亜生は唇を噛んだ。

「お願いだ。呼んでくれ、亜生」

 それで気が済んで帰ってくれるのならと、亜生は口を開く。

「香山さん」

「違う。『大紀』……だ」

 大紀の髪が、亜生の頬に触れる。彼の腕の力が先ほどよりも強くなったような気がして、亜生は次第に怖くなる。

「たい……、大紀、くん」

 もう呼ぶこともない思っていた彼の名前を口にした。呼び慣れていたはずなのに、初めてのような気分だった。

「……もう一度」

「大紀、くん」

 恐怖にあおられて震える唇を、亜生は歯で抑えつける。けれどどうにもたまらず、目を強く閉じた。

「亜生、もう一度」

「た、いき……、くん」


 そんなやりとりを何度か繰り返していると、大紀は静かに息を吸い込んだ。

「なあ、亜生。なんで、今まで俺の名前を呼ばなかった? 前はあんなに呼んでくれたのに」

 身勝手にも思える彼の言葉に、亜生は怒りを覚えた。

「俺たちはもう、そんな関係じゃないよ」

 亜生は噛み砕くように言いながら、大紀の手を引きがそうとした。

 けれど、彼は腕の力を逆に強める。

「亜生。俺たち、やり直そう」

 囁く大紀に、亜生は耳を疑った。

「何言ってるの? 大紀くんはもう結婚してるんだよ。昨日だって、お、奥さんが、俺たちのこと、勘違いして……」

「違わないだろ! 俺たちは付き合ってた。愛し合ってた。今だって、俺は……、亜生を愛してる」


 聞きたくなかった。

 彼が、今、それを言うなんて……。


 両手の平を強く丸めて、亜生は奥歯を噛んだ。

「亜生を感じていたくて、この香水も手放せない。脅して、無理やりキスして、ごめん。でももう、限界なんだ……」

 まるで今までのことがなかったかのように耳元で呟く大紀に、亜生は自然と言葉が雪崩なだれる。

「『俺とやり直す』って、奥さんと別れるの? ……できないのに、そんなこと言うな!」

 語尾を荒げた亜生は、再び大紀の手を引き剥がそうとした。


 その時、亜生の体が浮き上がる。

 目の前が回った。テーブルの上に押し倒された亜生の顔に、大紀の顔が近づいてくる。

 亜生は逃れようとした。けれど大紀に両腕を押さえつけられて、身動きがとれない。

「ちょ、何、やっ、やめて!」

 大紀を止めようと、亜生は言葉を投げつけた。

「俺は、亜生が好きなんだ。他のやつの話はするな!」

 亜生の唇に大紀の唇が勢いよく落ちる。

 抵抗する亜生を、大紀の唇が制する。

「んん! むんん!」

 その時、大きな音がした。


「おい! 何してんだよ!」

 声とともに、亜生の前から大紀が消える。

 次に亜生の視界に現れたのは、架だった。

 架に体を起こされた亜生が見たのは、片膝を立てて床に座り込んでいる大紀の姿。

 架の低く優しい声がした。

「大丈夫? ああ、唇が切れてる」

 その言葉に、亜生は慌てて口元を手で隠す。不甲斐ふがいない気持ちが込み上げてきて、架の顔がまともに見れない。

 架が座り込む大紀の前に立つ。

「香山さん、いい加減にしてもらえますか」

 架は厳しい口調で大紀に告げると、なぜか亜生の手をとる。

「佐久……、亜生の『今の恋人』は、私です。お引き取りください」

 亜生は幻聴げんちょうかと呆然ぼうぜんとする。

 青天せいてん霹靂へきれきとは、まさにこのこと。

「行こう、亜生」

 架に手を引かれて、亜生は大紀を部屋に残したままその場を離れる。

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