第12話 後編

 亜生が架に連れられた先は、普段は人の出入りの少ない別フロアにある資料保管室だった。

 静まり返った室内。小窓から射す陽の光に照らされるように、時折ちりが浮かぶ。

 隅に並ぶように置かれたテーブルには、ラベルが貼られた箱や書類ケースが積み上げられている。

 間仕切りのようにある書類棚の前、二人は互いに音一つ立てずに無言のまま。


 亜生は自分の身に起きたことに、頭の整理が追いつかない。

 今、確実に分かっていることは、繋がれた架の手の温もりだけ。


「あの、佐久田くん。その、……合ってたかな?」

「……えっ?」

 顔を上げた亜生の前には、俯く架の横顔。

「ごめん。俺、そので揉めてるのかなって思ったから。だから、その……」

 架の『嘘』で助けられたことを、亜生はようやく理解できた。

 いくら蘇堂の担当者だからといって、彼にここまでさせておいて、このまま本当のことを黙っているだなんて、同僚としても、人してだって、道理が通る訳がない。

 亜生は心を決めて架の手を離す。

「……合ってます。その、俺は『ゲイ』なんです。香山さんは、俺の恋人でした」

 速度を上げる脈、亜生は一旦息を整え直してから言葉を続ける。

「さっきは、ありがとうございました。それと、あんな嘘を吐かせて、本当にすみませんでした」

 亜生はそう言い終えると俯いて、切れた唇を指で触れた。


 架に話すのは、正直怖かった。けれど薄々気づかれていたのなら、このおのんで隠していても仕方がない。だけど……、変えることのできない自分の性の事実に、亜生の胸は潰れそう。


「それはいいんだ。それより、……今も、好きなの?」

「えっ?」

 自分にとって重大なことであった問題を、こんなにも容易に受け流されるとは、亜生は思ってもみなかった。要点までもがすり替っている。

 亜生は驚きながら顔を上げるも、言葉に詰まった。

 架も顔を上げた。彼は一度微笑むと、噛み砕くようにして亜生に問いかける。

「ええっと、その、つまり……、『合意の上』だったのかなって」

 架の漆黒の瞳を見た瞬間、亜生は不意に涙が込み上げる。

「あっ、あれ? なんで……」

 気が緩んだのだろうか。亜生は自分でも驚いた。

「終わってないの?」

 架の静かな問いかけに、亜生は首を何度も横に振った。

「俺たちは、去年別れてます。彼が悪いんじゃないんです。俺が、はっきり言わなかったから……」

 再び顔を伏せた亜生の背に、架の手が触れた。

 大きくて温かい彼の手に背中を優しくさすられる度に、亜生は次第に脈も心も落ち着いていく。

「男でも女でも、合意じゃないのは、恋でも愛でもないと俺は思う」

 彼の言葉に亜生が顔を上げると、架は眉を顰めていた。

「あの。き、気持ち悪くないんですか?」

「何が?」

「お、俺のこと……」

「なんで?」

 架はなぜか不思議そうな顔をする。


 亜生は少しだけ救われたような気がした。

 大紀が何を思って、自分が本当は何を思っているのか、考えれば考えるほど分からなくなって、その度に架が答えへと導いてくれると、亜生は改めて思い知る。


「もっと頼ってほしい。俺を」

 架は真剣な表情を浮かべている。彼の優しくも頼もしい気遣いに、亜生は再び涙が込み上げる。

 するとなぜか、架は両手で亜生の涙を拭い始めた。頬に触れている彼の手は、繋いだ時よりも熱く感じる。

 亜生はもどかしいような照れ臭いような気持ちになって、架に念を押した。

「あの、俺はゲイなんです。だからその、こういうことしないでください。新條さんが大変です」

「そうかな?」

 架はそう言って頬を緩める。

 同性相手にも関わらず、彼はこういう時の扱いにさえ慣れているように見えた。


 亜生は初めて「自分が『女』ならよかったのに」と思った。

 大紀といた十年の間でさえ、そんなことは思わなかった。

 亜生は自分にとっての架の存在が、何か特別なように感じ始める。

 架が恵たちのように『性の違い』を受け入れてくれたと思うだけで、溢れる涙を止めることができなかった。

 自分の涙を受け止め続ける彼に、亜生は次第に胸が高鳴っていく。

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