第27話 後編

 バスルームの壁に両手を突いて、架は頭からシャワーを浴び直した。

(『好きだ』とか『愛してる』って、伝えると、こんなにも震えるものなのか……)

 緊張が、止まらない。シャワーを浴びれば気持ちも整うと思ったのに、心臓が口から今にも飛び出しそう。


 流れ落ちる湯が頭からつま先まで伝い続けて、架は片手で顔を拭う。


「誕生日を祝い直す」だなんて、もちろん本心だけど、半分は言い訳みたいなものだった。

 本気で愛していることを早く伝えたくて、気ばかりがいて、チャペルの十字架の下で颯爽さっそうと渡そうと決めていた指輪だって、結局ソファーに置いた鞄の中に忘れたまま。

(『恋』って、怖い)

 前から準備をして、明澄に話を付けていたことだとはいえ、日取りだとか、亜生の予定だって聞いて、本当は綿密めんみつに進めていくはずだったのに、まさかそれが今日の今日になるとは……。

(明澄も、呆れただろうなぁ……)


 架は唇を指で辿る。

 亜生の小さくも柔らかい唇の感触が、今も残っている。

 彼は少し震えていたけれど、怯えていた訳ではない。

 確かに、少々強引に彼をここに連れてきたのは認める。それでも「亜生を愛してる」と、言葉で伝えるだけは意味がないと思った。


 彼は自身がゲイだということに、負い目を感じすぎている。

 ノーマルの自分が一人で「好きだ」なんだと騒いでも、彼の心にある傷や経験で、信用することは難しいのかもしれない。

 だからこそ、彼の不安要素は一つ残らず取り除いてあげたい。

 それができるのは……、いや、他の誰にも、その役目を渡すつもりはない。

(俺の気持ち……、『亜生を愛してる』っていう気持ち、一生、伝えていこう)

 架は自分の右手の平を見つめた。

 先ほど触れた亜生の唇、頬の感触が、この手にも残っている。


 幼さが馴染なじむ赤く染めた可愛い顔、指通りのよい茶色い髪に白い肌は熱く、彼の潤んだ瞳には、自分だけが映っていた。


 胸が壊れそうなくらい、彼への愛が溢れてくる。これほどまでに、誰かを「愛しい」と思ったのは、生まれて初めてだった。

 周りはあれこれ言うのだろう。けれど、「同性」だとか、そんなものは関係ない。

 正直、自分にとって「性別の壁」なんてものは、どうでもよい。


 彼を、『亜生』を愛してる。


 架はシャワーを止める。

 頭を軽く振って、髪の水分を飛ばした。

 近くにあったバスローブを羽織はおりながら、鏡に目を向けると、眉間に皺が寄った自分がいて、なんとも情けない顔をしていた。

 これが俗に言う、「愛のとりこ」となった男の姿。

 架は不意に、小さく笑いが込み上げた。

(……悪くないな。『愛に生きる』のも)

 バスタオルを被ると、架は髪を拭きながらベッドルームに向かった。

 

 落ち着いた明かりの中、大きなベッドの上で愛しい彼が……、眠っていた。

 彼は長い睫毛を伏せて、静かな寝息を立てながら、クッションを抱いている。


 架はベッドの淵に腰かけた。

 無防備といってよいほど、亜生の寝顔は穏やか。安心しきった彼の寝姿は、逆に架の心を温かくする。

(本当、可愛いな。たまんない)

 架は自然と頬が緩む。

 寝息とともに揺れる亜生の睫毛を、架は人差し指で触れた。

「ん……」

 幼く唸る亜生に、架は再び頬を緩めた。


 そのまま、架は亜生の唇に、自分の親指を沿わせる。

 起きる様子のない亜生へと、架は唇を一度重ねる。

 唇を離すと、架は彼の額から頬を撫でた。

 毎秒、彼への愛しさが募る。


 架は亜生の隣に横になった。

 片肘を立てて、彼の寝顔を見つめる。

 不意に、亜生がこちらに寝返りを打つ。

 囁くように、架は名前を呼んだ。

「亜生」

「んん……」

 亜生は開き切らない目を擦る。

 架は亜生の額に静かに口づけた。

 彼の鼻先から口元に、架は唇を滑らせる。

 亜生は一瞬微笑むと未だ寝ぼけまなこで、再び目を閉じる。

 今度は、彼の瞼から鼻先を通って口元へ、架は唇を着地させた。

 亜生は薄く開いた上目遣いで、架をうつろに見つめる。

 彼の茶色い瞳は、架を捉えたまま。

 架も見つめ返す。

 亜生のあどけなく気の緩んだ表情に、架は思わず笑みが零れた。


 彼は目が覚めてきたのか、気恥ずかしそうに両手で架の目元を覆う。

「そんなに、見ないで」

 温かい亜生の手の平、架は睫毛を動かす。

「照れてるの? 亜生は可愛いなぁ」

 暗くも和やかな視界の中で、亜生の小さく笑う声が聞こえる。

「ふふっ。くすぐったい」

 亜生のその反応に、架はさらに睫毛を動かせてみた。

 架の視界が開けた時、亜生は目尻を下げて頬を緩めていた。

 自然と、架は亜生の頬に触れる。

「亜生、好きだよ」

 架は亜生の額に口づける。

 亜生の瞳は潤んで、部屋の柔らかなあかりを受けて輝いている。

 不意に、架は濡れた髪が顔に流れ落ちて、自ら掻きあげた。

 途端に亜生が、とろけたような顔を見せたから、架はその一瞬で心臓を掴まれる。

 架の唇は、亜生の唇に重なっていた。


 まるで、世界に二人きりみたいな静穏せいおん

 互いの口元の音だけが聞こえた。


 どちらともなく唇が離れると、亜生は再び瞼を重くしていて、架は思わず笑みが浮かぶ。

「亜生、眠っていいよ」

 その言葉に釣られたのか、彼は小さく欠伸をした。

「じゃあ、新條さんも」

 恋人になったばかりの彼の可愛いお願いに、架はたまらず頬が緩む。

「そうだね。おやすみ、亜生」

 架は亜生の瞼にキスをした。

 亜生は一足早く眠りに就く。


 微笑むような亜生の寝顔は、いつまででも見ていられる。

 彼は、辛いこと、苦しいこと、嫌な思いもたくさんあっただろう。特に「ゲイ」というだけで、人知れず十字架を背負ってきたのかもしれない。

 けれど、一人で抱えて生きているそのたくましさも、彼の魅力みりょくの一つ。


 彼は弱い訳ではない。

 少しだけ強がりで、臆病なところがあるだけ。それだって、誰もが持っている感情。

 彼を守ってあげたいだなんて、傲慢ごうまんな考えかもしれない。彼もそんなこと望んでいないかもしれない。

 だけど、叶うのなら、自分が彼の保護者で、守護者で、彼の人生最愛の人になりたい。

「これからは、俺がいる」と、架は眠る亜生の頬を撫でながら、彼の心に呼びかける。

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