第26話 前編

 亜生は架に連れられて、自宅マンション前でタクシーに乗り込む。

「どこに行くの?」と聞いても、架は手を繋いだまま微笑んで「うん」としか答えない。


 三十分ほどすると、繁華街に入った。

 大きな建物の前でタクシーが止まる。

 タクシーから降り立ってから、ここが老舗の超高級ホテルだと気づくまで、時間は掛からなかった。


 架は亜生の手を引いて、ホテルの中へと入っていく。

「ちょっと待ってて」

 亜生をロビーのソファーに座らせると、彼はフロントへと向かった。


 吹き抜けの暖色のロビーの上から、大きなシャンデリアが存在を放つ。

 その横には末広すえひろがりの木製の大階段があって、段は全て模様が入ったカーペット生地。

 傷や汚れもない、磨かれた床。

 入口からフロントまでの間、ところどころに生けられた花が置かれて、噴水ふんすいまである。

 亜生でも一度くらいは写真か映像で見たことがある、有名な場所。

 そんな空間の一部分に突然一人で取り残されて、亜生は場違いな自分に落ち着かない。


 しばらくして架が戻ってくると、再び亜生は彼に手を引かれる。エレベーターホールで扉が開くのを待った。

 亜生の腰に、架が手を回す。

「ちょっ、人に見られるから」

 亜生がためらっていると、今度は架に手を握られて、数機あるエレベーターの一つの扉が開く。


 乗り込んだ機内の階数表示が見る見るうちに二桁に達して、とある階で止まった。

 扉が開いて、エレベーターを降りる。

 正面には、ガラスの扉。

 架が傍にある台のようなものにキーをかざすと、その扉は自動で開いた。

 少し歩いたあと、一つの部屋の前で架が足を止める。

 ルームナンバーの上には、アルファベットのようなものが複数並んでいる。

(ス……、スイー……ト?)

 亜生が解読している途中で、解錠する音が聞こえた。

「えっと……、新條さん?」

 架に問いかけてからまもなく、亜生は彼に開けた扉の中へと手を引かれる。


 目の前には、亜生の自宅リビングが軽く二つは入るほどの空間が広がっていた。

 高価そうな調度品や装飾品、近くには複数の扉が見える。

 架は座り心地のよさそうなソファーの上に鞄を置いた。

 亜生は大きな窓に向かって足を運ぶ。

 広がる紫の闇の中で、何色にも煌めく無数の明かり。

「綺麗……。何、ここ……」

 亜生が吐息混じりに呟いた時、不意に背後から抱きしめられる。

 亜生の首筋から左頬へ、架の鼻元が静かに滑る。

 突然のことに、亜生の心臓があわただしく脈を打ち始めた。


「今日、泊まるところ」

 架が亜生の耳元に囁く。

「急になんで……?」

「誕生日、祝い直す」

 亜生の問いに、架が言い足した。

「でっ、でも、プ、プレゼント、いただきました……」

 何がどうなっているのか分からずに亜生が硬直していると、架が言葉を続ける。

「その前に、付いてきて」

 鞄だけを残して、亜生は再び架に手を引かれて部屋を出た。


 つい先ほど乗ってきたばかりのエレベーターで、今度はさらに上の階へと昇っていく。

 次に扉が開くと、黒のスーツを着た一人の男の姿があった。


「お待ちしておりました」

 そう声を掛けてきた男は、ホテルの従業員のようだった。

 サイドに向かって流れる整った黒髪に、綺麗な顔立ち。背筋の通った引き締まった体。背は架と同じくらいの高さ。

 亜生は反射的に、繋いでいる架の手を振り解いたけれど、彼に掴み返される。

 戸惑う亜生に比べて、架は素知らぬ顔をしていた。

「急で悪かったな」

 架が言葉を返すと、男は途端に砕けた言い方で話し始める。

「本当にね。確かに色々と驚いたけど、まあ、幸せで何より」

「こちら、この前話した俺の恋人、佐久田亜生さん」

 架のその紹介の仕方に驚きとときめきで心が飛び跳ねて、亜生は思わず架の顔を見る。


 架に色々と聞きたいことがあるけれど、亜生は二人の会話に口を挟めずにいた。

「初めまして。私、当ホテルのマネージャー兼架の友人の、仁科にしな明澄あずみです」

 明澄はそう言って亜生に名刺を差し出すと、彼は握手を求めている。

「は、初めまして。佐久田です」

 亜生は頭の中が追いついていないまま握手に答える。

 明澄は笑顔を浮かべた。

いつもお世話になっています」

「えっ?」

 亜生が思わず首を傾げると、明澄は今度は微笑む。

貴社きしゃの営業部の『仁科』は、私の弟なんです」

「あっ……、仁科くん」


 隣の部署の仁科くんこと仁科和真かずまは、亜生もよく知る。

 恵が異動してくる前までは、仕事でも頻繁に顔を合わすことがあって、亜生は和真とも親しくなった。というか、「なついてくれた」という方が正しいのかも……。

 いつも温和で親切な和真もまた、この兄と似て容姿がすぐれているから、社でも人気。


「話に聞いた通りの美人だ」

 不意に明澄が言った。その言葉に、亜生は急に恥ずかしさが込み上げる。

 亜生は明澄の握手から静かに抜け出そうとすると、反対に彼に手を握られた。

 架は気づいたのか、明澄の手を振り払う。

「ちょっ、握るな!」

 亜生は架の背後に寄せられた。

 架の一連の行いに、亜生は熱を帯びた頬を片方の手の甲で押さえる。

「美人だったから、つい。佐久田さん、すみません」

「次はないからな」

 表情を緩める明澄に向かって、架がくぎを刺す。

 途端に、明澄は仕事の顔へと切り替わり、かしこまる。

「それでは新條様、佐久田様。ご案内いたします」

 架は亜生の腰を抱き寄せて、言われた通りに明澄の後ろに付いていく。


 目の前に現れた天井と連なる白い扉の前、明澄は立ち止まる。

「大変恐縮きょうしゅくではございますが、本日は私が、お二人に立ち会わせていただきます」

 明澄はそう言うと、目の前の扉を片方ずつ順に開いていく。

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