第25話
「佐久田くんとは、随分と仲がいいんだね」
営業部から自分の部署に戻る途中、休憩室の方から亜生の耳へと声が漏れてきた。
「ああ、分かります? そうなんですよ」
先ほどの声はどうやら峯島のもので、次に聞こえたのは笑みを含んだ架の答えだった。
この時間、通路では人の行き来がない分、壁や天井に反響しているのか、彼らの会話がより鮮明に聞こえている。
立ち聞きするのもなんだと思い、どこかで時間を潰そうと、亜生は体の向きを変えた。
「でもまさか、新條くんがうちの社長令嬢と見合いするとはな」
それを耳にした途端、亜生の歩みが止む。
心臓はまるで動きを止めたかのように、空気の
「確か先週だったか。……ああ、そういえばその後、結婚の話はもうしたのか?」
「まあ、なかなか上手くはいかないですね」
架の言葉が、亜生の全身を突き刺す。
亜生の下唇は小刻みに震えて、下の奥歯が上の奥歯を打ち鳴らすのが止まらない。
(先週……?)
亜生は重力に引っ張られるみたいに、頭が下がる。
自分の心臓を握るように、亜生はシャツの胸元を片手で掴んだ。
(同じだ……。去年と同じ……。なんで? 俺って、なんなの?)
寂しいだとか辛いだとか、そういった感情より、自分の居場所が最初からどこにもないのだと、ただ一人、闇の中に取り残された気分だった。
「あれ、えっ? どうしたんだ? 何かあったのか? 佐久田くん? 涙が……」
突然目の前で、峯島の声が聞こえる。
亜生が頭を上げた時には、両目から涙が溢れ始めたところだった。
亜生は力ない声で、咄嗟に言葉を紡ぐ。
「あっ、いえっ、め、目に、な、何か入ったみたいで」
幸い、峯島は「目を擦らないように」「目薬はある?」と、それを疑わない。
峯島の後ろから、人影が見えた。
「えっ、亜生? まさか、今の聞いて……」
「す、すみません。失礼します」
架の声を遮るように、亜生は峯島にそう告げると、彼らに背を向けて走った。
後ろから架の声が付いてくるけれど、亜生は初めから立ち止まる気はない。
* * *
気づいた時には、亜生は自宅マンションの玄関の前にいた。
外は陽が落ちかかって、空は青と
玄関の扉に浮かんだ自分の影を目にした時、亜生はようやく肩の力が抜けた。
解錠して、中に入る。
明かりのない静まり返る部屋を見るなり、亜生は再び一人、真っ暗闇に戻ってきたことを実感する。
その時、亜生は架がこの闇に浮かんでいた『一点の光』だったと理解した。
小さな優しいその光を失った今、もがくことも思考さえも
玄関からリビングへと続く廊下の壁に背をもたれると、亜生はフローリングの上に座り込んだ。
鞄と脱いだ革靴とが不揃いに横たわって、亜生は両膝を胸に抱き込む。
堰を切ったように、涙が溢れ出す。
泣いたところで何かが変わることはないけれど、今はただ、涙に身を任せた。
しばらくして、インターホンの音が聞こえる。
動く気力さえ持てない亜生の耳を
その時、インターホンの音の中に扉を叩く音が混じる。
「亜生! 亜生っ! いるんだろ! 開けてくれ!」
一番聞きたくなくて、一番聞きたい声に、亜生の呼吸が止まる。
「亜生! 亜生!」
何度も自分の名前を呼ぶ架の声は、扉を一枚隔てているだけなのに、別の空間から聞こえてくるみたい。
いつの間にか声に引き寄せられるように、腰を上げた亜生の足が勝手に動き始める。
耳を覆っていたはずの手は、いつしかドアノブを握って扉を開けていた。
隙間から伸びてきた手が、ノブにかかる亜生の手の上に降りる。
「亜生、好きだよ」
架は扉の僅かな間から中を覗き込む。
彼の手は、温かい。
つい絆されそうになっていた亜生は、正気を取り戻したように架の手を扉の外へと押し込もうとした。
けれど逆に架に掴まれて、亜生は咄嗟に声が出る。
「帰ってください! な、何しに来たの」
「『愛してる』って、伝えるために来た」
亜生は不覚にも、胸が熱くなる。
けれど、付けたままのドアチェーンの張る音が抑止弁となって、亜生は我に返った。
ドアノブを握る亜生の手に力が入る。
「忘れるとこだった……。新條さん、ノーマルだもんね」
「亜生、俺は……」
「『女性』が、好きなんだもんね」
亜生は声が震えた。
改めて言葉にしてみると、互いが違う世界にいる現実を思い知らされる。
だからこそ、亜生は言葉を続けた。
「俺のこと、からかって楽しかった?」
「ちょっ、亜生、何言って……。とにかく、これ外してくれ」
亜生は架の声を聞き流しながら、彼の手を引き剥がす。
「冗談にしても、笑えないよ」
亜生はそう言いながら、扉の隙間へと架の手を押し込む。
「令嬢が亜生のこと好みだって知って……。俺……、亜生を取られたくなかった」
(えっ? 今、なんて……)
薄く開いた扉の向こう、架が顔を伏せながら噛みしめるように話す。
「俺、誰にも亜生を取られたくないんだ」
(何言ってるの? 新條さん……?)
「確かに見合いはした。だけど、それは、破談にするためだ。亜生にも、もちろん俺にも、『大事な人がいるから』って」
架は顔を上げた。目尻は下がり、眉を顰める彼の瞳は潤みを帯びて赤くなっている。
亜生は目の前の架と彼の今の言葉に、頭の中が整理しきれない。
呼吸だけが浅くなる。
「あ、相手は、しゃ、社長令嬢でしょ? そんな事したら、新條さん……」
再び、架の手が亜生の手を掴む。
「仕事よりも何よりも、俺は、亜生が大事なんだ。亜生がいればいい!」
架が語気を強めた。
ところが次には、亜生を掴んでいる彼の手から力が抜ける。
「俺は、亜生がいないと、もう、生きていけない」
か細い声で架が言った。亜生に重なる彼の手が、指先まで震えている。
「俺から、亜生を奪わないでくれ……」
亜生は胸の奥が締めつけられて、自然とドアチェーンを外していた。
架の胸の中へ体を
亜生は彼の胸に何度も呟く。
「ごめん、新條さん。……ごめん」
亜生が架の両腕に包まれると、扉の閉まる音がした。
つい先ほどまで、家の中は底のない、果てのない暗闇だったのに、今は架の熱い腕の中で、自分の心音と重なるように、耳元から彼の心音が聞こえている。
小さな優しい一点の光が舞い戻った奇跡を、亜生は噛みしめた。
「ごめんな、亜生。……好きだよ」
架の声が彼の胸にも響いて、亜生の耳元から体中に流れてくる。
亜生は架の腕の中で何度も頷いた。
彼のシャツの肌触りが、熱くなった亜生の頬には心地よい。
架の手が、亜生の背中から首へと上がってくる。彼の手が亜生の頬で止まると、彼は体を少しだけ離した。
互いに見つめ合う。
架の漆黒の潤んだ瞳が近づいて、鼻先同士が軽く触れ合うと、亜生の唇に彼の艶やかな唇が触れた。
架の唇が、亜生の下唇へと優しく吸いついて、再び何度も何度も重ねては繰り返す。
静かに唇を離した架が、亜生の耳元に囁いた。
「亜生、そろそろ行こうか」
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