第20話 後編

 昼食を終えて、亜生は恵とともに会社前まで戻ってきた。

 エントランス付近、何やら見覚えのある女性がこちらに向かって近づいてくる。

 亜生は自然と歩みが止まった。

「どうした? 亜生」

 恵の声にも返事ができないほど、亜生は足が竦んで、その場から動けない。

 その時、女性が数歩先で足を止める。

「佐久田さん。お伝えしたいことがあって、お待ちしていました」


 大紀の秘書の、呉石咲だった。

 彼女は一歩前に出て、再び言葉を発する。


「この度は、申し訳ございませんでした」


 一瞬、何を言われているのか、亜生は分からなかった。

 だけど、目の前で、咲が頭を下げている。


「すみませんが、何をおっしゃってるんです?」

 そう間に割って入った恵の目は、完全に座っていた。

 咲が頭を上げて、真っ直ぐにこちらを見つめる。

「全ては私情を挟んだ私にあります。……本当に、ごめんなさい」

 再び、咲は頭を下げた。

 亜生は思わず恵と顔を見合わせる。

 おそらく今、自分も彼と同じ、呆気にとられた顔をしているに違いない。


 その時、咲が声を震わせる。

「私は、あなたと……、お、同じなんです」

「……『同じ』?」

 亜生の疑問を、恵が代弁した。

 顔を上げた咲は、瞳と鼻を赤くしている。

「私は、聖花さんの後輩で……。ずっと、今も、私は……、聖花さんが、好きなんです」

「えっ……」

 亜生はそう零したまま、言葉が続かない。

 思ってもみなかった、というか亜生自身、おそらく恵も、咲の好意の矛先が、まさか大紀の妻『聖花』だとは、想像もしていなかった。


「おい、どういうことだ?」

 恵は低い声で咲に唸る。

 亜生は宥めるように、恵の腕を後ろに引いた。

「恵! 落ち着いて。俺、ちゃんと話、聞きたい」

 亜生の言葉に、恵はこちらを見た。それから息を一つ吐いて、再び咲へと向き戻る。

「話、続けてください」


 咲は肩を竦めると、か細くなった声で話し始める。

「私はただ……、彼女の幸せを守りたかっただけなんです。……ただ、それだけだったのに……」

 咲の大きな両目から今にも涙が落ちそうになっていたけれど、恵は厳しく言葉を投げた。

「説明になってませんが」

「……すみません」

 咲はそう言うと指で涙を拭って、呼吸を整え直す。

「聖花さんに、頼まれたんです。佐久田さんを香山常務から引き離してほしいと。だけど彼女は、それだけでは気が済まず……、佐久田さんから全てを奪おうしたんです」

 亜生は背筋に寒気が走る。


「自分が身を引いた」だなんて、美学でもなんでもないとは分かっている。それでも、偽善者でもなんでも構わないから、愛した人の幸せを望んだ。それだけだったのに……。


 目の前で涙を浮かべる彼女も、自分と同じ想いを抱えていたのかもしれない。そう思うと、亜生はやりきれない気持ちになった。


 恵の腕を掴む亜生の手から、力が抜ける。


「『だから自分は悪くない』とでも言いたいのか? アンタが聖花さんに手を貸したことには変わりないだろ!」

 平静だったはずの恵が、歯茎を見せながら咲へと言葉を浴びせた。

「ご、ごめんなさい……。私、そ、そういうつもりで言ったんじゃ……」

「じゃあ、どういうつもりだ? 俺たちに話して、自分の罪への意識を軽くするためか?」

「そんなっ……。私はただ……」

「恵!」

 たまらず、亜生は再び恵の腕を引いた。その間も、恵は鋭い目で咲を見ている。

 咲は震えている唇から声を絞り出す。

「さっ、佐久田さん。も、申し訳、ありませんでした。謝罪で済むこととは、思っていません。……今日は、それを伝えに来ました。そして、新條さんとの件についても」


 なぜ、架の名前が出たのだろう。咲は大紀の秘書で聖花の後輩。当然彼らの話だと思っていたのに、違うみたい。


 咲は息を整え直すと、襟を正した。

「今回の、聖花さんのことにつきましては、私が、全て収めます。近日中に、弊社からも、この度の、一連の責任についての話があるかと思いますので、今しばらく、お待ちいだたけますでしょうか」

 深々と、咲が頭を下げる。


 自分だけでどうこうできないくらい、コトは大きくなっている。

 ただ恋をして、そして、それは終わりを告げた。それだけだったのに……。

 悔しさにも悲しさとも似ていて違う、言いようのない感情が込み上げて、亜生はスーツの上から胸を掴む。

 嫌な気分なことだけは、確かだった。


「どう収めるのかしら」

 急に新たな女性の声が聞こえた。視線を向けた先に、恵の妻の美里が立っていた。

 美里は凛とした表情で咲へと足を進めると、亜生たちの前に割って入る。

「さっきから、随分と上からな言い方ですね。そもそも、謝罪に来る人も場所も、おかしいと思いませんか?」

「それは……。いいえ、そうですね。仰る、通り、です」

 顔を上げた咲の声が、しぼんでいく。

 美里は冷静に言葉を発する。

「『当事者』は、こちらへいらっしゃるんですか?」

 咲は首を横に振る。両肩を震わせながら、彼女は美里へと返す言葉を探しているようだった。

 美里はわざと咲へ聞こえるように、溜め息を吐く。

「あなたがここに来ても、何も解決しません。帰った方がいいですよ」

 咲は青い顔をして一礼すると、立ち去った。


「美里、ありがとう」

 恵は苦笑いを浮かべた。

「話は聞いてたけど、今どんな状況なの?」

 美里が恵に問いかけている。亜生は居心地が悪くて、心が落ち着かない。

「亜生ちゃん、大丈夫?」

 美里は優しく微笑んでいる。

「うん、大丈夫。ありがとう、美里ちゃん。恵も。……ごめんね、ありがとう」

 亜生はこれ以上二人に迷惑を掛けないようにと、笑顔を作る。


* * *


 美里に連れられて、亜生は恵のマンションに帰った。

 玄関に上がってリビングへと進むと、櫂と昭良がソファーに座っていた。

 美里と同様、二人は恵から連絡を受けていたらしく、亜生は櫂に促されるがままソファーに腰を下ろす。


 昭良が亜生の肩に手を置いて微笑む。

「疲れただろ。今日は、俺と櫂も付いてるから」

 亜生は膝に置いた両手の平を握って唇を噛んだ。

 心細かったのを見抜かれていた気がして、亜生は親しい彼らの存在に安堵している自分が情けなくなる。

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