第15話 前編

 蘇堂グループのエントランス。いつものように受付を済ませる架の後ろ姿を、亜生は複雑な感情で見ていた。

 架と二人で担当者の待つフロアへと向かうエレベーターの中、蘇堂に来る道中もあまり話をしなかった彼が突然、亜生の手を握る。

 驚きで、架の手を振り払った亜生は、彼の背中を向けて咄嗟に言葉を掛けた。

「あのっ! 先日は、ご迷惑をお掛けして、すみませんでした」

 架の反応は無言。彼はしばらく間を置いてからこう答えた。

「何のこと?」

 亜生は振り返る勇気がなかった。「どれのこと?」と聞かれるよりは、よかったのかもしれない。

「その、香山さんから、助けていただいた時のことです。……俺、今日は大丈夫ですから」

 亜生の言葉に、架は再び黙ったままだった。


 エレベーターがフロアに着く。

 扉が開くと、亜生はいたたまれずに先にエレベーターを降りた。

 いつものミーティングルームの前にはすでに担当者がおり、その中には当然大紀が、そして咲の姿もある。

 未だに亜生が選んだ香水を着けている大紀の顔には、疲労が見て取れた。

 一方、咲の顔には、今日も作り物のような笑顔が張りついている。


 ミーティングを終えた瞬間、咲が架を呼び止めた。

 二人は揃って部屋から退出していく。

 彼らの仲はどのくらい進展したのだろう、と亜生はどことなく落ち着かない。

 そう思ったのもつか、今度は亜生が大紀に呼び止められる。

 眉を顰める大紀は、先ほどよりもさらに疲れているような印象だった。

「亜生、いいかな。いいよな」

 大紀は返事を聞く気もなく、亜生の腕を強く掴んで部屋を出る。


 大紀に連れられて歩く通路。その途中の壁のくぼみ、人影があった。

 大紀は気づいていないのか、そのまま進んでいく。

 けれど突然、大紀の足が止まった。亜生の腕を掴んでいる彼の手の力が強くなる。

 大紀の腕越しから首を傾けた亜生の目の前には、抱き合っている架と咲がいた。

 背を見せる架の肩をへだてて、亜生は咲と目が合う。

 その時、彼女は亜生に向けて不敵な笑みを浮かべた。

 亜生は途端に動揺する。下唇から震えが始まって、亜生は無意識に大紀の腕を振り払う。

 大紀は亜生の腕を掴み直すと、なぜか体の向きを変えた。彼は元来た通路を引き返そうとしている。


「亜生!」

 今の亜生にしてみれば、心臓を一撃で貫かれるような、自分の名を呼ぶ架の声だった。

 震えが残る亜生が再び視線を向けると、架は慌てた様子で咲を退けて、こちらへと向かってくる。

「香山さん、どういうつもりですか」

 架が片方の眉を釣り上げている。

 大紀は一つ息を吐いてから振り返った。

「それは、こちらが聞きたい」

 大紀は亜生の前に背を向けて立っていて、その表情は分からない。亜生の腕を掴む彼の手は、未だ力が強い。

 亜生は頭の中が混乱していた。それでも、架と咲はすでに抱き合うほどの仲だということは、充分に理解できている。それから、戸惑っている自分がいるということも。

「何をです?」

 架は眉間に深く皺を寄せながら近づくと、亜生の腕を掴む大紀の手を掴み返す。

「手を離してください。先日も言いましたが、亜生は……」

 架の言葉の続きを、大紀は勢いよく遮る。

「君は何を言ってるんだ?」

 大紀の顔を確認するまでもなく、彼の低い声の中に怒りがあることを感じる。


 彼らが今、自分が原因で対峙たいじしていると思うと、亜生は身が縮こまっていく。

 いたたまれない。無関係である架に対して申し訳ないと思う気持ちと、自分が寄せている架への好意の板挟みで、亜生の胸は強く締めつけられる。

 その時、大紀が架の手を振り払って言った。

「亜生、今日は俺が送る。行こう」

「亜生っ!」

 何度も自分の名前を呼ぶ架に、亜生は一度も振り向くことができなかった。

 大紀に連れられるがまま、亜生はエレベーターに乗り込む。


 * * *


 亜生は大紀に手を引かれて、互いに終始無言のまま蘇堂のエントランスを抜ける。

 正面に、停車しているくろりの乗用車が一台。傍にはピンストライプ柄の黒のスーツを着た男性が立っていた。

 男性が、車の後部扉を開ける。

 大紀は亜生に開いた扉の中へ入るよう促した。突然そんなことをされて、亜生は驚き混じりにためらう。

 大紀は「会社まで送る」と言って、亜生を車の中へと押し込みながら隣に乗り込んだ。


 走る車内に、沈黙が流れる。

 亜生は気まずさのあまり、目の前の運転席へ何度か視線を走らせながら、窓の外へと顔を向けた。

 降り始めたしずくは窓ガラスで雨の筋となって、雨音と動き始めたワイパーの音が車内に響く。

 外の流れていく景色よりも、架と咲が抱き合っていた場面が亜生の脳内で繰り返される。

 不意に、亜生は左手の甲に温かさを感じた。それは次第に指の間へと進むと、やがて手の平ごと包まれる。

 亜生は慌てて離すけれど、再び温もりが手を覆う。


 亜生が溜め息混じりに大紀の手から抜け出ようとした時、彼は口を開く。

「ごめん」

 声に釣られて、亜生は大紀の顔を見た。

 彼は俯きながら、左手で目元を押さえている。

 温かい手とは対照的な彼の様子に、亜生は胸が痛み出す。

「全部、俺のせいだ。俺が全部悪い」

 大紀の声が、か細くなっていく。

 未だ俯く彼の姿に、亜生は自分の今の気持ちを明確に伝える言葉を探す。

 けれど先に、再び大紀が口を開いた。

「俺が悪かった、ごめん……」

 己を責める大紀を目の当たりにして、亜生は自分が、自分の恋愛が、好きな人を、いや、好きだった人を、未だに苦しめているということに悲しくなる。

 亜生は自然と、彼の手を静かに握り返していた。

「……違うよ。違う。大紀くんは悪くない」

 そう伝えるだけで、精一杯だった。

(悪いのは俺だから)

 声に出せばよかったのだろう。けれど、どうしても嫌だった。

 自分がゲイだというだけで、なぜこんなにも罪悪感で押し潰されそうになるのか。亜生は下唇を噛んだ。

 顔を上げて亜生を見つめる大紀の表情は歪み、両目と鼻の頭が赤くなっている。

 彼に今こんな顔をさせているのも自分だと思うと、亜生はたまらなく胸が苦しかった。

 大紀の手が、亜生の頬に触れる。

 左手は未だ温かいまま、彼が優しく目を細めた。彼は親指の腹で亜生の頬を横へ横へと撫でる。

 その時、亜生は自分が涙を流していることに気づいた。

 亜生の睫毛へ大紀の唇が降りてきた。それはとても優しく、熱い感触だった。

 けれどすぐさま、亜生の耳に規則的な音が届く。

 運転席から聞こえてくるウインカーの音は、亜生の理性を呼び戻した。


「やめて」

 我に返った亜生は、自分の頬に掛かる大紀の手を静かに下ろす。

 今、自分は何を思っていた? 何を考えていた? 人目があることも忘れて、何をしていたのだろう。亜生は俯きながら片手で頭を押さえる。

「大丈夫だ。彼には守秘義務がある。今のことは誰にも言わない」

(守秘義務……?)

 大紀の言葉が、亜生の心に引っかかる。

 確かに、彼は取引先の常務であり、しかも既婚者。けれど今、『男』である亜生の手を握って、その『男』の流れる涙を拭い、さらにはその『男』の睫毛に口づけまでしておきながら、それを『守秘義務』という一言で片づけた。

 公にはできないことをしている自覚が彼にはあるのかと、亜生は途端に冷静になる。

 秘密でいること、それ自体は大紀と付き合っていた頃と変わらないはずなのに、亜生はなぜか自分がみじめだと感じてならなかった。


 ちょうどその時、車が停まる。

 車窓から見えたのは、よく知る建物。

 降りようとする運転手に気づいた亜生は、大紀の手を抜ける。

 亜生は慌てて自分の傍の扉を開けて外に出る。車内に向かって「送っていただき、ありがとうございました」と、亜生はあくまでも取引先の人間として言葉を掛けた。

 亜生は雪代社のエントランスへと一目散に走り出す。

 背後から自分の名を叫ぶ大紀の声が聞こえた。

 亜生は彼に振り返ることもせずに、社内へ入る。


 部署に戻った亜生は、峯島に蘇堂とのミーティングの進捗しんちょく状況を報告した。

 それから亜生は未だ架が戻っていないことを幸いと、何度目かの早退をもぎ取る。

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