第14話 後編
ハサミの合わさる音が店内に響く。
髪に
亜生と恵は昔から櫂と昭良のカットモデル兼練習台で、今もこうして定期的に彼らは色々としてくれる。
されるがままでいるだけで、終わる頃には新たな自分に仕上がっている。
「じゃあ、次。シャンプーな」
櫂がそう言って、亜生に着せた長いケープのようなものを脱がせた。
シャンプー台で髪を洗われていると、毎度とろけるような眠気が押し寄せてきて、亜生はいつも負ける。それから起こされて、皆で笑い合いながら席へと戻るまでがお約束。
昭良のブローが終わると、鏡の前で綺麗に整った、けれど少し幼くなった自分と対面した。
「前回より少し短くなったから、朝、楽だと思うよ」
櫂が亜生の毛先を揉み上げながら、鏡越しに微笑む。
「ありがとう」
そう言いながら亜生が笑い返すと、櫂が急に昭良の名前を呼んだ。
鏡の中、二人は小声で何かを話している。
「あの……」
亜生が
「うーん、『憂う美少年』だな」
(憂う、び、美少年……?)
幼くなったと自分でも実感はしたけれど、「美少年?」と亜生は鏡に映る自分を見回す。
仕事が詰まっていてやつれた女顔に、薄茶色の瞳は充血。最近は外回りもしないから、元の色白がさらに白くなって、増えたように見える前髪が童顔に拍車を掛けている、ような……。
自問自答している亜生に、櫂が言った。
「亜生の背中を押そうとしたんだよ」
「『背中』って?」
そう亜生が問いかけると、櫂は思ってもみない言葉を続けた。
「亜生。今、好きな人いるだろ」
「えっ? 好きな人……」
櫂に言われて、口から声が零れた亜生の
途端に顔が火照っていくのが分かった。
自分が思う『好きな人』がいつの間にか変わっていたということに、今、初めて気づいた。
「店に入ってきてから『恋煩いの溜め息』すごかったからな。どんな人? 俺たちも知ってる人?」
昭良に微笑みながら鏡越しで尋ねられて、隣の櫂は目を輝かせながら今か今かと亜生の答えを待っている。
正直、この状況に自分が一番付いていけていない。
(『好きな人』って……、嘘……、本当に? 俺、新條さんのこと、す、す、好き?)
つい先ほどまで大紀との恋愛で心が痛んでいた自分が、まさか他に、新たに、好きな人がいたなんて。〈恋煩いの溜め息〉とは、あれは
次第に亜生は、顔そして体へと熱が広がる。
『亜生』
架にそう呼ばれた時、悪い気はしなかった。むしろ、時間が経つほどに嬉しさが込み上げてきて、心は温かくなっていた。
だからといって、自覚したからといって、これから架とどうなる訳でもない。
架はノーマル。しかも、もうすでに咲を、女性を紹介した。
初めから、行き場のない想いだった……。
いつしか亜生から熱が引いていた。
代わりに胸の奥が締まり始める。やがて痛みに変わると、涙となって亜生から溢れ出した。
悟ったかのように、櫂が口を開く。
「亜生。もっとわがままでいいんだぞ」
彼の言葉は、今の亜生には重かった。
自分が、自分の存在が、周りに迷惑を掛けている自覚があるからこそ、わがままになんて、なれない。なってはいけない、と亜生は下唇を噛む。
「なあ、亜生。人は幸せになれるんだ。もっと欲しがれ」
櫂は頭を撫でてくれたけれど、亜生は彼の手に光る指輪が目に入ると、途端に
(俺の気持ちなんて、幸せな櫂くんたちに、恵たちに、分かるはずないよ……)
亜生は今、優しくされればされるほど、自分は、自分の恋愛は「不幸そのものだ」と感じてならなかった。
「そうだね、ありがとう」
亜生は気持ちとは
櫂はまだ何か言いたいような顔だったけれど、亜生は口角を上げて笑顔を作ると席を立つ。
亜生は二人に礼を言って、預けていたスーツのジャケットを昭良から受け取った。
店の出入り口。焦茶色の木目の扉を開けると、外は雨が上がって夜が始まっていた。
昭良が傘立てから亜生の折り畳み傘を手渡してくれた。自分を見送るために店先に出ている二人に再び挨拶をして、亜生は足早に店をあとにする。
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