第14話 前編
梅雨入りが発表された曇り空の午後。
亜生と架は、峯島から『香山が諸事情でプロジェクトから外れる』と蘇堂から連絡が入ったことを聞く。
実際に外れる時期はまだ先らしい。
意外にも、架は峯島に理由を
峯島は眉を顰めながら何かを考えているようだった。そのあと切り替えるようにして「仕事に戻って」と彼が笑顔を見せたので、亜生と架はともに席に戻る。
亜生は胸を撫で下ろしていた。大紀との関係を始めるつもりもなかったし、彼の幸せを壊すようなことをしたくない。彼の人生は、ようやく元ある正しい道に戻る。自分と関わって
亜生は息を一つ吐いてから、目の前の資料に目を通していく。
「佐久田くん、前回のレジュメのコピーってどこにある?」
架が
「それなら、紙の方ですよ」
亜生はデスク下の引き出しに入っていた紙を手渡す。
「そこにあったんだ。ありがとう」
架は笑顔を浮かべると、再びPCに向き戻った。
数日前に簡易応接室で話して以来、亜生は架と今のような『同僚』という距離感を保てている。仕事に私情を挟んで迷惑を掛けたあとだもの、正しい付き合い方だと思う。
本音を言えば、寂しい。世間のメインストリーム上にいない自分を、架は嫌な顔一つ見せずに認めてくれた。架だけじゃない、大紀もだった。彼らの生活に、未来に、自分が関わっては、いてはいけない。
(これで、よかったんだよ)
亜生は何度も頭の中で言葉を繰り返す。
単調な日々を取り戻して、安堵している自分もいた。恋だとか、愛だとかで、自分のために誰かが傷つくのは耐えられない。
亜生は自分に付けた『重り』で今日も心を制す。
午後に再び、亜生は峯島に呼ばれる。
亜生の企画が最終選考に残ったと、彼は笑顔を浮かべていた。
「プレゼン、期待してるよ」
亜生は襟を正して「はい!」と大きく返事をした。
自分の席に戻った亜生は、公私混同していた最近の自分を
* * *
梅雨も
ここのところ仕事脳だったから、今日は息抜きも兼ねて、櫂と昭良に会いにいく。
亜生は鞄の中から折り
真っ直ぐに続く大通り沿いを道なりに歩く。夏の
傘を叩く雨音が激しくなっていく。こういう時は、寄り添う男女の対ばかりが目に入って、自分には訪れない光景に余計に虚しさが募る。
亜生は傘の
数十歩先に立ち並ぶ店舗に目的の美容室を捉えると、まるで虹を見つけた時みたく、亜生の心が軽くなる。
はやるような気持ちを抑えきれず、店の
扉の内側、上の
この鐘は櫂が純喫茶の
道路側の一面のガラス張りに五台ほどの鏡が並んで、閉店時間を少し超えた現在は、当然ながら他の客の姿はない。
空調の音がよく聞こえる店の中に、小石を投げ入れるかのように亜生は声を掛けた。
「こんばんは」
一番奥の鏡越しで櫂と目が合う。笑顔を浮かべた彼の中性的な顔も、照明の具合で黒髪がほのかに赤くなるのも、櫂と恵はよく似ている。
自分の日常に戻ったようで、亜生はようやく心が落ち着いた。
「ちょっと待ってて。昭良!」
櫂はそう言いながら、長いモップのようなもので床を
そんな櫂の姿を見て安心したのか、亜生の口から深い息が漏れる。
入り口の傍のカウンター近く、奥にあるであろう扉の開く音が聞こえた。腰にハサミなど入ったものを付けた昭良が、店内へと顔を見せる。
「外、暑かっただろ。冷たい飲み物持ってくるから、ここ座ってて」
落ち着いた声で端正な昭良の顔が柔らかく微笑むと、亜生はスーツのジャケットを後ろから脱がされた。
すぐ傍の席へと誘導されると、入れ替わりで櫂がやってきた。
昭良と同じく、櫂も腰にハサミなどが入ったものを付けて、加えてパーマ液のような匂いがした。
櫂が亜生の両肩に手を置きながら、優しい声で言う。
「仕事、お疲れさま。ちょっと痩せたんじゃないか?」
確かにここ一週間ほど、まともな食事をしていない。梅雨の蒸し暑さとか、プレゼンの準備もあって、昼食時に社食に行くことも足が遠のいていた。自分が行かなければ、休憩時間に架と顔を合わせることもなくて安心だったし、仕事が忙しくて毎日が充実しているのを実感できていたけれど、食べることにまで気が回っていなかった。
亜生は再び、溜め息が漏れる。
櫂は亜生の毛先を指で触りながら、口を尖らせた。
「ちゃんと食べないと。髪にも栄養が回ってない」
不意に櫂の片手が目に入る。昭良との揃いの指輪。
渋い銀色が、二人の
二人とも仕事の時は外していると聞いていたけれど、営業時間を過ぎたからか、今は左手にある。
元々、櫂と昭良は家が隣同士ということもあって、二人は幼稚園からの幼馴染。亜生も幼い時に恵と出会ってからは、自分にとっても彼らは「兄」のような存在で、櫂と昭良も亜生のことを恵と同じく「弟」同然に思ってくれている。
恵から聞いた二人の馴れ初めは、二人が高校生の当時、櫂の誕生日前日に昭良が押し倒したことにより、互いが『両想い』でしかも『初恋』だと分かったらしい。
それからもう十年以上、今では彼らは
「櫂、あんまり亜生ちゃんをいじめるなよ」
昭良はアイスティーの入ったグラスを亜生に手渡しながら、櫂を
櫂が反論を繰り出していたけれど、昭良は彼の横に立ったまま「はいはい」と受け流しつつも、彼に優しい顔を向けている。
亜生はアイスティーを口に運ぶ度に、溜め息が漏れた。
互いを想い合って、愛し合って、支え合って、同じ十年愛なのに、二人の姿を見ていると、これが本物の愛だと思えて仕方がない。それと同時に、自分と大紀の関係はそうではなかったという事実が、含んだアイスティーが口の中に染みていくように、心の
「じゃあ、今日は、カットとトリートメントだな」
櫂の言葉で、亜生は感傷から温かい現実に呼び戻された。
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