第14話 前編

 梅雨入りが発表された曇り空の午後。

 亜生と架は、峯島から『香山が諸事情でプロジェクトから外れる』と蘇堂から連絡が入ったことを聞く。

 実際に外れる時期はまだ先らしい。

 意外にも、架は峯島に理由をたずねることもなく「分かりました」と一言だけだった。

 峯島は眉を顰めながら何かを考えているようだった。そのあと切り替えるようにして「仕事に戻って」と彼が笑顔を見せたので、亜生と架はともに席に戻る。

 亜生は胸を撫で下ろしていた。大紀との関係を始めるつもりもなかったし、彼の幸せを壊すようなことをしたくない。彼の人生は、ようやく元ある正しい道に戻る。自分と関わって消耗しょうもうした彼の十年、一日でも早く彼に返そう。今の自分にできることは、それぐらいしかない。

 亜生は息を一つ吐いてから、目の前の資料に目を通していく。


「佐久田くん、前回のレジュメのコピーってどこにある?」

 架がめずらしくPCとにらめっこをしている。眉間に皺を寄せたり、小首こくびを傾げたり、人差し指で額を掻いたり。いつも美しい所作しょさでキーボードをタイプしている架の見慣れない姿に、亜生は思わず笑みが零れそうになるのを軽い咳払いで耐える。

「それなら、紙の方ですよ」

 亜生はデスク下の引き出しに入っていた紙を手渡す。

「そこにあったんだ。ありがとう」

 架は笑顔を浮かべると、再びPCに向き戻った。


 数日前に簡易応接室で話して以来、亜生は架と今のような『同僚』という距離感を保てている。仕事に私情を挟んで迷惑を掛けたあとだもの、正しい付き合い方だと思う。

 本音を言えば、寂しい。世間のメインストリーム上にいない自分を、架は嫌な顔一つ見せずに認めてくれた。架だけじゃない、大紀もだった。彼らの生活に、未来に、自分が関わっては、いてはいけない。

(これで、よかったんだよ)

 亜生は何度も頭の中で言葉を繰り返す。

 単調な日々を取り戻して、安堵している自分もいた。恋だとか、愛だとかで、自分のために誰かが傷つくのは耐えられない。

 亜生は自分に付けた『重り』で今日も心を制す。


 午後に再び、亜生は峯島に呼ばれる。

 亜生の企画が最終選考に残ったと、彼は笑顔を浮かべていた。

「プレゼン、期待してるよ」

 亜生は襟を正して「はい!」と大きく返事をした。


 自分の席に戻った亜生は、公私混同していた最近の自分を刷新さっしんするためにも、目の前にある仕事に集中して全力で取り組もうと、心の中で気合いを入れる。


 * * *


 梅雨もなかばになり、亜生は仕事終わりに美容室へと向かっていた。

 ここのところ仕事脳だったから、今日は息抜きも兼ねて、櫂と昭良に会いにいく。


 最寄もより駅に着いてすぐ、雨に降られる。

 亜生は鞄の中から折りたたがさを取り出して差した。

 真っ直ぐに続く大通り沿いを道なりに歩く。夏の気配けはいがして、蒸し暑い。道路はいろゆたかに街の灯りを跳ね返して、両側のビルとの隙間から見える暗い灰色の空に、ぼんやりした太陽の光が残っている。

 傘を叩く雨音が激しくなっていく。こういう時は、寄り添う男女の対ばかりが目に入って、自分には訪れない光景に余計に虚しさが募る。

 亜生は傘のはしを片手で手繰り寄せると、俯きがちに足を進めた。

 数十歩先に立ち並ぶ店舗に目的の美容室を捉えると、まるで虹を見つけた時みたく、亜生の心が軽くなる。

 はやるような気持ちを抑えきれず、店の軒下のきしたで慌てて閉じた傘の雨水を軽く振り払う。傍の傘立てに入れてあと、亜生は焦茶色こげちゃいろの木目の扉を開けた。

 扉の内側、上のすみに昔ながらの小さな鐘のドアチャイムが一つ付いていて、綺麗な単音が数回打ち鳴らされる。

 この鐘は櫂が純喫茶の雰囲気ふんいきが好きで取りつけたと、前に昭良から聞いたことがある。


 柔和にゅうわな明かりに包まれた店内は涼しい。

 道路側の一面のガラス張りに五台ほどの鏡が並んで、閉店時間を少し超えた現在は、当然ながら他の客の姿はない。

 空調の音がよく聞こえる店の中に、小石を投げ入れるかのように亜生は声を掛けた。

「こんばんは」

 一番奥の鏡越しで櫂と目が合う。笑顔を浮かべた彼の中性的な顔も、照明の具合で黒髪がほのかに赤くなるのも、櫂と恵はよく似ている。

 自分の日常に戻ったようで、亜生はようやく心が落ち着いた。

「ちょっと待ってて。昭良!」

 櫂はそう言いながら、長いモップのようなもので床をいていた。

 そんな櫂の姿を見て安心したのか、亜生の口から深い息が漏れる。

 入り口の傍のカウンター近く、奥にあるであろう扉の開く音が聞こえた。腰にハサミなど入ったものを付けた昭良が、店内へと顔を見せる。

「外、暑かっただろ。冷たい飲み物持ってくるから、ここ座ってて」

 落ち着いた声で端正な昭良の顔が柔らかく微笑むと、亜生はスーツのジャケットを後ろから脱がされた。

 すぐ傍の席へと誘導されると、入れ替わりで櫂がやってきた。

 昭良と同じく、櫂も腰にハサミなどが入ったものを付けて、加えてパーマ液のような匂いがした。

 櫂が亜生の両肩に手を置きながら、優しい声で言う。

「仕事、お疲れさま。ちょっと痩せたんじゃないか?」

 確かにここ一週間ほど、まともな食事をしていない。梅雨の蒸し暑さとか、プレゼンの準備もあって、昼食時に社食に行くことも足が遠のいていた。自分が行かなければ、休憩時間に架と顔を合わせることもなくて安心だったし、仕事が忙しくて毎日が充実しているのを実感できていたけれど、食べることにまで気が回っていなかった。

 亜生は再び、溜め息が漏れる。

 櫂は亜生の毛先を指で触りながら、口を尖らせた。

「ちゃんと食べないと。髪にも栄養が回ってない」

 不意に櫂の片手が目に入る。昭良との揃いの指輪。

 渋い銀色が、二人のはぐくむ愛の時間の長さを感じさせる。

 二人とも仕事の時は外していると聞いていたけれど、営業時間を過ぎたからか、今は左手にある。


 元々、櫂と昭良は家が隣同士ということもあって、二人は幼稚園からの幼馴染。亜生も幼い時に恵と出会ってからは、自分にとっても彼らは「兄」のような存在で、櫂と昭良も亜生のことを恵と同じく「弟」同然に思ってくれている。

 恵から聞いた二人の馴れ初めは、二人が高校生の当時、櫂の誕生日前日に昭良が押し倒したことにより、互いが『両想い』でしかも『初恋』だと分かったらしい。

 それからもう十年以上、今では彼らは夫夫ふうふのように寄り添って一緒にいる。


「櫂、あんまり亜生ちゃんをいじめるなよ」

 昭良はアイスティーの入ったグラスを亜生に手渡しながら、櫂をさとす。

 櫂が反論を繰り出していたけれど、昭良は彼の横に立ったまま「はいはい」と受け流しつつも、彼に優しい顔を向けている。

 亜生はアイスティーを口に運ぶ度に、溜め息が漏れた。


 互いを想い合って、愛し合って、支え合って、同じ十年愛なのに、二人の姿を見ていると、これが本物の愛だと思えて仕方がない。それと同時に、自分と大紀の関係はそうではなかったという事実が、含んだアイスティーが口の中に染みていくように、心のおくふかくへと伝っていく。

「じゃあ、今日は、カットとトリートメントだな」

 櫂の言葉で、亜生は感傷から温かい現実に呼び戻された。

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