第3話

「よし、今日も一日穏やかに」

 清々すがすがしい朝の青空の下、亜生は自分に言い聞かせるようにつぶやく。

 天然の薄茶色の髪がそよ風に揺れる。通い慣れた桜の並木道は、緑の葉を付けたまま。

 初夏が近づいてきたことを、自然と体で感じさせてくれる。

 住む街も人々も、淡々と季節を重ねていく。

 時折強く吹く風が人肌を恋しくさせるけれど、亜生は恋をすること、誰かを愛すること、まして永遠を誓い合うことなど、「ない」と悟っていた。


 昨年の梅雨の夜。亜生は自分の誕生日に、十年付き合った恋人と別れた。

 『おめでとう』と言われるはずだった日に自分から彼にその言葉を贈った時、亜生は無理に笑っていたのか、それとも苦しい顔をしていたのか、自分がどんな状態だったか今も思い出せないままでいる。

 ただ一つ分かったのは、彼との恋を大事にしすぎて壊れた瞬間だったということ。


 彼は何度も会いに来た。

 何十回、何百回とも連絡が入っていた。

 亜生は結局、一度も会わなかった。会えなかった。


 ある日の寒い夜。亜生の一人暮らしのマンションの玄関の扉越しで、彼は結婚後も「亜生と別れるつもりはない」と声を零した。


 お前は二番だ、と言われた気がした。


 好きな人から一番聞きたくなかった言葉。

 彼から『さよなら』と言われるのが怖くて、亜生は扉に向かって自分から最後の別れを、再びの『さよなら』を告げた。

 彼は扉の向こう側で「愛してる」と呟いた。


 半年後、彼の結婚式がおこなわれたことを知る。


 亜生は彼が去った翌週には引っ越しをしていた。

 彼との想い出だけが詰まった部屋に、一人でいることは耐えられなかったから。

 以前彼に同棲どうせいを持ちかけられたのを断っていて正解だった、と何年越しに亜生は自分をめた。

 今は会社近くのマンションに住んでいる。

 彼と付き合っていた頃は、人目を避けて、息をひそめながら暮らしていた。

 今は、彼のいないさびしさの反面、ほんの少しだけ息がしやすいような気もしている。

 前に住んでいた部屋に残っていた彼の私物は、下着をふくめた着替え数枚と、中身が三分の一ほど残った香水のびんだけ。

 十年もの間、二人で一緒にいたのに、「彼のもの」と言えるものは少なかった。

 ペアのものはあったけれど、グラスや茶碗ちゃわんはしなどの日用品。それも引っ越しを機に全て処分した。


 大紀は揃いのリングを買いたいと、何度か言っていた。

 本当は、亜生も欲しかった。いつも二人で一緒にいると思えるから……。

 けれど、それを自分の指に着けたら、再び周りにらぬ噂が立つのではないかと、亜生が首を縦に振らなかった。

 結局は、自分のわがままを彼に一方的に押しつけただけ。口に出して理由を言えばよかったのだろうけれど、彼にゲイへの偏見へんけんを背負わせたくなかった。

 今となっては、結果論にすぎないけれど。


 自分が『ゲイ』だということは、家族とちかしい人以外には公言していない。

 高校生の時、学校の生徒の間でどこからともなく「亜生が同性愛者」だと噂が広まっていたことがあった。

 登下校や授業中に休み時間も、自分へと明らかな『嫌悪けんお』の視線を向けられていることに、亜生は不快を通り越して恐怖を感じた。

 自分だけじゃなく「本来ノーマルの彼にも同じ視線を向けられる」と、それを機に亜生は彼との関係を隠すようになった。

 どこで誰に見られてもよいようにと、それからの亜生は、学校の内外問わず、常に自分が「ノーマル」かのように振る舞うようになる。

 大紀には訳は言えず、亜生がそうするということだけを伝えると、彼は納得はしてくれていた。

 高校は違えど、大紀とは同じ大学だった。

 だから大紀と別れた今も、亜生は周りからは、彼の「後輩」もしくは「友人」だと認識されていることだろう。

 彼に対しても周囲にも、今日こんにちまで余計な波風を立てずに済んだから、その点に関してだけは、自分の判断は正しかったと思う。


 毎朝、亜生は華奢きゃしゃな体をスーツでおおう度、気を引きしめ直している。

 自分の半分が彼でできていた部分を埋め固めるようにして、心にも体にも『重り』をつけるために。

 鏡の中には服は違えど、毎日見慣れた自分だけがいる。

 小さい時から「女の子」と見間違われてきた顔立ちは今でも名残なごりがあって、薄茶色の髪と瞳と、男性にしては血色のよい唇で、色白の肌がより一層際立きわだっている。

 ベージュのトレンチコートで身を包み直した亜生は、変わらず今日も会社へと向かう。


 * * *


「『うちの会長の孫娘と婚約』とかっていう話だぞ」

 昨日の恵の言葉が、頭の片隅で静かに何度も繰り返される。

 部署の自分の席に着いたまま、亜生は自然と架を目で追っていた。

 隣の席で仕事をしていたかと思えば、同僚から声が掛かって、取引先からの連絡は鳴り止まない。

 その間にも、架の周りには女性が入れ替わりやってくる。

 皆が皆、ねこで声で『相談に乗ってほしいことがあって』『近くに新しいカフェができた』とかなんとか、話の終わりには必ず付け加える。

 なかには露骨ろこつなまでに誘う女性もいたりして、先ほどから数えても、すでに六人目。

 架は彼女たちの誘いを断る訳でもなく、だからといって前のめりに乗る訳でもなく、いたって紳士的な態度と言葉で躱していた。

『仕事はできるけど……』

 恵が聞いた噂もあながち間違ってはいないのかもしれないと、亜生は妙に納得して目の前のPCへと向き戻った。


 席へと戻ってきた架が、不意にこちらへと椅子を寄せてきた。

 亜生の鼻先に、架の清爽せいそうな香りが掠める。

「ねえ、佐久田くん。今晩の夕食、何にするの?」

 言葉とともに肩に感じた温かさに、亜生は思わず顔を上げる。

 微笑んでいる架に戸惑いながら、亜生は言葉を返した。

「分かりません。俺は、用意してくれているのを、食べるだけなので」

「えっ? それって、どういうこと?」

 架が意外にも踏み込んでくる。

 至近距離にある彼の顔に、亜生は今にも息が止まりそうになった。

「そ、その、夜は恵と……、あ、昨日一緒にいた幡川と、一緒なので……」

 突然、架は数秒ほど天井を見上げた。

 顔を戻した架は、今度は亜生の椅子を回して体を向かい合わせる。

「二人きり?」

 架はなぜか眉間みけんしわを寄せていた。

 亜生は驚きとともに瞬きが増える。

「いえ、三人、ですけど? 幡川と、彼の奥さんと、俺、です」

 亜生がそう答えると、架は途端に微笑み顔になって、「そうなんだ」と独り言のように何度も繰り返しながら互いの椅子を戻す。


 その時、亜生の視界に恵が現れる。

「亜生、この前の丸和まるわ百貨店のプレゼン用で使った資料、まだ残ってる?」

「へっ? あっ、ああ、うん。ちょっと待って」

 亜生はPCに保存していた資料を恵に手渡した。

「ありがとう。ああ、そうだ。今日、仕事終わったら、迎えにくるから。待ってろよ」

 恵はそう言うと、部署へと戻っていった。


 隣の席の架から問いかけられる。

「佐久田くん、丸和百貨店の担当なの?」

「俺は直接の担当ではないんですけど。販促はんそく用の事前マーケティングの時にもらった資料があるので」

 亜生が答えると架はしばらく何かを考え込み、再び口を開いた。

「確か先週、丸和に海外コスメブランドが国内初出店したよね。佐久田くん、もう行った?」

「いえ、まだです。今週末に行こうかなとは思ってて」

(よかった。普通に仕事の会話ができてる)

 亜生が胸をで下ろしながらPCに向き戻ると、突然自分の椅子が右に向く。

 次には架とひざを突き合わせていた。

「それ、俺も一緒にいい? 実は丸和の経営企画部に俺の妹がいるんだ。色々と話も聞けるし」

 架は再び微笑んだ。

 亜生は自分の置かれている状況というか体勢たいせいに恥ずかしさを感じながらも、彼の魅惑的みわくてきな笑みに負ける。

 俯きながら、亜生は答えた。

「……あの、ぜひ、お願いします」

 架は途端に満面の笑みを浮かべる。

「本当! 嬉しいな。じゃあ、くわしいことは、またあとでね」

 言い終えた架の元に、また女性が数人訪ねてきて、彼は再び彼の世界へと戻っていった。

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