第2話

 大手化粧品会社『雪代社ゆきしろしゃ』企画開発部。

 新年度を迎えて、亜生がつとめるこの部署にも一人の男性が配属された。

 朝の部署内、彼の紹介が始まる。

 見るからに容姿は端麗たんれい。大窓から注ぐ朝日も相俟あいまって、彼の美しく均整きんせいのとれた体と陶器のような白肌に後光が差しているように見えた。

 代わり映えのしない生活を送っている亜生には、彼の姿が太陽そのもののように気高けだかく映る。

 無駄に落ち着きを放つ彼を、亜生は無意識にも一点に見つめていた。

 不意に、目と目が合う。

 亜生が驚いてまばたきを繰り返すと、彼なりの礼儀なのか、手慣れたようにこちらに向かって微笑んだ。

 彼の名前は、新條しんじょうかける。以前は関連会社に出向しゅっこうしていたらしい。

 それはこの会社で、いわば『出世』を約束されていることを意味する。


 挨拶が終わり、亜生が席に着いて仕事を始めると、声を掛けられた。

「初めまして。佐久田亜生さん?」

 低くておだやかな声は、架の端麗な顔立ちによく似合う。

 架が漆黒しっこくの瞳を向けながら再び微笑んだ。左目尻のほくろが印象的で、長い睫毛まつげが優雅に動く。

「佐久田亜生さんだよね? 俺、この部署の人の顔と名前、覚えてきたんだ。隣同士、よろしくね」

 彼は潤いのある唇からそう言葉をつむぐと、白い歯を見せた。

 心地よい爽やかな香りがする。瞳と同じ色をしたつややかな黒髪は、サイドからき上げて片耳へと掛かる。女性向けのフェロモンをはっしていることは間違いない。

 だからこそ、亜生にとって彼は『別世界の住人』に感じた。


 架は隣の席に座ってからも、こちらを見ながら微笑んでいる。

「俺ね、一個上なんだ。だからお互い敬語はやめよう。これからよろしく、佐久田くん」

 彼は人との付き合い方に慣れている様子。

 自分に向けられる視線に、亜生は少し落ち着かない。忘れたつもりのあの人と、どことなく似ている気がして、心がざわつく。

「こ、こちらこそ、よろしく」

 亜生はぎこちなく口角を上げた。


 人事異動なんて珍しくない。誰がが去り、誰かが入るを繰り返す。ただそれだけのこと。

 いつもなら気に留めることもないけれど、『架』という新たにもたらされた刺激は、亜生に深い溜め息を誘う。

 

 架の周りには、自然と女性たちが集まっていく。

 彼が誰かに聞かれて「独身」だと言葉をこぼした途端とたん、彼女たちは我先と彼を射止めようとし始めた。

 女性たちに共感する訳でも、遠巻きで見ている男性陣に同情する訳でもない。自分が『ゲイ』だという事実が浮き彫りになるだけのこと。


『理想と現実』、言葉の意味を誰よりも分かっているから、「感情」とか「欲」というものを素直に表せている彼らがうらやましい。その中の太陽みたいな架は、まぶしすぎて目をそむけたくなる。


 * * *


 恵と並んで歩く終業後のエントランス。

「佐久田くん」

 呼ばれた声に振り返ると、架がこちらに歩いてくる。

 照明の加減かげんか、亜生には架の黒い瞳がうれいをびているように映った。

 架は微笑みながらも、目を一切いっさいらさずに近づいてくる。

「ごめん。……今、大丈夫?」

 今朝は気づきもしなかったけれど、架は恵よりも背が少し高くて、亜生が思っていたよりも大きい。

「いえ……。えっと、こちら新條さん。今日付けでうちに異動になって。こっちは同期の幡川です」

 亜生が話していると、架は恵の胸元に下がっていた社員証を目で追っていた。

「営業部の幡川です。……じゃあ俺、先に店に行ってるから」

 恵はそう切り上げると、社員証を首から外しながら一人で立ち去る。

「もしかして、大事な話してた?」

 架は少し表情をゆがめる。

「大丈夫です。それで、何ですか?」

「ああ、ごめん。大したことじゃないんだ。佐久田くんと、話をしてみたくて」

 架は首に手を当てながら、苦笑いのような顔をしている。

「……そうですか」

 亜生は当たりさわりなく返事をした。

 不意に架の着けている爽やかな香りが鼻先をかすめて、心の置き場に困る。

「さっきの、幡川くん? 仲がいいの?」

「えっ? ええ、まあ。彼は幼馴染なので」

 急に、架の顔が近づいてきた。

(えっ? えっ? な、何っ?)

 亜生が驚きを隠しながら瞬きを繰り返していると、彼は言葉を続ける。

「あのさ、今度一緒に食事しない?」

(……は?)

 突然何を言い出すのかと思えば、と亜生は喉まで出かかるが、それをみ込んだ。

「ごめん、いきなりすぎたね」

 架は静かに笑いながら顔を離すと、今は外を見ている。


 同僚に食事の誘いを受けることぐらいよくある。けれど、あまりに突然に顔を近づけられて、動揺した。

 本当にそれが理由なのか、眩しくて目を背けたい相手だからなのか、分からない。

 彼にとっては深い意味のない行動でも、亜生の琴線きんせんに触れたのは事実だった。


「じゃあ、また明日」

 架が微笑みを向ける。

「ああ、はい。お疲れさまです」

 亜生はつかみどころのない架に、戸惑いを覚えた。


 * * *


 繁華街はんかがい近くの駅前、チェーン店の居酒屋。

 亜生が店に着いた時は開店時間を少し過ぎた辺りだったけれど、店内はすでににぎわっている。

 その中で、見慣れた顔がいかにも不機嫌ただよう様子でこちらを見つめていたので、亜生はすぐに席の場所が分かった。


 亜生が椅子に腰を下ろした。

 向かいの席の恵が、片肘かたひじを突きながら眉をしかめる。

「もういいの?」

「うん。待たせちゃって、ごめんね」

 亜生は苦笑いをしながら、テーブルに置かれていたメニューに目を通す。

「注文まだだよね。恵は飲み物何にする?」

 亜生が視線を上げる。

 恵は肘を戻して、テーブルの上で両手の平を組んだ。

「さっきの、新條さん? 仕事はできるけど、『うちの会長の孫娘と婚約』とかっていううわさだぞ」

 肩を下げながら、恵は息を一ついた。

「言ってる意味、分かるよな?」

 噛みくだくような言い方をした彼の目は、亜生の返事を静かに待っている。

「うん。それで?」

 亜生はさらりと返事をして、メニューを置いた。


 自分が女性なら、恵の言うことも理解はできる。けれど『男性』の、しかも『ゲイ』の自分には、そんな噂話なんて関わりようのないこと。


 亜生は目の前に置かれていた水を一口飲んだ。グラスをテーブルに置くと同時に、恵が大きな溜め息をく。

「……食事にでも、誘われたか?」

「何で知ってんの?」

 亜生は思わず声が漏れた。

「『似てる』って、思っただろ」

 恵の言葉に、亜生は今度は息を呑む。


 似てるのか、と亜生は視線を落とす。架と話すとどこか落ち着かないのも納得ができた。

 目線を戻すと、恵は物言いたげな顔でこちらを見つめていた。

 亜生が無理やり笑顔を作ると、恵の顔から次第しだいに力が抜けていく。

「何かあったら、すぐに言えよ。それと、明日の夜は俺ん家で夕飯。約束、忘れんなよ」

 この話はこれで終わり! とばかりに、恵はメニューを見始めた。

 亜生はそんな恵の姿を頼もしく見ていた。

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