15
かかっていた毛布を僅かにずらし、セルは薄っすらと目を開けた。
茶色い瓶を見ていた医者がセルを見て、あ、と声を漏らす。
「気分はどう? まだ悪いところはあるかな」
セルは首を横に振り、ぼんやりと覗き込む医者の顔を見た。そして横たわったまま部屋の中を見渡す。
ベッド際に置かれたランタンの灯りが部屋の中をほのかに照らす。ベッドと反対の壁には大きな棚が置かれ、その隣には書類の積みあがった事務机。
目をはっと見開き、セルは勢いよくベッドから起き上がった。
「すっ、すみませんっ!」
降りようとしたセルを医者は首を横に振ってベッドに戻す。セルはベッドに座って申し訳なさそうに縮こまり、自分の膝に視線を落とした。
「あ、寝てる間に勝手に血を抜かせてもらったよ」
えっ、と医者の言葉に驚いた様子で顔を上げ、自分の腕を見た。既に回復されていたらしく針のあとは残っていない。
「酷い栄養失調に加え脱水まで……最早、生きているのが不思議なくらいだ」
ボードに付けた紙を眺めながら医者は眉間にしわを寄せた。
「今回倒れたのは睡眠不足だろうけど、この調子で体がもつはずがない……」
机の上からペンライトを取り、ベッドに座るセルの目に向けて電気を付けた。眩しさに思わずセルは目を瞑る。
「そのくせ隈一つ無い。体型もまだ正常の範囲内……本当に奇妙なことだ」
ペンライトの電源を切って、医者はセルを上から下まで眺め回した。セルは自分の腕を見てみる。細く弱弱し気ではあるものの、最低限の肉付きはあった。
医者は立ち上がりボードを机に置いた。そして部屋の角に置かれた車輪付きの銀の支えを取って、ベッドの傍までゴロゴロと移動させた。
「とりあえず栄養剤を打つ。その間は楽にしていてくれ」
手で支えの埃を払いながら言い、ベッド際の机に置いていた茶色の瓶を手に取った。棚から袋と注射器を取り出して点滴の用意をする。
歩きながら注射器の袋を開けて、医者は消毒液片手にセルの前に座った。目をそらしてセルは手をやや後ろに引く。隠しきれていない注射に対する嫌悪感。
「しかし……まさか、君が勇者様だったなんてね」
ガーゼに消毒液を染みこませながら医者は言った。
少し間を置き、咄嗟にセルは自分の頭に手をやった。
「え、あっ……あれ、フードが」
無かった。指に触れる髪の感触。
「泥だらけだったから外そうと思ってね、そしたら……いや、びっくりしたよ」
まさかこんなところで勇者様にお会いできるなんて、と医者は言い苦笑する。
「通りでしっかりしてると思ったら……しかし、どうしてこんな状態に」
注射器の蓋を外し、セルが茫然としているうちに手を取って甲をガーゼで拭き、話しながらそこに注射を刺す。
「そこまでして、どうして旅を……」
セルはいつの間にか刺さっていた注射器の中を逆流する血液を見た。
「……え、あ……実は、魔王と平和交渉をしようと思っ」
突如走った鋭い痛みにセルは血のにじむ手の甲を押さえた。針は折れて曲がった状態でセルの手に刺さっている。
針の折れた注射器を手に、医者はセルの顔を目を見開いて見つめた。
しばらくそのまま固まる。
数十秒後にゆっくりと項垂れテープを持った手で頭を抱える。自分の太ももを見つめて数度瞬きを繰り返した。
「……な、成程な」
下に向かって二度頷き、顔を上げる。
「すまない。余りにも斬新な考えだったものでね……だが、良いと思うぞ」
元の笑みに戻って親指を立ててグーサインをして見せる。安堵の息を突きつつも、セルは自分の手の甲に刺さった湾曲した針に視線を移す。
「流石にこれは打ち直しだな」
「えっ……そ、そうですよね……」
顔をそらすセルの手から容赦なく針を引き抜き、血のにじんだ手の甲に消毒液の浸ったガーゼを当てた。傷に染みる消毒にセルは洩れかけた声を抑える。
「はい、ちくっとする……ぞっと」
ガーゼをどかして素早く注射器を刺す。
「今、言い終える前に刺してませんでした……?」
「気のせい気のせい。さ、終わるまで横になっていた方が良い」
医者に促されてセルはベッドに横になった。刺した針をテープで止め、包帯を巻きつけて固定する。医者は薬品を入れた後の袋を支えに取り付け、長い管でセルの手の針とつないだ。
半透明の管の中を流れる薬品を、セルは顔を横に向けて見つめる。
医者はセルに毛布を掛け直してベッドを離れた。
「……にしても、どうしてあんな所で倒れてたんだ?」
不意にベッドの横の角、大棚の陰からした聞き覚えのある声。かけ直された毛布を外してセルは再びベッドから飛び起きた。
「……も、門番さん……?」
「あれ俺職業言ったっけ……って、そういやあの時バッチ付けてたな」
思い出して一人で納得する門番。ランタンの灯りの照らしている場所まで出て来て、門番はセルの髪を凝視する。
「俺、勇者様相手に性癖暴露してたんだな……まあこいつもだけど」
事務机でボードに向かっていた医者を見た。
「だっ、だから違うと何度言えば」
「はいはいもう無駄だっつの。で……何でこんな時間にあんな所で、だったな」
呆れから兵士らしい真剣な表情になり、上半身を起こしているセルを見下ろす。
気まずそうにセルは手元を見つめて、管に繋がれた手で毛布を握った。
「…………皆が寝てるうちに、一人で出発しようと思ったんです」
えっと門番と医者が同時に声を上げてセルを見た。
握った手を見つめるセルの目には、自分への敵意が現れていた。
瞬きをして、門番は腕を組む。
「そりゃまた何でそんな気に……」
セルの手から力が抜けて、握られていた毛布が落ちる。
「……僕、皆に迷惑をかけてばかりなんです。ここでは誘拐されて、前の国では王様に手を上げかけたり……作ってもらったご飯も、全部吐いちゃって……」
門番はベッドの前で腕を組んでセルの話を黙々と聞いている。
「何より、旅のせいで何度も危険な目に……あんな、治せない大怪我を負わせてしまったんです」
包帯が巻かれていない方、広げていた右手を握る。
「……手紙は置いてきました。朝になる前に、ここを」
「いやいや。そこは逆だろ」
門番が口を開いた。
片手を横に振っている門番を、セルは驚いた様子で見上げる。
「ぎゃ、逆……?」
「怪我してるなら尚のこと守らないと駄目だろ」
「でも一緒に旅をしていたら、迷惑がかかるし、また怪我を……」
呆れ果てた様子で門番は大げさなくらいにため息をつく。
「置手紙残していなくなった奴を探さないと思うか? お前の仲間が」
俺の元カノじゃあるまいし、と首を横に振った。
「あえて夜中にこっそり抜け出すくらいだ、後を追われることくらいはお前も理解してたんだろ?……まあ、その体調だし」
セルは言葉を詰まらせ、点滴の針の上から包帯を巻かれた左手を見る。
門番は俯いている背中を強めに叩き、顔を上げたセルに笑って見せた。
「あんまり心配させてやるなよ、な?」
門番の顔を見上げるセル。
事務机でボードを見ていた医者が立ち上がり、窓の外を見た。
「そういう事なら……そろそろ戻った方が良いかもしれないな」
セルと門番も窓を見た。暗かった窓の外は、いつの間にか薄っすらと赤色になり始めていた。小鳥のさえずりが聞こえてくる。
机の上に置いていた紙の封筒に包装された薬を入れ、医者はそれをセルに手渡した。点滴の無い方の手で薬を受け取り、セルは紙封筒を見た。
「一応薬を処方しておくが、やはり一度どこかで受診することを勧める」
セルの手を取り、包帯を外して針を抜く。
「あの、お代は」
「お代? そうだな……じゃ、お代は世界平和ってことで」
回復魔法を唱え、医者はセルの手の甲の針のあとを消した。滲んでいる血をガーゼで拭き取って、事務机の上のフードと剣を手に取る。
「にしてもこの剣、伝説の剣だったかな……随分重たいものだな」
ベッドから立ち上がったセルに手渡す。セルは僅かに石鹸の匂いのするフードを被って、伝説の剣を腰に下げた。
「本当に色々とありがとうございました」
薬をズボンのポケットに押し込み、セルは扉の前で深々と頭を下げた。
「……僕、ちゃんと世界のことも、皆のことも、守ります」
決意表明して扉を開けた。
暖かい部屋の中に朝方の冷気が流れ込む。
「ああ。お大事に、勇者様」
セルは頭を上げて歩き出した。扉を閉めようとした医者は、あ、と声を漏らしてセルを呼び止める。
「出来る限り、彼女の傍を離れないであげるんだぞ」
僅かにぼんやりとして、セルは微笑んだ。
「はい。分かりました」
再び頭を下げて今度は走り出した。
朝焼けの光を浴びる町の中に、あっという間にセルの姿は小さくなって見えなくなった。医者と門番は診療所の前で立ち尽くしていた。が、寒さに身を震わせて診療所の中に戻る。
空は次第に薄い青になり、満点に輝いていた星は朝日の中に消えた。
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