第十六章 故郷

 ぴっぴは毎週日曜日に教会堂のミサに参加している。この日もポッペンと参加し、帰り道を二人で歩いている。

「どうです少しはおちつきますたか?」

 ポッペンは悪戯小僧のように問いかける。ぴっぴは首を横に大きく振り、恨めしそうな顔でポッペンを見上げる。

「おじさんがずっとごきげんななめです。ポッペンさんがてれびのひとにはなしてからまいにちたいへんです。」

「まぁいいじゃないすか、いまじゃぁ世界中でぴっぴさんの事知らない人はいないす。」

 嬉しそうに話すとぴっぴの背中をポンと叩いた。

「ポッペンさんはとうだいにすんでいないからぁ。ぴっぴだってたいへんなんです。」

 いっちょまえな事を言うのでポッペンは新鮮な気持ちになる。

「そうかそうだすね、これは大変失礼いたすますた。」

 笑いながら謙ってお辞儀をしてみせる。

 ポッペンが頭を上げると目の前に見知らぬ男が立っていた。品の良いスーツを着こなした中年男性、首にはスカーフを巻いている。二人は行く手を遮られその場で立ち止まり、ポッペンは人当たりのよさから気さくに話しかける。

「こんにちは、今日のミサは終わりますたよ。」

 男はポッペンをちらっと見ると直ぐさまぴっぴの顔を見る。ぴっぴは黙っている。

「ぴっぴさんですね。」

 二人は少し構える。

「どちらさまでしょうか。」

 ポッペンはまたアカデミックシティの学者が来たのだろうと思った。

「隣にいるのがぴっぴさんです。これまで何人かあなたのように研究者の方がお見えになりましたがぴっぴさんを調べても無駄ですよ。いたって普通の…」

 男はポッペンの話を遮り話す。

「私はぴっぴの父親です。」

「え…」


 三人は灯台に戻り話をする事になった。

「灯台守、大変だ。ぴっぴの親父さんがいらっしゃっただ。」

 意外にも灯台守は驚かず冷静な顔で答える。

「俺が教会堂にいると伝えタ。」  

 ぴっぴは父親が現れてから一言も話していない。四人はダイニングテーブルに座ると何から話したらよいやらわからず沈黙する。最初に話始めたのはポッペンだった。

「それで突然どうされたんす。」

 父親は両手をお祈りするように机の上で組んだまま、穏やかに話し始めた。

「先日テレビでファロス灯台の映像を見たんです。もちろんぴっぴも。」

「ぴっぴさんを、探しておられたすか、ずっと。」

 ポッペンは斜に構えたまま父親の顔を見る。

「いいえ、ぴっぴはこの子の母親といると思っていましたから、敢えて探してはいませんでした。」

 それまで下を向いていたぴっぴも、母親の事に話が及ぶと顔をあげた。

「あなたそれでも人の親ですか?母親に任せっきりだったんすかすべて。」

 ポッペンはぴっぴを実の娘のように思っていた。彼女の孤独をわかってやれるのは自分や灯台守だという自負がある。父親は一瞬悔しそうな表情を浮かべる。

「仰る通りです、もっと早く会いに来るべきでした。お恥ずかしながら、私とぴっぴの母親とはこの子が二歳になるまで教育方針について喧嘩ばかりしていたんです。」

 ポッペンはぴっぴの事が心配でちらりと顔を見た。ぴっぴの表情からは気持ちを読み取れず、慎重に言葉を選び話した。

「何故喧嘩ばかりしていたんす。」

 父親は少しの間口を閉ざしていたがぴっぴの目を見ると真剣な顔で話始めた。

「ぴっぴは生まれつき虹彩炎を患っていました。私はぴっぴが普通の幼稚園や小学校に通うことで遅れをとるよりは、養護学校に通わせる方がいいと思っていたんです。しかし母親の考えは違いました。」

 ぴっぴは父親を鋭い目で睨みつける。

「母親は虹彩炎である事自体、認めなかったのです。ぴっぴを普通の子と同じように育てたかった。そしてぴっぴが二歳半になった時、突然ぴっぴを連れて失踪してしまったんです。」

「失踪?」

 驚いたポッペンは思わず聞き返す。

「はい、どこにいるかわからなくなりました。ところがそれからすぐ、離婚届が送られてきました。同封の手紙にはぴっぴは一人で育てるから探さないでほしいと書いてありました。彼女は働いていましたのでお金に困る事はない。そこで私は彼女の意思を尊重する事にしました。一度言い出したら聞かない性分なのはよく知っていましたから。そうは言っても当時は消印を元に二人を探しに行ったんです。けれども、見つけられなかった。」

 灯台守が煙草に火をつける。フーッと煙を吹くと、ぴっぴは咳込んだ。

「きっと母親と幸せに暮らしていると思っていたんです。ところが一年前、大使館から連絡を貰ったんです。ぴっぴが伯母の家に引き取られたという連絡でした。私は慌ててネオシティに行きました。ところがぴっぴは既にいなかった。私は歯科業務機器の営業職をしています。世界中を飛び回っていたので連絡がつかなかったそうです。母親が亡くなった事もその時に知りました。」

 煙草を灰皿に押しつけ消しながら灯台守が口を挟む。

「連れて帰るのか。」

 ぴっぴは驚き目を丸くして灯台守を見つめる。父親は大きく深呼吸するとぴっぴの目を見る。

「お二人には感謝しています。ぴっぴに生活や仕事まで授けてくださった。でもこれからは、私がぴっぴの生活を支え、これまで一緒に暮らせなかった時間を共に過ごしたいと思っているのです。」

 ポッペンは両手を机につくと突然立ち上がった。俯いた顔のまま震えながら

「冗談じゃない、ぴっぴさんの家はこの灯台だん。今更どの面下げて迎えにきたんだん?あんたぴっぴさんがどげな気持ちでいたかわかってんだか?」

 父親は、ポッペンの言葉を受けて話そうと口を開けるがそれより先に灯台守が話す。

「決めるのはぴっぴダ。」

 ポッペンは灯台守の言葉でさえ気にいらない。父親に向けていた怒りを灯台守にぶつけるように睨みつける。

「ええ、全くその通りです。折角ならぴっぴと二人っきりで少し話をさせていただけませんか。今日夜の便で一度仕事に戻らなければならないんです。来週またここに来ますので、その時返事を聞かせて貰えればと思います。」

 ポッペンは面白くないといった顔で椅子にドカッと腰掛けた。灯台守は右手で椅子を引き、立ち上がると螺旋階段の方へ歩いて行く。そして背を向けたまま話す。

「ぴっぴ、おやじさんに港を案内してやレ。」

 そう言うと階段を昇りテラスへと行ってしまった。


 ぴっぴは父親と一緒に埠頭まで散歩をする。何を話したらいいかわからない。父親が先に話しかけてきた。

「元気そうでよかったよ、すっかり大人の女性になったね、ぴっぴ。」

 実感が湧かなかった。父親の歩幅に併せて歩くので少し速く歩いてはぴたっと止まり、また少し速く歩く。ぴっぴが何も話さないので、父親もなんとなくぎこちない。

「ぴっぴはお母さんの事覚えている?」

 お母さんの事を聞かれると足を止めた。それに気づいた父親も足を止め、ぴっぴの方に向き直る。

「…はい。」

 やっと一言話す。すると父親は嬉しそうに優しい笑みを浮かべ

「お母さん、美人で優しかったよね。お父さんも大好きだったよ、今でも。」

 ぴっぴは恐る恐る父親の顔を見る。

(このひとはぴっぴのかあさんをしっているんですね…。)

 再び父親は歩き出す。ぴっぴも後をついて歩く。

「お母さんはね、誰よりもぴっぴが大好きだったんだよ。」

 ならばなぜぴっぴを一人にして消えてしまったのか、父親に訊ねてみたかったが心を開くには気が咎めた。

「テレビで初めてぴっぴを観た時、お母さんにそっくりでびっくりしたんだよ。」

 ぴっぴは黙って聞いている。

 

 埠頭の中程まで来ると、父親はぴっぴの正面に廻り込み、少し屈んで目を見る。

「今日ぴっぴに会って、お父さん本当はすぐにでも一緒に帰りたいんだよ。ぴっぴが頑張ってレンズを削っているって聞いて素晴らしいと思ったけれど、職人の仕事は大変だし、顔に小さい傷も沢山つくし、これからぴっぴがずっとこの仕事をすると思うとやっぱり心配になる。お父さんと一緒に暮らして、生活の事を気にせずに将来の事をゆっくり考えたらいいんじゃないかな。」

そしてぴっぴの傷だらけの両手を掴んでむせび泣く。

「ずっと迎えに来なくて…本当にごめんね。」

 ぴっぴは驚く。

「…おとうさん、なかないでください。」

 嬉しくないと言えば嘘になる。ぴっぴはこれまでの苦労が報われたように感じた。そして父親と一緒に暮らすという選択肢に、心が揺れた。

 

 父親を見送ると一人で灯台に戻った。いつも何気なく開けている入り口の扉が、今日は鉄扉のように重く感じる。ポッペンがまだ怒っているのではないか、灯台守が冷たくなっているのではないか、そんな不安を抱えながら扉を開けた。

「ただいま。」

 ポッペンは既に帰った後だった。灯台守はいつものように競馬のラジオを聴きながらラキアを飲んでいる。

「おやじさんは、帰ったのカ。」

 灯台守はいつもと変わらず話しかけた。

「はい、かえりました。」

「そうカ、夕飯はサーモンのコトレッタだゾ。俺は先に食べたから、お前は勝手にタベロ。」

 そういうとラキアをゴビゴビと飲んで、競馬新聞を広げた。ぴっぴは琺瑯の蓋を開けると、ナイフとフォークでコトレッタを切り分け口へ運ぶ。父親の事が頭から離れず、ただ顎を動かして食べた。


 翌日、ぴっぴはレンズ工房に行くとヨルシュマイサーの肖像画の前に行く。誰もいない事を確認するとヨルシュマイサーに向かって話す。

「ヨルシュマイサ、どうしてもおはなししたいことがあります。きのうぴっぴはおとうさんにあいました。」

 そこまで言うと、胸がいっぱいになり言葉が詰まる。深呼吸をし、気持ちを落ち着かせると再び肖像画の目を見て話し出す。

「おとうさんは、ぴっぴのおかあさんをしっているただひとりのひとです。ぴっぴのことも、おかあさんににているといっていました。ぴっぴはこれからおとうさんとくらすかまよっています。」

 それからじっと肖像画を見つめるが、答えは出ない。これから父親と暮らして、これまで共にしなかった時間を埋めることが出来るのか。父親と暮らすことは、母親を求めていた月日を埋めるような気もしていた。しかしそれと灯台で暮らす日々を天秤にかける事はぴっぴにとっては辛い選択だ。


 仕事を終えると、ポッペンの家へ寄る事にした。通い慣れた街を歩くと、街の人が声をかける。

「あら、ぴっぴちゃんじゃない。今日はもう灯台に帰るの?」

 振り返り自然と笑みが溢れる。

「けいとやのおかみさん、こんにちは。ぴっぴはこれからポッペンのおうちに行きます。」

「そう、それはいいわね。あ、そうだ一寸待って。」

 そう言うと持っていた紙袋の中に手を入れ、何かを探している。

「どうしましたか。」

 ぴっぴは不思議そうに女将を見つめる。

「はい、これあげるわ。」

 シロツメクサの刺繍がある赤い手袋が一組出てきた。

「わ、かわいい、これぴっぴにくれるんですか。」

「ええ、どうぞ。ぴっぴちゃんは手が商売道具でしょ?だから冷えてしまわないように、これをつけるといいわ。」

 満面の笑みで受け取ると、早速つけて両手をあげ、女将に見せる。

「よかったぴったりね。それじゃぁ気をつけていってらっしゃい。」

「はい、ありがとうございます。」

 ぴっぴは意気揚々ポッペンの家を目指し走る。最初は誰も知り合いのいなかったこの街も、今ではぴっぴを知らない者はいない。ポッペン宅のノックを叩くと、ターニャが生まれたばかりのピッペンを抱いて迎えてくれた。

「ぴっぴさん、いらっしゃい。」

 小さなピッペンを物珍しそうに見つめる。

「あかちゃん、かわいいですね。」

 ターニャは暖炉の部屋へ案内しながら答える。

「もう夜泣きが酷くて大変よ。それはそうと昨日主人から聞いたけれど、ぴっぴさんのお父さんがいらっしゃったんですって。」

 ぴっぴはポッペンが憤慨していたのを思いだし、少し緊張する。

「…そうなんです、とつぜんだったのでいまでもしんじられません…」

「ウゥゥアー アー」

 突然ピッペンがぐずり出し、ターニャは優しく揺さぶりあやす。ぴっぴは大きな声に驚いたが黙って見ている。ピッペンは中々泣き止まない。

「アァー ヴワァァー」

「おなかがすいたのかなぁー、ぴっぴさんごめんなさいね、ちょっと待っててください。」

「あ、だいじょうぶです…」

 ターニャは乳児用の玩具であやしてみたり、面白い顔をしてみたり様々な方法でピッペンのご機嫌を宥めている。大切にされている様子を見ながら、ぴっぴは少し寂しさを感じていた。

「ベロベロバー」

「アー… ウヒャヒャ」

 やっとピッペンが笑うと、ターニャも一緒に笑った。

「よかったねぇ、ご機嫌なおりましたねぇ。」

 ぴっぴは二人から目を離し、出されたコップを両手で包むように持つと中のミルクを見つめている。そんな時、ポッペンが現れた。

「ぴっぴさん、きとったとですか。」

 ぴっぴは顔をあげ、ポッペンに挨拶をする。

「こんばんは、おじゃましてます。」

 ポッペンもご機嫌なピッペンに気づくと、近づき柔らかい頬をつんつんと人差し指で押してみせる。仲睦まじい親子三人の様子にぴっぴは疎外感を感じる。ポッペンは笑顔のまま、ぴっぴに話しかけた。

「ぴっぴさん、どうするか決めただか。」

 胸のあたり苦しくて、声が出ない。それを察したポッペンは

「そんなすぐに決められねっすな…。」

 ここにいるのが辛くなった。このままここに居たら、もうファロスにいられなくなるような気すらしていた。

「そろそろぴっぴはかえります。」

 そう言うとコップをテーブルに置いて立ち上がり、早々に玄関へ向かおうとした。そんなぴっぴにポッペは話しかける。

「ぴっぴさん、わたしは無責任な事を言わせて貰えるなら、ずっとファロスにおってほしいす。これからも漁師達の目をつくってもらいてぇ、それが本音だす。」

 きっと嬉しい言葉なのだろう。しかし冷たく閉ざしてしまったぴっぴの心に、ポッペンの言葉は届かなかった。

「ありがとうございます、よくかんがえます。それじゃぁ、また。」

 心の籠らない返事をすると、ぴっぴはそそくさとポッペンの家を後にした。

「ねぇ、ぴっぴさん、ファロスにいてくださるかしら。」

 ピッペンをターニャから受け取ると、ポッペンは幼子の顔を見ながら

「いてくれるさ、ぴっぴさんの故郷はここファロス島なんだから。」


 夜、岬にちょこりと座り、ぴっぴは港の灯りを眺めていた。遠くに分厚い汽笛が聞こえる。

「ここに居たのカ。夜は冷えるゾ。」

 灯台守が探しにきた。ぴっぴの横に来ると、立ったまま煙草に火をつける。フーと煙を吹くと右眉を上げ、鼈甲色の透き通る目でぴっぴを見る。

「随分浮かない顔してるじゃないカ。」

 夜の海のように穏やかな口調で話す。ぴっぴは黙っていたが、ぼつぼつと話し始める。

「…ぴっぴのめがみえなかったことで、こんなことになりました。」

 体操座りのぴっぴは両膝を手で抱え、前後に体を揺すりだるまのように動く。

「こんなことって、嬉しい事じゃないカ。おやじさんにやっと会えタんだロ?そんな葬式みたいな顔する事じゃなイはずダ。」

「そうなんですけど…」

 ぴっぴは踏ん切りがつかない。

「それにこんなことにならなかったラ、おまえさんは今ここにいなイ。俺やポッペンにも会っていなければ、レンズを削ってもいなイ。」

「え…」

「気づいていないかもしれないガ、この街の心臓はこのファロス灯台ダ。それはおまえの師匠であるヨルシュマイサーがこの灯台を建てた時からずっとそうダ。おまえはその心臓を作っているというわけダ。おまえの目が見えていたラ、きっとそうはなっていなイ。」

 ぴっぴは港の灯りを眺めたまま、灯台守の話を聞いた。

「どこに住んでもここはおまえの故郷ダ。それだけは代わりなイ。」

 ぴっぴは灯台守の顔を見上げる。

「おじさん…。」

「俺は寒いから風呂に入ル。おまえもあんまり夜更かししてんじゃねェゾ。」

灯台守は部屋に戻って行った。

 


 一週間後、約束通り再び父親が灯台を訪れた。ぴっぴと父親は教会堂へ散歩に出掛ける。二人はいつもぴっぴがレンズ工房に通う道を歩いている。煙草屋の前を通りかかると店の老婆から声をかけられる。

「あらぴっぴちゃん、今日はデートかしら?」

 父親は年齢の割に若く見える。

「こんにちはおばあさん、このひとはぴっぴのおとうさんです。」

「初めまして、いつもぴっぴがお世話になっております。」

 老婆はにっこり微笑む。

「それはそれは、よういらっしゃた。よかったねぇぴっぴちゃん、小さな街ですが、ゆっくりしていってくだしぇえ。」

「ありがとうおばあさん。」

 ぴっぴは照れくさそうに老婆にお辞儀をすると、再び歩きはじめた。

 その後も街のあちらこちらで声をかけられる。

「ぴっぴは人気者なんだね。」

 父親は嬉しそうに微笑みかける。

「あーいや、そんなことありません。」

 ぴっぴは頭を右手の人差し指で掻きながら恥ずかしそうにしている。


 教会堂に着くとクリオの前に二人で立った。

「これはまちのかみさまです。」

 父親は珍しそうに辺りを見回している。それから嬉しそうにぴっぴの顔を見る。

「では一緒にお祈りをしましょう。」

 ぴっぴと父親はクリオの前で手を組み、目を閉じて祈りを捧げる。ぴっぴが目を開けると既に父親は祈りを終え、こちらを向いていた。

「それでは」

 父親の声は教会堂に響いた。

「答えを聞かせてくれるかな、ぴっぴ。」

 ぴっぴはゆっくりと父親の方を向く。

「はい。」

 力強い目で父親を見る。

「私と一緒に来てくれますか。」

 穏やかな顔で語りかける。

「ぴっぴは…」

 父親はぴっぴの目を優しく見つめる。

「どうしてめがみえなくなってしまったんでしょう。」

 意外な答えに父親ははっとする。

「目が…見えなくなってしまった理由かい?」

 ぴっぴは俯く。

「はい…。」

 父親は大きく息を吸い込む。

「それについては本当にすまないと思っているんだ。だけどぴっぴ、自分を責めないで欲しい。目が見えなくなったのは生まれつき決まっていた運命なんだよ。ぴっぴのせいじゃない。」

 それを聞くとぴっぴはぽろぽろと涙を流した。

「…みえないのであれば…うまれつきみえないほうが…よかったです。」

 父親はスーツのポケットからハンカチを取り出すと、ぴっぴに手渡した。なんと言葉をかけたらよいかわからない。ぴっぴにとってこの世界が暗闇ではなく、美しく彩られた幻想である事は、孤独と寄り添い生きている事に他ならなかった。嬉しい事があればあっただけ、ぴっぴの心に疑いの種が生まれる。それは世界と自分とを隔絶し、寄り添っている孤独が影のようにぴっぴに覆いかかるようだった。

「おとうさんは、ほんとうにぴっぴのおとうさんですか。」

 父親は驚く。そしてぴっぴの孤独を自分がどうしてやることも出来ない事に罪の意識を感じ、ぴっぴを抱きしめた。

「ごめんね、ぴっぴ。こんなに悲しい思いをさせてしまって。お父さんを許して欲しい。」

 ぴっぴは父親の腕の中でありったけの涙を流した。


 西日が教会堂の窓から差し込む頃、ぴっぴはようやく落ち着いた。

「おとうさんごめんなさい、こんな時間になってしまいました。」

 鼻を啜りながらやっと話す。

「いいんだよ。お父さんぴっぴと長い時間いれて嬉しいよ。」

 ぴっぴは目をごしごし擦ると、重たい瞼をぱちぱちと瞬きする。クリオを見ながら父親が話しかけた。

「ぴっぴ、お父さんを許してくれる?」

 ぴっぴは鼻を啜る。

「ぴっぴはおとうさんをうらんでやしません。」

 そう答えると父親はほっとした表情を浮かべる。

「それが聞けただけでもよかった。ぴっぴはどうする?これからお父さんと暮らしてくれる?」

 その問いにぴっぴは慎重に言葉を選ぼうとする。

「こないだおとうさんがかえってから、ぴっぴはかんがえました。」

 ごくんと猫のように喉を鳴らすとまた話し出す。

「おとうさんとくらすこともかんがえたんです。」

 父親は小さく二度頷く。

「けれどぴっぴは、とうだいのめをつくらなきゃいけないんです。」

 そう言うと父親の反応が気になった。冷たくされるのではないかと心配になる。

「それはぴっぴじゃないと出来ない仕事なの?」

 父親は優しく返した。ぴっぴからやっと少し笑みが溢れる。

「そうです、ヨルシュマイサーがおしえてくれたんです。」

「ヨルシュマイサーさんは今いないのかな?」

 ぴっぴは頷く。

「とうだいはまちのみんなのしんぞうです。だからぴっぴはれんずをつくります。」

 父親は少し寂しげな表情を浮かべたが、無理に笑ってみせた。

「そっか、ぴっぴは偉くなったんだね、自分が役に立つ仕事が見つかったのなら、お父さん、嬉しいよ。」

 ぴっぴも寂し気な表情をする。

「ごめんなさい。」

 父親はぴっぴの両手を掴むと

「謝る事なんてないんだよ。ぴっぴは立派に仕事をしているんだもの。やっぱりお母さんの言う通り、擁護学校に通わなくてよかった。」

 そう告げると少し悲し気な表情を浮かべた。

「おとうさん、ときどきあそびにいってもいいですか。」

 その言葉に父親はにっこり笑うと

「もちろんだよ、父さんも時々遊びにきていいかな?」

 ぴっぴはへへへと照れくさそうに笑う。

「はい、いつでもきてください。ではやくそくです。」

 そう言って右手の小指だけ立てて父親の前に差し出す。

「ゆびきりです。」

 父親も小指を差し出すと二人は指切りをする。クリオが背後から優しい微笑みを浮かべ見守っていた。


 父親が帰った後、肩の荷が降りたぴっぴは灯台に戻る。

「ただいまー」

 扉を開けた途端、態とらしく競馬新聞を広げる灯台守と、ダイニングテーブルを刷毛でさっさと掃除するポッペンがいた。

「…うん?なんかあったのですか?」

 二人とも裏声で

「おかえりー。」

 と言った。

「なんダ、夕飯はつくっちまったガ、おまえも食べるという事デいいんだナ?」

 灯台守が平静を装いながら話しかける。

「はい、ぴっぴはこれからもここにいます。」

 それを聞いた途端、刷毛とチリトリを後ろに放り投げポッペンはぴっぴに抱きついた。

「おィ、嫁に怒られるゾ。」

 灯台守が冗談を言う。しかしポッペンは

「流石ぴっぴさんだ、わたしら漁師はみーんなぴっぴさんの家族だでね。昨日今日来た父親だかなんだかにそう簡単にわかってたまっかい!」

「かぞく…」

 威勢のいい口調で話すとぴっぴの頭をぐしゃぐしゃに撫でた。

「やーぽっぺんさんやめてくださいー。」

 ポッペンの言葉に戸惑う。

「これからもずっと一緒に港を守って行きますでね!」

 ぴっぴはいまいち実感がなかったが微笑む。

「へへ、実はこんなもの用意しとったとです。」

 ポッペンは張り切って椅子に置いてあった白い箱を机に乗せる。

「これはなんですか。」

 ズイッとぴっぴを覗き込むと低い声で

「あけてみんしぇ?」

 と得意げに話した。

「いいんですか?」

 そうして恐る恐る箱の蓋を開けると

「わぁー!すごい!」

 中には大きなレモンパイが入っている。

「これ、ぽっぺんさんがよういしてくれたんですか。」

 ぴっぴが訊ねるとポッペンはニコニコしたまま首を横に降る。

「え?じゃぁだれですか?」

 するとポッペンは人差し指を競馬新聞へ向けた。

「おじさん?」

 灯台守は新聞で顔を隠したまま咳払いをする。ぴっぴは嬉しくなって箱の蓋を持ったまま灯台守に突進しそのまま抱きついた。

「おじさん、ありがとう。」

「おい、やめロー!」

 灯台守は照れくさくて新聞で顔を覆ったまま話す。

「へへへ、ささ、みんなでたべまっしょい。」

 ポッペンはナイフでパイを切り分ける。ぴっぴは皆の分の紅茶をいれると仕度が整った。

「いただきまーす。」

 レモンの爽やかな酸っぱさが口いっぱいに広がる。

「こんなおいしいのたべたことないです。」

 ポッペンは尚も得意げに

「そりゃそうですよ、灯台守が知り合いの貿易商に頼んで特別にスチリアから取り寄せてもらったとですよ、ね。」

 灯台守は自分が飲むコーヒーをカップに注いでいる。

「おイポッペン、あまりおしゃべりだとおまえの口に碇を突っ込むゾ。」

 ポッペンは悪戯坊主のような顔をし、動じない。

「またまたァ、照れちゃて。灯台守も乙女心がわかってるなぁ、ね、ぴっぴさん。」

 ぴっぴは口いっぱいにレモンパイを頬張って、うんうんと頷く。

「おまエ、そんなに慌てて食わなくてモ、パイは逃げネェゾ。」

 ぴっぴはパイを紅茶で流し込むとやっと落ち着いた。

「それはそうと、ぴっぴさんがこれからもいてくだすって、本当によかっただ。なぁ、灯台守。」

 灯台守は再び競馬新聞を見ており、聞こえているにも関わらず無視している。ポッペンは構わず続ける。

「自慢じゃぁねぇが私らは誰よりもぴっぴさんの事わかっとるす。お父さんには申し訳ねぇがすらねぇ事なんかひとっつもねぇす。」

 ご機嫌なポッペンの向い側でぴっぴは一瞬儚げな表情を浮かべた。




 その後市が企画した映画祭はファロス島の名物行事になった。小さな子供も老婆も映画祭の日だけは灯台の周りに集まり、ぴっぴの観ている世界を楽しんだ。

「あれは私だわ、この間、ぴっぴさんの靴を直してあげたもの。」

「おい、おれはあんなに太っていないぞ!ぴっぴめ!俺の事あんなデブやろうだと思ってやがる!」

 街の住人は登場している自分たちに思い思いの感想を述べ、ぴっぴ映画祭の日は街が大いに盛り上がった。砂の上を船が走り、ヨルシュマイサーがぴっぴにレンズ製作を教えた。この事は最早街の中では当たり前の事となり、【水の街ファロス】と讃えられた街は【砂の街ファロス】と呼ばれるようになった。灯台守とぴっぴとの出会い、家畜運搬船に乗り込む様子など毎回異なる映像が流れる。街中の人、観光客の皆がぴっぴの見ている世界を好意的に受け入れた。勿論主役のぴっぴもその席には参加し、皆と共に映画を楽しんだ。尤もぴっぴの目には今でも灯台の映像は映らない。専ら紅茶と烏賊の薫製を食べては皆の歓声を楽しそうに聞いていた。




 それから四十年間、ぴっぴは毎年レンズを造り続けた。灯台守が亡き後はピッペンが灯台守となり、ぴっぴの世話をしてくれた。


 


 ニ〇七五年三月、灯台テラスの階段から、一人の老婆が顔を出した。ぴっぴは旅をしていた頃とはうってかわり、ハイネックで白うさぎのようなニットを着て、動き易いベージュ色のズボンを履いている。赤い靴を履き、レンズのすぐ下までぽちぽちと歩いて来るとちょこりと腰掛けた。手すりの間から足をぶらんと下に降ろし、今日も砂の上に浮かぶ消しゴムのような船を見つめている。栗色の髪は長く、貝殻柄のバレッタで一つに纏めている。しわしわな瞼の中に、エメラルドグリーンに輝く小さな目がきらきらと輝いている。

「あさってはかもつせんがつくよていですね。おいしいこうちゃをたくさんはこんできてくれるはずです。」

 そう言うと、纏めた髪がふわりと揺れた。風に運ばれ小さな綿毛がぴっぴの鼻の前を通り過ぎる。ぴっぴは綿毛を見送るとにっこりと微笑んだ。それから菱形に口を開き、欠伸をした。

「ふわぁー、なんだか、ねむたくなってきました。」

 ぴっぴはテラスで横になる。無数の綿毛がぴっぴの周りを飛び交う。しばらくすると、誰かが階段を上って来た。

「ぴっぴさん、こんなところにおったとですか。」

 年老いたポッペンだ。黒い老眼鏡をかけ、ニット帽を被っている。

「ぴっぴさん、もうお互い若くないんですから、風邪ひくですとよ。」

 ポッペンはぴっぴにジャンパーをかけてやると隣に腰掛ける。

「ぴっぴさん、聞きましたか?あなたの始めたたんぽぽロード、ついにファロス島まで繋がったそうですよ。砂漠に植えるには随分手間取っとったみたいですけんど。よかったとですなぁ…」

 ポッペンはぴっぴの顔を覗き込む。

「ぴっぴさん?」

 ぴっぴは安らかな顔をして眠っている。

 




 鐘塔の鐘が鳴り響く。


 教会堂内祭壇前にはぴっぴの棺が置かれている。ぴっぴは街の人が一つ一つ入れた花をライオンの鬣のように顔の周りに縁取り、安らかな顔で眠っている。ポッペンは都合の悪い左足を引きずりながら杖をつき、右腕をピッペンに支えられながら席についた。司祭からぴっぴの略歴が紹介された。

「ぴっぴさんは二〇三二年九月、ここファロス灯台においでになりました…」

 ポッペンは聖書を膝の上に乗せ、皺だらけになった手をぎゅっと握り、俯いて司祭の言葉を聞いている。すると、後ろに座っていた男が声をかけてきた。

「ポッペンさん、この度はご愁傷さまです。」

 振り返ったポッペンは、男の顔を見るなり前へ向き直る。慌てて隣に座っていたピッペンが小声で注意する。

「父さんそんな露骨に…市長さんなんですよ?すみません…。」

 男は顔色一つ変えず話始める。

「いえ、無理もありません、ファロス灯台最後のレンズ職人の方がお亡くなりになったんです。このファロス島の歴史と共にあった灯台に幕が下りるのですから。心中お察し申し上げます。」

 ポッペンはそれを聞くと再び振り返る。

「どうか最後のレンズが終わる来年までは、灯台を取り壊さないでいただきたい。」

 市長はポッペンの頑な態度にも関わらず、丁寧に答えた。

「それは市としても当然の事です。来年三月、今のレンズが使えなくなるまでは灯台も、この教会堂も残しましょう。」

 がっくり肩を落としているポッペンをちらりと見ると、ピッペンが小さな声で囁く。

「父さん、明日オロッシャの船が到着するけれど、ぴっぴさんの事もあるし、映画祭は中止にしますか。」

 ポッペンは棺の奥にいるクリオを見つめ、黙っている。ピッペンも、父の目線の先を共に見つめる。司祭は続いて福音書を読み上げる。

「幸いなるかな 心の貧しき人 天国はかれらのものである…。」

 ポッペンは鼻をすすると、笑顔でピッペンの方を見る。

「いや、やろう。ぴっぴさんの造ってくれた最後のレンズだ。このファロス灯台の事を忘れないためにも、上映をしよう。」

 ピッペンはポッペンの気持ちを察し、頷いた。葬儀が終わると、ポッペンは立ち上がり参列者に大きな声で伝える。

「皆さん、明日はぴっぴさんの最後の映画祭です。きっとぴっぴさんは我々との楽しい日々を伝えてくれるでしょう。どうかご参加ください。」



 翌日、予定通りオロッシャから船が到着した。ぴっぴ最後の映像とあって住民はもとより全国からぴっぴを知る人が港に集まった。ピッペンは灯台のテラスから、携帯電話で船長に指示を仰ぐ。

「上映一分前です。帆を、光に向けてください。」

「了解。」

 船長はデッキにいる船員達に合図を送る。甲板で紐を引く船員達が一斉に帆を光の方へと向ける。上映時刻になると、虹色に輝く映像が帆に映し出された。港にいる誰もが、期待に胸を震わせる。ポッペンは岬で灯台に凭れ掛かりながら、映像を観ている。


 亡くなる間際のぴっぴは薄暗い工房の祭壇の前で一人しゃがんでいる。両手を顔の前で組み、クリオに何かをお願いしている。そして灯台のダイニングテーブルの上に紙とペリカンの硝子ペンを用意し、何かを一生懸命描いている。絵のへたくそなぴっぴの描いているものは、何なのかよくわからない。どうやら人の形のようなものである。岬で観ていたポッペンも、無線室から観ていたピッペンも皆じっとその光景を見つめている。すると映像は切り替わり、街の者が誰も見た事のない景色が映し出された。


 海鼠壁の庭先が見える。ぴっぴは立ち上がり、庭を駈けて行く。目の前にあった水たまりに顔を映すと、三歳ほどの幼い顔をしている。栗色の髪の毛を水たまりの水で直し、何かに気づき振り返る。それから走り出すとエプロンをした母親らしき人物が笑顔で両手を広げて待っている。小さな手を母親に差し出すと、母親は嬉しそうにぴっぴを抱き上げた。


 映像は終わり、灯台の灯りは元の黄色い光へと戻った。港で観ていた人々はその後も黄色い光を見つめている。誰一人立ち上がろうとはしなかった。ポッペンは眼鏡を外すと灯台に凭れ掛かったまま、頭をこつりと外壁につけた。そして目を瞑ると、いつまでもそうしていた。


 たんぽぽが舞い上がる中、無数の綿毛は潮風に乗り、遠くへ消えて行った。


 それから一年後の二〇七六年三月、青空の下、ファロス灯台の解体工事が始まった。大割クラッシャーが灯台のテラスを毟り取って行く。ポッペンとピッペンは港から灯台の最後を見守り、レンズの外された灯台はその役目を終えたのを知っているかのようにひっそりと運命を受け入れている。灯台の跡地にはオーシャンビューが楽しめるリゾートホテルが建つ事になっている。ポッペンは無言で船に乗り込むとエンジンをかけ、漁に出る。港はいつも通り、穏やかな波の音に包まれていた。

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暗闇のエーテル 虹樹 @yuposhi

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