第四章 箴言、美しい花には毒と棘がある 2
爽やかな初夏の気配を感じさせるような、晴れた日。
世間は休日ということもあって、市民の憩いの場になっている大きな公園には、たくさんの人が訪れていた。
だから、一人で元気よく駆けている五、六歳頃の男の子を気にかける者は誰もいなかった。
誰かを探して頭を振るたびにふわふわとカールした短い金髪がはねている。サスペンダーがついた紺色の半ズボンと、白い足のコントラストが眩しかった。
やがてお目当ての人物を見つけた彼は、つぶらな青い目を輝かせてまた走り出した。
そして転んだ。
「いたっ!」
「あら、坊や大丈夫?」
読んでいた本から顔を上げて、乙女が男の子の顔を覗き込んだ。
芝生の広場に植えられた大木の下で、乙女はひとり午後のお茶を楽しんでいたところだった。太陽の光は熱を伴っていたが、広がった分厚い緑の葉が遮ってくれていて、意外と心地良かった。
「んっ……だいじょーぶ」
パッパッと土や草を払って、男の子は乙女に笑ってみせた。
「ねえ、おねえちゃんはなんのご本をよんでるの?」
「そうね……簡単に言うと、昔のお話がたくさん載っている本、かしら」
乙女はそう言って男の子を手招いた。
男の子は嬉しそうに笑って、レースで縁取られたシートの上にちゃんと靴を脱いで上がった。そのまま乙女にぴたりとすり寄って、乙女の膝を覗き込む。
やや変色した丸背の上製本には『地方の民話』という題がついていた。刊行から既に二十年以上が経ち、図書館でもめったに借りられることのないシリーズだ。
乙女がカウンターにこれを差し出したとき、司書の老人は思わず「研究ですか」と声をかけてしまったほどだ。
「いえ、ちょっとした興味のようなものです。ずいぶんと懐かしい話が載っていると小耳に挟みまして……」
老人はその答えに僅かな違和感を感じたが、言葉にすることができず、颯爽と立ち去る乙女を見送った。
「今読んでいたのは、狐が狸との化かし合いに勝ったお話ね」
「ひえぇっ!」
とたんに男の子は体を震わすと、乙女の後ろに隠れてしまった。
「ぼく、このおはなしキライ……」
「あら、どうして?」
それは、この地方では絵本になるほど有名な話だった。
昔、とても仲の悪い狐と狸がいて、化かし合いの勝負で白黒つけようということになった。だがどちらも化けるのは得意だったので、なかなか決着がつかなかった。ついに痺れを切らした狸が狐にこう言った。
『お前が一番強いと思うものに化けろ! それでガチンコ勝負だ!』
そう言って鉄砲を持った漁師に化けた。すると狐は、大きな鉄鍋に化けた。
『なんだそれは。満足に動けもしないじゃないか。正々堂々と勝負する気がないのか弱虫め!』
と狸がなじると、狐は胸を張って言い返した。
『何を言うか。これこそ最強の姿に決まっている! お前が殴っても鉄砲で撃ってもびくともしないんだからな!』
『なんだとっ!』
『悔しければ俺で沸かした熱湯の中に入ってみろ! 弱虫のお前はすぐに尻尾を巻いて逃げ出すだろうけどな!』
『言ったな! やってやる!』
売り言葉に買い言葉でそう答えた狸は、最初は『いやー極楽、極楽』と湯につかって満足げだったが、狐がどんどん薪をくべているのに気づかず、
『う、う~ん』
やがてのぼせて鍋の底に沈み、狸鍋の具になってしまった。実は狐火という言葉にある通り、狐は火に強かったのだ。
「目先のことしか見えなかった愚か者の狸は食べられてしまいました……。狐のほうが一枚上手だったのね、というお話なのだけど、どこが嫌いなの?」
「タヌキが食べられちゃうから……。お母さんも、キツネみたいなズルいやつにはなるなってよく言う……」
「あらあら。坊やはタヌキが好きなのね。それじゃあこのお話は好きになれないわね」
乙女は本を閉じて脇へやると、服を握ってくる男の子の頭を撫でた。そして、どことなく元気がなくなった男の子にお菓子をあげた。
「そうだわ。まだお菓子が残っているのよ。よければどうぞ。私が作ったものだから口にあうかは分からないけど……」
「ホント⁉ ぼく、おかし大好き!」
男の子の顔がとたんに明るくなった。乙女がバスケットに詰めてきた、色とりどりのクリームを挟んだクラッカーを見ると、さらに輝きが増した。
「ありがとう、おねえちゃん! すっごくおいしいよ!」
「ふふっ、それはよかった」
「そうだ、おかしのお礼におねえちゃんをとっておきの場所につれていってあげる!」
「あら、いいの?」
「うんっ、特別だよ! おねえちゃんだけだからね!」
「まあ、ありがとう。楽しみだわ」
ぐいぐいと手をひかれるまま歩いて辿り着いたのは、人気のない一区画だった。だからこそ誰にも踏み荒らされなかった、真っ白な花畑。
「素敵! こんなところがあったのね」
乙女は足首までありそうな長いワンピースの裾をひるがえして、花畑の中に足を踏み入れた。昼下がりの光は白く、空色の乙女の姿を浮かび上がらせていた。
(やっぱり最高に綺麗だ……。歴代の絵画の美女も裸足で逃げ出すに違いない……)
好きなだけ見蕩れていた男の子は、意を決すると近くで咲いていた花を摘んで指輪を作り、乙女に差し出した。
「おねえちゃん、ぼくのおよめさんになってください! ぜったい幸せにします!」
花びらが吹き上げられて、地に落ちるまでの束の間の空白があった。
「……え? ごめんなさい、風でよく聞こえなかったのだけど」
「……ぐすん」
狙ったようなタイミングの悪さに、男の子は思わず顔を伏せた。
「あらあら、泣いていてはダメよ。デートのとき、男の子は女の子をエスコートしなくちゃいけないんだから」
(デート‼)
男の子を元気づけるためか、乙女はそう言って頭を撫でた。乙女の口からその単語が聞けるとは思っていなかった男の子は、簡単に機嫌を急上昇させた。
「う、うん! あのね、まだたくさんいい場所があるんだよ! こっちこっち!」
それから二人はたくさん歩き回った。男の子が紹介するところはなぜか、茂みの奥や木の裏側などが多かった。
「すごい、すごい。よくこんなところを知っていたわね」
「えへへ」
今、二人はベンチに座って残っていたお茶とお菓子を食べて休憩している。日が西に進んだからか、いつのまにか暑さはなくなっていた。
だんだん、男の子のまぶたが重たくなってきた。
ほどよい疲労、ほどよい満腹感、ほどよい気候と三拍子揃えば、無理もない。
それでも男の子はがんばって目を見開いて抗おうとしたが、そうすればするほど重くなってくる。どんどん下がってくる。
乙女が髪を梳くように撫で始めると、もうだめだった。
どんどんまぶたが落ちて……
どんどん意識が…………
「……や! ちょいと坊やってば!」
「はあっ⁉」
肩を強めに揺さぶられて、男の子の意識は現実に引き戻された。
空はすっかり日が落ちて、暗い青紫色をしていた。あれだけたくさんいた人もまばらになり、空気もずいぶんと冷えてしまっていた。
「え? え? え?」
心配そうに自分を覗き込んでいるのは、眼鏡をかけてストールを巻いたおばあさんだけ。乙女の姿はどこにもなかった。
「お、オレ寝てた?」
「そりゃもう。起こすのも申し訳ないぐらいぐっすりとねえ」
「お、乙女……いや、あの、おねえちゃんは?」
「いいや、知らないけど……。もしかして置いて行かれたのかい? そりゃ大変だ。急いで探さないとねえ。いや、それとも警察に……」
それが耳に入った瞬間、男の子はようやく状況を飲み込むことができ、ダッシュで走り去った。
「ぼく、ひとりでかえれるから大丈夫ーー!」
「ああ、ちょっと!」
呼び止めるおばあさんの声はもう聞こえていなかった。
(子供のあざとかわいい感じをフル活用して、乙女に可愛がってもらって気に入られて家に連れて行ってもらうつもりだったのにぃぃぃ~~‼)
歯が削れるほど強くかみしめた後、
「~~~~ちっくしょおおおおおお! なんでこうなったああああ!」
そう叫んだ。
道行く人はギョッとしながらも、誰も何もしなかった。
ちなみに、彼はせっかくのチャンスをふいにした悔しさで三日ほど泣いていた。
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