第四章  箴言、美しい花には毒と棘がある 1



 立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合のよう。まさに麗し、匂い立つような乙女だった。


 散歩をするには似合いの、とある春の昼下がり。男は彼女を見た瞬間に心を射抜かれたような、あるいは稲妻に打たれたような衝撃を受けた。月並みで陳腐な表現と笑う勿れ。そのぐらい乙女は美しかったのだ。


 乙女が踵の低い靴で石畳を歩くたび、月と太陽の光を等しく溶かしたような白金色の髪が揺れている。


 果物屋のおかみに呼び止められて、乙女が横を向く。白い頬がわずかに色づき、桜色の唇が嬉しそうな笑顔を形作ったのが見えた。長い睫毛に縁取られた瞳の色は、溶かされた黄金よりも鮮やかな稲穂の金色だった。


 この町ももう長いが、あの乙女を見るのは初めてだった。男は息をするのも忘れて、乙女が角を曲がって見えなくなるまでその場に突っ立っていた。


 やがて長いため息を吐き、自分の格好を見下ろした。


 履きつぶした薄っぺらい靴に、楽さ重視で買ったズボン、皺だらけのシャツ、一度も洗濯していない薄手のコート、ぼっさぼっさに伸びた髪。



 (これはダメだ)



 どこにでもいそうなごく普通の若者の姿だったが、男は軽い絶望すら覚えた。こんな格好の男は、あの乙女の隣に似合わない。



 (もっといい男にならなければならない。幸い時間だけはたっぷりあるのだ。さあ、研究の時間だ!)


 男は並々ならぬ決意を持って、本屋に駆け込んだ。




 心地良い空調の音にまぎれるように、紙をめくる音がときおり聞こえる。ただそれだけの、静かな場所だった。


 ここは町で唯一の図書館。広々とした二階建ての建物で、中央は吹き抜けになっている。外はあいにくの花曇りだったが、窓際の閲覧スペースには気まぐれに温かな陽光が差し込み、座る者に船を漕がせていた。


 淡い桜色のワンピースを身にまとった乙女は、背の高い書架の森の中をゆっくりと見て回っていた。本の背表紙を目で撫でながら、ときおり触れる。


 さらにそのあとをこっそり、それと分からないように追うのが、眼鏡をかけて知的なイケメンにイメチェンした青年だった。


 短く清潔に整えられた髪に、ぱりっとした白いシャツとおろしたてのジーンズ。少し緩めの濃い色のカーディガンを着て、大きな荷物は特になし。歯も白いし、ヒゲのそり残しなんて当然ない。爽やかな柑橘系の香水も、つけすぎず絶妙な具合だと胸を張る。


 流行りの雑誌を読み込んで、一週間かけて作り上げた自慢のイケメンだった。


 乙女は、今日は古今東西の詩集が並ぶエリアで過ごすことにしたらしい。背表紙をなぞる手に、偶然を装って触れてみた。



 「あら、ごめんなさい」


 「いえ、こちらこそ」



 鈴を転がしたような、きれいで聞き取りやすい声。思わず聞き惚れてしまいそうになったが、そうではない。


 青年は咳払いをして、にこりと笑顔を浮かべた。



 「ザシャがお好きなんですか? のどかな田園地方の暮らしを、ありのままに伸びやかに詠ったものが多い詩人ですよね」



 すると、乙女の顔がパッと華やいだ。



 「ええ! 私、生まれも育ちも町なものですから、憧れてしまって。特に、秋の情景を詠ったものなんかは豊かな実りの喜びの一方で、冬の冷たさを予感させて、その相反する感覚が見事に調和していて、なんとも言えぬ美しさがあると思うんです。ほら、詩は声のある絵画と言うでしょう? ザシャの詩は、まさに絵画のような優しい色彩を帯びて、でも絵画よりも広い広い風景を私たちに語りかけてくれるような気がするんです。あなたはザシャのどういうところがお好きなんですか?」


 「……え」



 うっとりと詩集を抱きしめ、生き生きと語る乙女の姿こそ、絵画にも詩にも勝る美しさだ。鼻の下を伸ばして、彼女に魅入っていた青年は、尋ねられてようやく我に返った。


 同時に、脇の下からどっと冷や汗が吹き出した。



 (よ、読んでないから分からん……!)



 レビューや教科書に載っているような、一般的なひと言なら暗記していたが、詳しい内容などまったく知らないし、感想などもっとありはしなかった。こんなことなら、せめて一編だけでも読んでおくべきだった。



 (どうする。乙女がオレに興味を持ってくれているんだ。こんなチャンスはきっと他にないぞ。何か適当に言うか? いや、全然違うことを言ってみろ。「えっ、この人実は知ったか?」なんて思われて引かれてしまうに違いない! そんな印象最悪みたいなのは嫌だ! じゃあ正直に知らないって言うか? それもダサい! どうするどうする……そうだ!)


 この間、実に一秒以下。息を吸う程度の時間の出来事である。



 「そうですね。オレは花や木とかの植物の表現が好きかもしれません。ですが実を言うと、あまりザシャには詳しくないんですよ。普段はもっと傾向が違うものを読むので……。今日は、新しいジャンルを開拓しようかなと思っていたんです」


 「まあ、そうなんですね。どんなものを読んでこられたんですか?」



 はにかむ青年が内心で狙っていたように、乙女は両手を合わせて目を輝かせると、自分から一歩、青年に近づいた。



 (よしっ!)



 青年は心の中でガッツポーズを決めると、あくまで落ち着いた身ぶりで書架を見回した。



 「ええっと、そうですね。たとえば……ヘルムフリートとかですかね」



 取り出したのは、煌々と明るい摩天楼群の夜景が表紙一杯に描かれた詩集だった。


 「無機質で無彩色な世界の中心地、通称〝一番都市〟をメインに、社会の発展と人間の退化の苦悩を描いた作品です。生々しいわけではなく、むしろ淡々としていて、一周回ってそこが美しいかなと思うんです」


 「分かります。私もヘルムフリートの詩は大好きなんです。一番都市のものではなく、もっと古くからある漂泊の旅について綴られたものですが」



 乙女が大きく頷いた。


 ヘルムフリートというのは、歴史や国語の授業では小学生でも聞く名前で、実は個人名ではなくひとつの集団を指す呼び名だった。



 「根づくことなく、とても古い時代からずっと世界を放浪することを義務づけられた風の民。それがヘルムフリートです。悲哀と孤独に満ちた旅路は、やがて忘却の彼方へ消えていくものですが、彼らはそれを言葉と旋律に変えて編み続けてきました。中には千々に分かれてしまったものもあるでしょうが、残された詩はこうしてまとめられ、私たちに語りかけてくれるのです。悲しみに内包される喜びのなんと美しいことか、と……。光だけでもなく、闇だけでもなく、その間を詠うまさに珠玉の作品と言えるでしょう。あと」



 恍惚とした表情で舌を回す乙女に若干気圧されながら、青年はなんとかセリフをねじ込んだ。



 「え、ええ。オレもそう思います。そういう仄暗いところが魅力なのですが、たまには違うものにも触れてみようかと思ったんです。あなたのようなザシャに詳しい人と会えたのは幸いです。もっといろいろ聞かせてください」



 キリッとした顔で、青年は乙女の手を取った。


 まさか乙女がこんなにおしゃべり好きとは思わなかったが、楽しそうな乙女の顔は素敵だったし、乙女がこんなに夢中になる詩の書架の前で出会った青年は好印象だろう。青年はたしかな手応えを感じていた。


 このまま自然に外のおしゃれなカフェに誘って……



 『大通りから外れてはいますが、この近くにいいカフェがあるんです。よければそちらへ行きませんか?』


 『まあ、そうなんですか? あまりこのあたりには詳しくなくて……』


 『ええ。知る人ぞ知る隠れ家的な名店なんですよ。マスターが豆から挽いて入れてくれるコーヒーはもちろん、季節のフルーツを使ったケーキも絶品なんです』


 『そうなんですね。実は私、甘いものが大好きなんです。とても楽しみです!』



 そこでお互いの他に好きなものに話が移ったり……



 『すごい! 音楽も嗜んでいらっしゃるんですね』


 『嗜んでいるなんてそんな、大げさなものじゃありません。幼い頃からの習慣で、少しピアノが弾ける程度ですよ』


 『ご謙遜を。誰にでも弾けるものではありませんよ。いいなあ、オレもあなたがピアノを弾いてるところを見てみたいです。きっと、天使の楽団よりも美しいでしょうね』


 『そ、そんな風に言われると、少し照れます……。えっと、あなたは他に何かお好きなことは?』


 『そうですね。体を動かすことが好きです。これでも町のスポーツクラブに所属して、対抗戦なんかによく出ているんですよ』


 『まあ! 体を鍛えている方って、頼りがいがあって素敵ですよね』


 『いやあ、そんな』



 どこに住んでいるとか今までどんなことをしてきたとか色々聞けたり……



 『え、あの大きな白亜のお屋敷にですか?』


 『はい。先日引っ越してきたところなんです。だからまだこの町には慣れていなくて。色々歩いて見て回ってはいるんですけど』


 『よければ案内しましょうか? これでもこの町は長いほうなんです。広い公園も美術館もありますから、お好きなところへお連れしますよ』


 『本当ですか? ありがとうございます。今までそんなところに誘ってくれた人はいなかったので、嬉しいです!』


 『任せてください。必ずあなたを満足させてみせますよ』



 それでデートの〆は、絶景の夕日が見える橋の上でキスなんかしちゃったり……。


 走馬灯並みの勢いで駆け巡った妄想に、だらしなく緩みそうになった頬を引き締め、さっそくカフェに誘うために青年は口を開いた。



 「本当ですか? 今までそんなこと言ってくれる人いなかったので、嬉しいです」


 (ん?)



 いや、正確には開こうとした。


 青年の妄想よていではかなり後のほうで出るはずだったセリフが、だいぶ早い段階で聞こえた気がする。


 青年は乙女を見下ろした。


 乙女はいつの間にか青年の手から離れ、次々と書架から本を抜き出していた。



 「私ってば好きなもののことになると、ちょっと勢いがついちゃうみたいなんです。まさか私ともっと詩について話がしたいと言ってくれる人がいるなんて……。ずっと夢見ていたんです」


 「え? あ、はい……?」


 「でもあなたはザシャのことをよくご存じないということだったので……とにかく、まずは読んでください!」


 「ええっ⁉」



 青年は思いもしなかったお願いに目を見開いた。さらに嫌な予感がしたのは、乙女の細い腕に詩集が五冊以上抱えられていて、まだ増やすつもりのようだったからだ。



 「ちょ、ちょっと待ってください。読んでくださいって、まさかそれ全部……です、か?」



 震える指でちょうど九冊目を乗せたところの乙女の腕を示すと、とびっきりの笑顔が返ってきた。



 「はい、もちろんです。あ、大丈夫ですよ、専門的な解説書ではありませんから。そんなに難しくないので、さらっと読めます。ザシャって、生涯で二千作も残しているんですよ。もちろん、本によっては収録内容にかぶりがあるかもしれませんが、それはザシャの中でも押さえておきたい有名どころの証ですから! しっかり読み込んでくださいね。ああ、まさかこんな日が来るなんて!」


 (いやいやいや! そんなもん読んでたら日が暮れる! いや、日は暮れてくれてもいい……けど……いや、やっぱりよくない! 乙女と話す時間が減る!)



 正直に言うことはできないので、どうにか回避できないかと頭を働かせる。



 「あ……ありがとう、ございます。えっと、重いでしょうから、オレが持ちますよ。これを借りてきたらいいんですよね。近くに雰囲気のいいカフェがあるので、そこで……」


 「え? いいえ、カフェなんかに行って汚してしまったらザシャに申し訳ないですよ。だからそこの閲覧席へ行きましょう」


 「ええっ⁉」



 青年はまた非難がましい声をあげたが、乙女は気にせず先に歩いていってしまった。しかも、横並びのスペースならまだしもテーブルに座られてしまい、開いている席は乙女の正面のみ。


 青年も仕方なくそこに座って、詩集を開きはしたが、読む気などまったく起きない。



 「あ、あの……」



 意を決して口を開けば、乙女は人差し指を立てて「静かに」というジェスチャーをした。すると青年は黙るしかできない。


 隣に座っていれば囁いてもよかったかもしれないが、そもそも図書館の閲覧席は私語厳禁だ。破れば周りからの視線も痛くなるのでいいことはない。


 しかたなく、青年はしばらく詩集を読んで時を過ごした。



 「……あ、あの、少し聞きたいんですが」


 「はい、なんですか? 気になる箇所か分からないところでもありましたか? 歴史や風土にまつわる詩も多いですからね」



 キラキラと期待に満ちた目で見つめているところ悪いが、青年はべつにそんなところ気にしていなかった。



 「いや、その、あなたはどこでザシャを知ったのかなって。やっぱり学校ですか?」



 乙女はちょっと困ったように眉を下げました。



 「ええ、そうですが……。そういうお話はあとにしましょう。ザシャの詩に私自身を重ねたこともあるので、詩を読んでいただかないと私の話もできないんですよ」



 柔らかく、しかしきっぱりとNOが突きつけられた。


 その後も乙女の態度は変わらず……



 「……っ、失礼します!」



 音をあげたのは青年のほうだった。猛ダッシュで図書館から出ていく様を、他の利用客は迷惑そうな顔と奇異の目線で見送った。


 乙女は何も言わず、何もしなかった。



 「~~~~ちっくしょおおおおおお! なんでこうなったああああ!」



 青年の泣きながらの叫びに答える者はいなかった。


 そして、家に帰りつくまでに土砂降りの雨に降られた青年は、熱を出して三日ほど寝込んだ。



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