第四章 箴言、美しい花には毒と棘がある 3
春と呼ぶには、少し暑さを感じる日だった。
風が騒がしくもあったが、そんなことは気にも止めず、とある街角のカフェのテラス席で優雅にコーヒーを飲んでいる老紳士がいた。
といっても、丁寧に撫でつけられた白い髪と目尻や手に刻まれた皺以外に、年齢を感じさせるものはなかったのだが。
「コーヒーのおかわりはいかがですか?」
「ああ、では一杯いただこう」
耳が遠い様子もなく、聞き心地のいいバリトンボイス。店内のカウンターで、ウェイトレスたちはこそこそと囁き合った。
「ねえ、今までにあんな人見たことある?」
「いいえ、初めてよ。すごく常連客っぽい雰囲気出してるけどね」
「あんな絵に描いたようなダンディなおじさまがいたら、もっと覚えてるよ~」
「コラ、いつまでしゃべってんだい。お客様のことに口出しは無用だよ!」
『はーい』
店主に手を叩かれて、ウェイトレスたちは良い子の返事とともに仕事へ戻っていった。
夜はバーになるこの店は昔から町に馴染んでいて、ちょっと一息で立ち寄る人も多かった。
チェックのスカートに袖の広がったシャツを着た乙女も、そのつもりだったのだろう。だが店内は満席で、テラス席も埋まってしまっていた。
これは出るしかないと乙女がため息を吐いたとき、老紳士が声をかけた。
「こんな老いぼれでよければ、一緒にどうかねお嬢さん」
老紳士の前にはコーヒーのおかわりと、追加で頼んだ軽食のサンドイッチが食べかけで置かれていた。
「ありがとうございます。失礼しますね」
他に選択肢もないので素直に礼を言って座ると、さっとウェイトレスが寄ってきた。
「ご注文をおうかがいします~」
「カフェオレと……この季節のジェラートを下さい」
「かしこまりました~」
「……あの、私に気にせず新聞を読んでいただいてけっこうですので」
ウェイトレスを見送り、机の隅に避けられた新聞へ目をやって乙女はそう言った。
「いや、この懸賞欄にあるクロスワードを解いていただけだ。ちょうど、白黒に飽きていたところでね。君のような美しい女性を見ていたい気分なのだよ」
「まあ」
乙女は口元に手をあてて笑った。そして、少し興味を引かれたようにクロスワードパズルを覗き込んだ。
「それにしても、新聞にクロスワードが載っていたなんて、気がつきませんでした」
「週に一回だけだから、無理もない。私も知ったのは最近のことだ。この年になると、時間を持て余し気味になってね。気まぐれに手を出してみれば、これがまた案外面白い」
「そうなんですね」
そのときちょうど、乙女が頼んだ二品が運ばれてきた。
さっそくジェラートを口へ運び、幸せそうに咀嚼する様が可愛らしくて、老紳士は表情が崩れそうになったが、意地でこらえた。
「コホン……。たとえば、今君が食べているジェラートだが、世界に残っている一番古い記録は神話の歴史書にまで遡るそうだ」
代わりにそう言えば、乙女の目が丸くなった。
「そうなんですか? 初めて聞きました」
「この豆知識もクロスワードからだ。興味深いだろ? 今日解いていたものは、そのジェラートが生まれた地の郷土料理に関するものでね」
乙女がさらに興味を持ったようなので、老紳士はほとんど埋まっていたクロスワードパズルを渡してみた。ああでもないこうでもないと、二人で解き合う時間はまさに老紳士にとって、至福というほかなかった。
「クロスワードって、こんなに面白いものだったんですね。問題を解くのもそうですが、知識が増えていく感じが楽しいです」
「まさしく君の言う通り。暇つぶしで始めたはずだったんだがね」
老紳士の言葉には力がこもっていた。以前のように知ったかをして取り繕う必要がないというのは、思った以上に余裕を生んでいた。
この頃には西日が眩しくなり、建物の影も長くなっていた。
乙女は自分の腹部に手を添えると、少し恥ずかしそうに笑って言った。
「なんだか料理に関することばかり見ていたからか、お腹がすいてきました。ピッツァでも食べたい気分ですね」
「! それならおすすめの店がある。よければこのあとどうかね」
「本当ですか? ぜひご一緒させてください」
(よっし!)
老紳士は内心で喝采を叫んだ。
「ワインの種類も豊富な本格的なお店でね。きっと君にも気に入ってもらえるはずだ」
「それは楽しみですね。あ、ちょっとお手洗いへ行ってきます」
「あ、ああ」
浮かせた尻を、もう一度席に落ち着ける。乙女と入れ違いでウェイトレスがやってきた。
「コーヒーのおかわりどうですか?」
「いや、彼女が戻ってきたら出るからけっこうだ」
「かしこまりました」
誰の目にも明らかなほど、老紳士はソワソワして落ち着きがなかった。
それから老紳士は待っていた。
ずーっと待っていた。
最初におや? と思ったのは、吹いてきた風が冷たくて体を震わせたとき。
次にあれ? と思ったのは、店主の女性が退店を促しに来たとき。
「お客様。申し訳ございませんが、当店のランチタイムは終了いたしました。ディナータイムまで一時店を閉めさせていただいておりまして……」
たしかに、店内の照明はほとんど落とされていて、他に客は残っていなかった。
これはもしかしなくとも
……逃げられた?
老紳士の顔が音を立てて固まったことに、店主も気がついただろう。
(でも私は何も言いませんし、笑いませんよ。ええ、接客のプロですから。頬の内側を噛んで我慢しますとも)
それから一拍ほどの気まずい間を挟んで、
「……」
老紳士は無言で立ち上がった。こういうとき、うろたえるのは無様で見苦しいと分かっていたので、そのまましっかりとした足取りでレジへ向かった。
「こちら、お連れの女性の分でございます」
さらりと付け足された金額はたいしたものではなかったが、まあなんというか、余計に老紳士を惨めにさせた。
掃除や片付けをしているウェイトレスたちもよく空気を読んで、誰もこちらを見ない。ただ時々、肩を小刻みに震わせるだけだった。
「……」
老紳士はやっぱり何も言わず、言われた金額を支払い、足早に店を出ていった。
そしてどこにも寄らず、自分の家の玄関をくぐった瞬間、大声で叫んだ。
「~~~~ちっくしょおおおおおお! なんでこうなったああああ!」
今日の夜はどこか生暖かい。あまり好いとは言えない日だった。
街灯の光がやたらと目につく人通りの少ない道を、乙女はひとり歩いていた。
曲がり角にさしかかったとき、誰かと正面からぶつかってしまった。正直、体の幅も背の高さも相手のほうが大きかったので、「痛い」と文句を言いたいのは乙女のほうだったが、なぜか喚いたのは男のほうだった。
「あー! いってー! 肋骨折れたー! おい女、てめえのせいだぞ! 治療費よこせや! なんなら体で払ってくれてもいいぜ?」
どう見ても元気な男は乙女につかみかかろうとして、すごい音ともに地面に叩きつけられた。
「なっ……ゲフゥッ!」
そのまま信じられない強さで背中を踏みつけられ、肺から空気が強制的に押し出された。
「ホホホホ……」
そして聞こえてきたのは、あの乙女とは思えぬ悪意が混じった嬌笑だった。
「何を勘違いしたのやら。貴様ごときが妾に手を上げ、さらに手込めにしようなど。百年経ってもなお足りぬわ」
男はどうにか首を巡らして、自分を見下す乙女を視界に捉えた。暗い愉悦の表情以外はいつもと変わらない姿だと……思った。
乙女の背後で揺れている、九つに分かれた大きな狐の尾を見るまでは。
「ひいぃ……⁉」
男は引きつった悲鳴をあげて逃げ出そうとしたが、乙女はますます足に力を込めて、男をその場から動かさなかった。
「貴様、最近妾の周りをちょろちょろとしておった奴じゃな? 青年だったり幼児だったり老人だったり……まったく、妾の気を引こうとあれやこれやと、愛い奴じゃな。徒労に終わるとは考えもせなんだか」
「う、うぅ……」
乙女はぐっと体を前に倒して、男の耳元にまで口を寄せた。
「それももう飽いたがな。どれ、同じ愚か者じゃ。先祖のように狸鍋にして食ってやろうか」
うっすらと弧を描く口の隙間から鋭い犬歯がのぞいた。
彼は誰の刻
全てを始まりへ
ボッと音を立てて、真っ赤な炎が宙で円を形作っていく。
「キィッ!」
九尾の狐が本気であると悟った男は、甲高い鳴き声を上げた。その拍子に、変化は解けてしまった。
幸いにもそれで乙女の足の下から逃れられたずんぐり狸は、再び乙女に捕まる前になんとか四本の毛深い足を動かして、茂みへと飛び込んだ。
命からがら逃げおおせた狸は、二度と町へ行くことはなかったという。
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