第二章  麗しい我が乙女の髪を、毎日黄金の櫛で梳く 3



 クロースターはその日を決して忘れまい。


 夜明けの鳥が、蒼穹を切って飛ぶような佳き日のことだった。



 「お父様。私は人の子に恋をしました。あの人が天に還るまででかまいません。共に過ごさせてください」



 突然娘からそのような申し出を受けて、クロースターはピシリと音を立てて固まった。すぐには理解が追いつかず、再び口を開いたのはきっかり三十秒後。



 「……我が愛娘、ユーレティアよ。すまんがもう一度言ってくれないか?」


 「はい、親愛なるお父様。私が恋をしたあの人の子が天に還るまでの間、共に過ごすことをお許しください」



 今度の返答は倍の時間かかった。



 「…………前例の少ないことだ。しばし待て」



 ユーレティアに思い詰めた様子はない。とても晴れやかな笑顔の彼女に、クロースターはそう伝えるので精一杯だった。



 「はい、分かりました。それからあの子の人柄でしたら、他のきょうだいたちにも聞いてみてください。邪な心根の者だとは誰も言わぬでしょう。許していただけることを願っています」


 「う、うむ……」



 スキップ調で去っていく娘を見送って、クロースターは頭を抱えた。


 結局、ああだこうだと一日思い悩んでも結論を出せなかった彼は、他の神々に相談してみることにした。



 「なるほど、それで妾らに声をかけたと」



 錦の御殿の上座で、口元を扇で隠しながら長い黒髪の女神はそう言った。



 「べつにかまわぬが……しかしおぬしはずいぶん優しいのう、クロースター。キュアノーを見てみよ。愛娘の一人が人間の漁師と言葉を交わし、物を少し贈った程度で相手を亡き者としおったぞ。よほど気に食わなかったようじゃな」


 「ああ、その話は聞いている。海の女神はなんと苛烈で身内贔屓なことか、とな。だがその娘はその後どうなった? 毎日泣き暮らしているそうではないか。私ならば、娘のそんな姿は見たくない」



 出された緑茶の芳しい香りも、今はクロースターの心を落ち着かせてはくれなかった。



 「では、さっさと許してやると言ってやればよいじゃろう。お互いを大切に想い合っているのであれば、問題なかろうて。そもそも妾は女性の守護、結婚を司るアルシノンぞ。全ての恋は叶えられてしかるべきとしか言えぬわ」


 「うぅむ……」


 「だがアルシノン、人と精霊だぞ。人同士でさえ、我の前で永遠の愛を誓っておきながら果たせぬことも多いのに、種族が違えばより難しかろう」



 眉間の皺がとれないままのクロースターの隣で湯呑みを傾けたのは、契約と信義の神ウェレディだ。片眼鏡をきらりと反射させながら、鋭い目でクロースターを見た。



 「そもそも、秘郷に人の子を長く留めておくのが良くなかったのだ。いくら珍しさが勝ったとはいえ、互いの領分を越えてしまわぬために秘郷を造り、暮らす場所を分けているのだぞ。そこを徹底せぬから、見よ、こうして問題が起こっているではないか」


 「……返す言葉もないな」


 「あるべき姿へ戻すならば、娘が泣こうが喚こうが人は人の元へ返してやるといい。精霊の命は長い。いずれ時が娘の傷も癒すだろう」


 「うぅむ……」



 最後まで唸ったまま、やはりというか、答えを出せないままクロースターはとぼとぼと帰っていった。ウェレディも帰り支度を整えながら、ぼそりと言った。



 「というかだな。まず相談相手を間違えているだろう」


 「そうじゃな。秩序を重んじるおぬしと、情を重んじる妾じゃ。両極端で答えなぞ出るはずもなかろうに」


 「こういうのはいっそ、ヴェルメイユのような無関係の適当な第三者に話を聞くほうがいいのではないか?」


 「そうかもしれぬが、あやつを呼びつけるのは至難の技じゃろ」



 風よりも気ままでとらえどころない神を思い浮かべて、二神は揃って肩をすくめた。


 一方、山の上の御殿から歩いて住処の塔へ帰ろうとしていたクロースターは、道中で石に腰掛けた老神に呼び止められていた。



 「ほっほ。ずいぶん景気の悪そうな顔をしておるな、森の神よ。儂が良い運を恵んでやろうか?」


 「けっこうだ、グリティス老」



 グリティスは勝負運を司る神だ。引きずるほど長い灰色のローブを身にまとい、見えるのは伸びた白いヒゲと、杖を握る皺だらけの手のみ。



 「ふむ、この先には結婚の神の屋敷があるだけ……。なんじゃ、身を固めることにでもしたのか」


 「私ではない。娘のことで少し相談があってな」


 「ほう?」



 経緯をざっくり話すと、誰よりも長いため息を吐かれた。



 「な、なんだ?」


 「まったく、可愛い娘の恋など素直に祝ってやればよいものを。何をそんな頑固になっておるのだ? 真面目も程々にせんといかんぞ」


 「むう。だがな……」


 「ああ、いい、いい。さっきの話で十分分かったわい。森の神がそんなだから、娘も勝手に郷を飛び出して人の子と番になるような真似をせなんだろう。子は親に似ると言うし……。よし、こうして会えたのもなにかの縁、儂がひとつ知恵を貸してやろう」


 「っ、いい考えでもあるのか?」



 グリティスはよっこらしょっと立ち上がり、思わず前のめりになったクロースターの胸を骨張った指でこつこつと叩いた。



 「たとえば身分に差があって容易に結婚を認められないときや、複数の相手から一人を選ばねばならぬときなど、人はよく相手に試練を課すのじゃ。森の神もそうすればよい」



 グリティスは勝負運を司る神だが、転じて成功や冒険者の守護も担うようになった。同時にスリルや驚きを好み、彼の館は小さな一軒家の見た目に反してドアの一枚、椅子のひとつ、家中の全てに何らかの仕掛けが施されている。


 そんなわけだから、グリティスは奇術の神ヴェルメイユと大変仲がいい。ウェレディたちの考えは図らずとも、早々に現実のものとなったのだ。


 そんな彼が提案したのが、娘の恋のお相手に試練を与えることだった。



 「試練、だと?」


 「そうじゃ。簡単に言えば、『娘が欲しければ私を倒していけ!』というやつじゃな」


 「私と人の子が武器を取って戦うのか? 話にならんぞ」


 「言葉を額面通りに受け取るでない。ようはおぬしは不安なのだろう? 娘を任せてよいものか、娘が不幸になりはしないか。そんなことを己一人で考えても煮詰まるばかりで、答えなぞ出るものか。時には何かの結果に任せるのもよかろう」


 「……ふむ。それはたしかに一考の価値がありそうだ」



         *         *         *



 細い月と満天の星が輝く夜、ノーアは枕元のオリーブの枝にそっと口づけた。



 「おやすみ、ユーレティア」



 あの日からの習慣だ。いつかきっと、そんな願掛けでもある。



 (『私もそう信じたい』って、ユーレティアは言ってくれたから)



 ベッドに潜り、ノーアは目を閉じた。




 そして夢を見た。


 霧におおわれたどこかに、彼は一人で立っていた。ひんやりとした白鼠色の霧は深く、伸ばした手の先も見えないほどだ。分かるのは、足が踏みしめている柔らかい土と、遠くで天に向かって伸びている巨大な何かの影。


 引き寄せられるようにその何かへと近づいたノーアの視界が、さっと開けた。


 土を盛って少し高くなったところに、巨大樹が聳えていた。幹はノーアが十人手を繋いでもなお届かないほど太く、天辺は霞んで見えない。


 そしてその根元に、威風堂々と言う文字を背負って神は立っていた。



 『我は森と眠りを司る神、クロースターである』



 背はかなり高く、鍛え抜かれた筋肉が薄手の服を破らんばかりに盛り上げている。乳白色の石のような目が、ぐるりとノーアを見据えた。



 精霊も神秘的な存在だが、所詮は造られたおもちゃ。創造主である神の存在感は、比べものにならないほど重たかった。まなざしだけで胃に穴をあけられるかと思ったほどだ。



 ノーアはつばを飲み込むと、自然と膝をついて頭を垂れていた。



 「見晴るかす天地の、大いなる喜びを恵み給う御神に、心よりの感謝を申し上げます」


 『……お前が、我が娘ユーレティアを娶りたいという人の子だな。なにゆえそんな無理を望むか。人と精霊はまったく異なる生き物。同じように同じ時を生きることはできぬのだぞ。持ちうる力も違う。互いに不幸にしかならぬと、なぜ分からぬか』



 ノーアは即座に理解した。ここでどう答えるかによって、己とユーレティアがどうなるかが決まる、と。



 「──花が数日しか咲けないことを恐れますか。夜の星が昼の太陽のように輝けないことを嘆きますか。そんなことはないでしょう。私も同じなのです」



 顔を上げ、クロースターをしっかり見返し、ノーアは微笑んだ。声すら奪うような圧に襲われ、恐怖しながらも、言葉に力を込めることは止めなかった。



 「私は、出会った瞬間にユーレティアのことが好きになりました。何よりも美しくて、でも誰より可愛らしい。他にも挙げきれないほどたくさんの、言葉では語り尽くせないような素敵な一面があるでしょう。私はずっと傍で、それを見ていきたい。彼女が嬉しいと思うことをしてあげたいし、彼女が悲しいと言うなら慰めてあげたい。特別なことは、何も望んでいません」



 よく思われようとか、耳当たりのいい言葉を並べ立てても意味がないと、ノーアは本能で分かっていた。だから、心からの想いを語る。髪と同じ、先祖代々変わらぬ濃い赤茶色の瞳に強い光が灯った。



 「たとえそのときは忘れても、また巡り来た時に人はその星を、花を思い出す。精霊の命は永いと聞きますが、だからこそ私は、一晩の星や花よりも長くユーレティアと一緒にいたいのです。私が死んだあとも寂しくないように。そして、いつか新しい恋をしても、私を忘れてしまわないように。美しい思い出として何度でも思い出せるように。私は、ユーレティアとそんなふうに限られた時間を過ごしていきたいのです」


 『……』



 ノーアの真意をはかるように、クロースターは黙って彼を見下ろしていた。



 「決してそれを不幸だとは言わせません。どうか、私をユーレティアと結婚させてください」



 精霊は汗水垂らして働くことも、老いて死ぬこともないことを、この人の子はちゃんと分かっていた。


 他の人間ならば手が出るほど欲しがる精霊の知恵や力にも、一切興味を示していない。巨万の富を築くことも、名声をほしいままにすることもできるというのに、だ。



 『……お前の心意気は分かった。ならばあとは、証明してみるがいい』



 神の象徴たる杯を取り出して、そう言った。みるみるうちに、杯は森奥に湧く泉のような澄んだ水で満たされた。



 「証明、ですか?」


 『そうだ。──十年。十年待ってみせよ』



 神は厳かに告げた。



 『ユーレティアに会わず、谷にも入らず、誰にも何も言わず、もちろん他の女に気を移すこともなく、十年の歳月を耐え抜くことができたならば、ユーレティアとの結婚を認めよう』


 「なっ……⁉」



 ノーアの目が大きく見開かれた。どんな条件を突きつけられようとも受ける気でいたが、まさかそう来るとは。


 杯が、静かにノーアの目の前に降りてきた。



 『それはわたしとの契約の杯。互いに破ることはできぬ。覚悟が決まれば飲むと良い』



 ゴォッと強い風が吹き荒れ、クロースターの白い髪があおられて逆立ち、雷光をまとった。



 『十年は精霊にとって瞬きほどの時間。だが人にとっては長かろう。ユーレティアのことを真に想うなら、その身を以て明かしてみせよっ!』



 たしかに厳しい条件だった。


 騙されたのではと恐れることもあるだろう。忘れられていないか不安になることもあるだろう。そんな途方もない時間を、ただ「信じる」という影も形もない言葉だけで過ごせと、この神は仰せなのだ。


 ノーアは深く息を吸い、



 「──望むところだと言わせていただきますっ!」



 杯の中の水を一気に飲み干した。


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