第二章  麗しい我が乙女の髪を、毎日黄金の櫛で梳く 2



 火がついたかと思うほど顔を赤くしているノーアに、ユーレティアは笑いを隠そうともせず言った。



 「みんな悪気があるわけでも、からかったわけでもないの。つい、ね」


 「ふぁい……」



 自分だって、誰かがあんな奇声を発していたら吹き出すだろう。そう言い聞かせたノーアは、ようやく顔を上げて自分がいる場所を見回すことができた。


 芳しい匂いが満ちていて、木漏れ日の白い光のどこかで鳥の鳴く声がしている。川のほとりを離れて、二人は森の中へ足を踏み入れていた。



 「あの、ユーレティア……さん?」


 「なあに?」


 「その、東雲の花っていうのはどんな花なんですか?」


 「きれいな赤い花よ。暁の太陽が当たるところに一年中咲いているわ。だから曇りの日が続くと、すぐ萎んでしまうのだけど。この森の奥に群生地があって、川からはちょっと離れているのよ」


 「へえ、そうなんですね」



 そして二人は同時に口を閉じる。訪れたのは気まずい沈黙ではなく、穏やかな静けさだった。


 人の営みにあるような音はせず、心地良い日の温かさと瑞々しい果実の香りを強く全身で感じる。ふと、薫風に混じって花びらのような蝶が目の前を横切っていった。


 (人の望む楽園そのもののようだ……。やっぱり夢なんじゃないかな、これ)


 固い石畳の道、諍いの声、土砂を巻き上げる暴風雨などとは無縁の世界。自分とは切り離された遠いものでも見るような気持ちで、ぼんやりとそれを眺めていた夢心地の時間。


 それは唐突に、前方からやってきた男女の精霊によって破られた。



 「待て待て待て待て待てぇ⁉ 誤解だから! 違うから! お願いだから話聞いて⁉」


 「うるっっさあぁぁぁぁぁいっっ‼ アンタなんか問答無用で鍋の刑よ! よくも私の、私のご飯をぉぉぉおお‼」


 「だから誤解だアアアアアアアアアアアアアアア⁉」



 青い顔をした青年の精霊を、包丁を振り回した女性の精霊が追いかけていた。そして二人は、現れたときと同じく、まさしく風のように去っていってしまった。



 (え、えぇ……っ⁉)



 声に出さないながらもノーアが目を剥いて驚いた理由は二つ。


 ひとつは当然、物騒な二人の状況そのもの。


 もうひとつは、足場も見通しもよくない森の中を叫びながら爆走しているという、一種の芸当について。


 実はこのセルシオラの谷という場所には、人間が行き来する山にあるような整備された道はなかった。


 木や花から生まれた精霊たちは、木の根につまずいて転んだり、小石で足を滑らせて怪我をするという感覚を持っておらず、道を作る発想すらないからだ。


 ノーアはそうはいかないので、前にも下にも上にも注意を払ってゆっくり歩いていたところに、あの二人である。


 ユーレティアに説明を求めるが、彼女も何があったのかよく分からなかったようで、二人で顔を見合わせた。すると近くの木の影から、茶色い頭がぴょっこりと覗いた。



 「あっれ、ユーレティアじゃん。珍しいの連れて何してんの?」


 「ちょっとご案内をね。ところでリア、今度は何をやったの、あの兄妹。知ってる?」



 毛先がピンッとはねたリアという精霊は、歯を見せて笑いながら教えてくれた。



 「知ってるどころか。オルヴァが他の連中と水切りしてる最中に石を変な方にすっ飛ばして、ティナが作ってたご飯の皿に当たってひっくり返して、仁義なき鬼ごっこが始まったとこまでぜーんぶ見てたもんね。アタシはなんとなく面白そうだから、追っかけてきただけ」


 「……つまり、いつも通りだと」


 「え、えっと、でもほら、『喧嘩するほど仲が良い』って言いますし……」



 こめかみを押さえて深々とため息をこぼしたユーレティアに、ノーアがそうフォローをいれるとリアが目を瞬かせた。



 「へぇー、人間にもアレが仲良く見えるんだ? 殺伐としてんなーとか怖えーって思わないの?」


 「オレの実家の近所に住んでいたご夫婦が、ちょうどあんな感じだったんですよ。なので特にそうは思わないですね」


 「ふーん、そんなものなんだ。じゃ、アタシはこれで!」


 「適当なところでちゃんと止めてよ?」


 「善処するー!」



 リアはウインク一つ残して、つむじ風とともに去っていった。そしてすぐ後に森の中から、



 「ねえねえ見て見てー! ウィーラの泉のとこですっごい理想の石見つけたー! これならオルヴァでもちゃんと水切りできるんじゃないのー?」


 「今⁉ それ今見なきゃなきゃダメか⁉」


 「はあ⁉ なによそんなのどーでもいいわよ! 寄越すならもっと殴りやすそうなの寄越しなさいよね!」


 「お前は何言ってんの⁉」


 「ねえねえ、オルヴァってばー? けっこうよくない?」


 「それそんなに今じゃなきゃダメなんですかねリアさああぁぁぁあああん⁉」



 穏やかで爽やかとはほど遠い叫び声が響いていた。



 (精霊も、あんな人間みたいなノリで喧嘩するんだ……)


 「えいっ」


 「まぐっ⁉」


 「ふふ、隙アリっ」



 呆然と、二人と一人が消えていったほうを見ていたノーアの口に、ユーレティアが小さくて丸い実を放り込んだ。


 「さっきも同じような顔をしてたわよね。ポカーンって。ふふっ、分かりやすい人」


 「そ、それは……」



 反論するにできず、ノーアは恥ずかしくなって視線を逸らした。


 ユーレティアはまだ肩を震わせていたが、ふと気がついたようにノーアの袖を軽く引っ張った。



 「ところでこれ、ずいぶん古そうな上着ね」


 「え? ええ、そうですね。初めて一人で旅に出るときに両親が贈ってくれたものなので、もう五、六年は……。これでも自分で繕ってきたんですが」



 すり切れて色褪せた鬱金色のコート。目立つような大きな縫い跡もゼロじゃない。


 金運を呼び招く色と言い伝えられ、まさにお前にぴったりだろと父は言ってくれた。


 せっかくのプレゼントだからと大事にしていれば、それだけ愛着もわいてしまって、これだけボロボロになっても新しいものへ買い替えられていない。


 苦笑しつつも、コートを撫でるノーアのまなざしには愛おしさがこもっていた。



 「……そう。じゃあ、コレは私からのお土産ね」


 「え?」



 ノーアが首を傾げるよりも早く、ユーレティアは彼の体からするりとコートを抜き取って宙へ広げた。



 【変わらぬ愛の戯れ、幸せの遊び】



 神秘の言霊とともにコートがキラキラした光に包まれ、霧が晴れるように消えていく。するとコートは、新品の頃と同じ強い赤みの黄色を取り戻し、綻びも傷もすっかりなくなっていた。



 「うわ、すごい!」



 驚きと感動が重なり、そんな幼い子どものような歓声しか出なかった。


 だがユーレティアは少し考えて、そばの木に絡む蔦の先端を引っ張った。すると蔦は、つーっと一定の細さでまっすぐに裂けていった。



 「これは樹液の多い木に絡む習性がある蔦なんだけど、繊維が真っ直ぐで、しかも柔らかいのに丈夫なの。だから……」



 少し太めの糸のようになった長い繊維をコートの上に乗せて、



 【黎明の憧れ死するまで】



 唐草のような、あるいは呪文のような、不思議な紋様が裾に刺繍されていく。ごく淡い緑の繊維は、つやつやと照り輝いていた。



 「こうして糸の代わりに使うの。さ、これでどう? いくら色が明るくても、無地じゃ味気ないわ」



 「すごい……。こんな……ありがとうございます」



 嬉しさも喜びも入り交じって、なんと言っていいのか分からないほどだった。



 「その、何から何まで……なんか申し訳ないです」


 「お土産なんだから、気にせず受け取っていいのよ?」



 どこまでも腰が低いノーアに、ユーレティアは軽く唇を尖らせた。




 「さ、ここよ」


 「っ……!」



 それから二人は子どもたちと遊んだり、力自慢の精霊たちの組み手に参加したりと寄り道を続け、今ようやく東雲の花畑へたどり着いた。


 並び立つ細い木の間から顔をのぞかせて、ノーアは息を呑んだ。


 山というよりは小高い丘のようなこの頂上に、グラデーションの美しい花が一面に咲き誇っていた。中心が一番濃い茜色で、そこから徐々に明るく、白に近くなっていく。花びらの大きさは手の平に乗る程度と、やや大きい。


 そんな花畑からは、谷の中心を流れていく川の果てが何にも遮られることなくよく見えた。一年中朝日が当たる場所というのも、ただの比喩ではなかった。


 さぞ綺麗なことだろう。ぜひ見てみたい。



 (……ハッ! いやいや、ダメだろ! オレはこの花をもらったら、ここから出て元の道に戻るんだから!)



 慌てて頭を振り、ふいに湧きあがった衝動を振り払った。


 そもそもノーアは、ユーレティアの好意で精霊たちの家たるセルシオラの谷に招かれただけなのだ。たとえば人間同士のやりとりで、初対面の者に「家に泊めてくれ」と言われたら、非常識だと怒るのが普通だろう。それと同じだ。



 (人様の迷惑にならないように、それが人生の鉄則。だから諦めなきゃいけない。…………そう、諦めなきゃ……)



 決意がだんだん尻すぼみになっていく。


 綺麗な朝日を見たいということではない。もっと大事な、もっと特別なことを、本当は……。



 「はい、どうぞ」



 そう声をかけられて、昼の濃い空色が遠ざかりつつあるこの時間帯でも朝焼けの色を残している地面から、少し目をずらした。



 「布への染め方は他の花と変わらないはずよ。種から次の花を育てられるかは、私にも分からないけれど」


 摘んだ三輪の花を入れた籠を差し出している、この愛らしくも凛とした精霊の乙女のことを──。



 「……どうかしたの?」



 ぐっと奥歯を強く噛みしめているノーアを心配して、ユーレティアが顔を覗き込んできた。丸いエメラルド色に、痛みや辛さをこらえるような情けない顔が映っている。



 「いえ、なんでもありません。ありがとうございます、大事にします」



 これもまた本心。さっと笑顔を取り繕い、受け取った籠を落とさないように、潰してしまわないように、胸の前に抱え込む。


 一瞬、どちらも何を言おうか迷っている気まずい空白があった。


 だがふわりと吹いてきた風が肌を撫でて、無意識のうちにノーアは呟いていた。



 「オリーブ……」


 「え?」


 「あっ! いや、その、今、なんかオリーブみたいな匂いがしたなーって思って!」



 慌てて説明すれば、ユーレティアは軽く手を打った。



 「ああ、そうね。あっちにはオリーブ畑があるから。……行ってみる?」


 「えっ、い、いいならぜひ!」



 そしてユーレティアは、彼を自分の宿り木であるオリーブの樹へ連れて行った。高く成長したその樹は花畑よりもさらに高い斜面の上のほうにあり、枝に座れば谷を一望できた。



 「うわぁ……! すごい……!」



 今日だけで、何度同じことを言っただろう。だが、これ以上端的にノーアの想いを表す言葉もあるまい。


 瞳にも光が戻ったのを見て、ユーレティアは彼の後ろでこっそりと安堵のため息を吐いた。



 「……ここね、私の一番のお気に入りの場所なの。気に入ってもらえたなら、嬉しいわ」


 「もちろんですよ! オレの町は平地にありますし、旅の途中で山に入っても、こんな素敵な景色は見たことありません。ありがとうございます」



 振り向いてユーレティアへ向けたその笑顔に、やはり嘘はなかった。


 そしてノーアは顔を夕日のほうへ戻した。眩しそうに目を細めていたが、その心は感動に打ち震え、この景色を記憶に焼きつけようと静かに眺めていた。


 ヒュウッと吹いた風が木々を揺らし、漣のように谷を駆けていった。二人の髪もあおられて宙に踊る。霞むような白い光にオレンジの色が溶けていく間、ときおり吹くそんな風の音だけを聞いていた。


 ──いいや。



  なぜかは知らないけれど


  わたしの心は寂しいみたい



 注意していなければ聞き逃してしまいそうなほど細い細い歌が、女性らしい柔らかな声で紡がれていた。



  誰も知らない


  誰も覚えてない


  遠い異境の物語うた


  いつまでも聞こえている



 急な寒気がノーアの背筋を走り抜けた。それはある種の恐怖にも似ていたかもしれない。


 波紋を広げるように、空を染めていくあの夕暮れと同じ。物悲しくて、懐かしくて、温かくて、どこかに終わりを含ませた憐れみと慰めの音色。



  風が冷たくなれば


  花もしぼむ眠りの時間


  ああ……


  谷の夕日はこんなにも美しい



 「ユーレティアッッ‼」



 足場の悪い枝の上とは思えないほど俊敏な動きで、ノーアはユーレティアを抱き寄せて腕の中に閉じ込めた。



 「……どうしたのかしら。そんな怖い声を出して」



 ユーレティアは、抱き返してくれなかった。



 「…………嫌だ。君と離れたくない」



 それが切なくて悲しかったけれど、ならばとノーアはさらに腕に力を込めた。



 「君が好きなんだ、ユーレティア」



 風が一段と冷たくなった。夕暮れは夜へ変わろうとしていた。



 「ずっとオレは、精霊は神秘的で、人間とは相容れないものだと思っていた。……でもこの谷を見ているうちに、意外とそうじゃないんだって思えた。そうしたら、すごく君のことが気になって、頭から離れなくなってしまった。可愛くて、美しくて、優しい。でも、それだけじゃ足りない。もっと君の傍にいて、そんな一言で済ませられないようなことを知りたいと思ってる」



 拙い言葉を、それでも一生懸命に紡ぐ。



 「それに、君をもっと楽しませてあげたいし、喜ばせてあげたいと思ってる。オレにできることはたかが知れているかもしれないけど、その役を他の誰にも渡したくないんだ。……君は、オレのことをどう思ってる?」



 最後は声が震えた。正直、答えを聞きたくないと思うほど怖かった。


 ユーレティアの言葉を待つ時間が、とてもとても長く感じた。



 「…………どうして言っちゃうかな。このまま別れれば、お互い綺麗な思い出ですんだのに」



 お互い、というところにノーアの心臓がは大きな音を立てた。



 「……それは、思い出にしたくないからだよ。この先もずっと、オレは君と一緒にいたい。ユーレティア、君が好きだから」



 今度の沈黙は短かった。



 「……うん、私も君のこと、気に入ってる」



 精霊は美しいものが好きだ。それは、見た目に限ったことではない。晴れた夜空、初夏の風、ひだまりの木陰。まるでそんなもののようなあるがままの純粋な心。それも、精霊は大好きだった。


 無欲で、初々しく、穏やかで、正直な人間。こんな美しい心のそばは、心地いい。


 ノーアの肩に頬を寄せて、ユーレティアは目を閉じた。口元には、まんざらでもない微笑みを浮かべていた。



 「ユーレティア……」



 喜びに唇を振るわせて、ノーアは名前を呼んだ。だがユーレティアは、彼の腕の中からするりと抜け出してしまった。



 「だからこそ、綺麗な思い出のまま別れたほうがいい」


 「なんで……っ⁉」


 「だって人と精霊は、文字通り住む場所が違うもの。交わるべきでないわ。それに、お父様が許してくださるか分からないもの。いいえ、許してくださらないだけならマシ。お父様の不興をかって、あなたが殺されてしまうようなことになったら、私は……」



 長い睫毛を伏せて、ユーレティアは声を震わせる。ノーアはその冷えてしまった白い手をしっかりと握りしめた。



 「そんなこと言わないでくれ、ユーレティア。オレは、何かを為そうとするとき、否定から入るんじゃないと教わってきた。何も話が進まないし、気も削がれるから、と。……だからオレは、大好きな君と一緒にいるために、いろんな勇気を持つと約束する。君も、そう思ってくれないか?」



 真剣に見つめてくる瞳には熱が込められていて、きゅっと心臓の奥を掴まれた。



 「……そうね。人の子の強さは、その熱量よね」



 そう呟いて、ユーレティアはオリーブの枝を手折るとノーアの手に握らせた。



 「私も、もっとそれを感じていたいわ」



 そして輝き始めた一番星が見守る中、ユーレティアはノーアを思いっきり突き飛ばした。それは宙を落ちていく感覚でも、地面に倒れていく感覚でもない。


 秘郷から追い出されたのだと、ノーアはとっさに理解した。


 朧げになっていくユーレティアの口が何かを紡ごうとしたのを見て、



 「さよならは聞きたくないっ!」



 ノーアは思いっきり叫んだ。そして、手を伸ばした。



 「ユーレティア、オレは君が好きだ! だから信じてくれ! オレと君は、共に生きていけるって──!」



 その言葉が届いたのかは分からない。だが最後に見たユーレティアの顔は、それまでのどんな笑顔よりも明るかった。











 「うん、私もそう信じたい」







 

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