第二章 麗しい我が乙女の髪を、毎日黄金の櫛で梳く 1
ユーレティアは、秘郷・セルシオラの谷に住むオリーブの樹の精霊だ。
いつも緑がかった金髪に可憐な花々を編み込んでいる。成熟には至らず、さりとて幼いばかりでもない。そんな、淑女と少女の狭間のような姿をしていた。
精霊とは、他のおもちゃたちとは違って、神が想いを込めて造り上げた特別なおもちゃの総称だ。そのため神にとっては、まさしく我が子と呼んでよかった。
彼らはみんな、生まれた時から見目麗しく、賢く、あるいは無垢に、そして優れた身体と不思議な奇蹟の力を持つように造られていた。百年の寿命の制限も、彼らにはない。
精霊たちは普段、それぞれの神が箱庭に用意した秘郷の中で生活をする。だから精霊同士の交流は深かったが、他のおもちゃと出会うことは滅多になかった。
だが閉じ込められているわけでもないので、彼らは気まぐれに秘郷の外へ遊びに出ることもあった。
特に、クロースターの娘たちは美しいものが大好きで、東に輝く美貌の青年がいると聞けば一目見に行き、西に名高い竪琴の名手がいると聞けば群衆に混ざって耳を傾けていた。だから彼女たちは、精霊の中でも人間に対して比較的好意的であった。
ユーレティアと青年の出会いはそう複雑な話ではなく、たまたま彼がセルシオラの谷に迷い込んできただけのことだった。
もらった地図の通りに進んでいたはずなのに、気がつけば深い森の中をさまよっていた純朴な青年は、さぞ驚いただろう。
向こう側が見えそうなほど薄く、軽やかだが、決して透けない不思議な衣を身にまとい、張り出した太い木の根に腰掛け、カンパニュラの花にキスをするように唇を寄せる、人ならざる美の化身がそこにいたのだから。
まるでそこにだけ光が差したような、神秘的な光景だった。
「あら、珍しいお客様だわ」
「うあっひゃああああああ⁉ お、オレ、いや、あの、わ、私はぁ⁉」
惚けて自分を見つめている青年にそう声をかけてみると、彼は裏返った声で叫び、あたふたと身なりを整えようとした。それが面白くて、つい彼女は笑ってしまった。
ユーレティアはその前日、友の精霊に誘われて三百年の周期で花を咲かせるという
ユーレティアの持つ花がかすかに震える。
『どうかしたのかい、ユーレティア』
「いいえ、なんでもないわ。それじゃあね、美味しいお土産をありがとう」
『どういたしまして。そんなに喜んでもらえるなんて、作り手冥利に尽きるよ。じゃ、また会おう』
カンパニュラは遠くまでその音を届ける鐘の形をしていることから、特に感謝を伝える手段として精霊たちの間でよく使われていた。
会話を終えたユーレティアは、結局直立不動のまま動けなくなっていた青年へ向き直った。
「どうかしたの? そんなにかしこまらなくていいのに」
「ぇあ、す、すみません! あの、え、えっと……!」
緊張しているのは誰の目にも明らかだ。
だがそんなことは気にせず、ユーレティアは好奇心のおもむくまま、大きな瞳で彼を覗き込んだ。
「ねえ、運の良い人の子。あなたはだぁれ?」
「! は、はい! オレ、人間です! ノーアって言います! 父の作った布を売ったり、新しい染料を探したりしています! よろしくお願いします!」
きょとんとした顔でしばらく考えたユーレティアは、反対方向に首を傾けた。
「商人、というものかしら?」
「そ、そんな立派なものではなく……。趣味と実益を兼ねた旅と言いますか」
「まあ、そうなの。それじゃあ、どうやってここに?」
「さ、さあ……迷ってしまったみたいで……。あの、地図には載ってなかったのですが、ここには村か町が?」
頭ひとつ分ほど小さいユーレティアを青年──ノーアはただの子どもだと思ったらしい。
自分の正体を知った彼は、どんな反応をするだろう。ユーレティアのイタズラ心が小さく疼いた。
「いいえ、違うわ。私はユーレティア。森と眠りの神クロースターに造られた精霊よ」
「せ、精霊⁉ って、あの、ほとんどおとぎ話みたいな……え、というか、じゃあここって……」
「精霊たちのための精霊たちだけの住処。秘郷・セルシオラの谷よ」
にっこり笑ってそう明かすと、ノーアの顔が真っ青になった。
精霊と人間の間に交流がほとんどないといっても、まことしやかに語られる伝承は今でも各地に残されている。
偶然助けた精霊から抱えきれないほどの財宝をもらった男の話や、あるいは逆に、邪な目的で精霊の住処を荒らして滅ぼされた町の話など。幼い頃、ノーアも寝る前に母親からそんなおとぎ話をよく読み聞かせてもらっていた。
そして、母親は決まって最後にこう言うのだ。
『だけどいいこと、私の可愛い坊や。精霊は朝露の一滴よりも儚く、無窮の深淵よりも深く、数多の神々と同じくらい貴いものだから、決して探したりしてはダメよ。小さいお前なんか、すぐに捕まって家に帰ってこれなくなってしまうからね』
家に帰れなくなるのは、とても嫌なことだと幼心にとても強く響いた。だからこそ、ノーアの無意識には漠然と「精霊とは関わってはいけない」という戒めが刷り込まれていた。
彼は大きく一歩後ずさると、きっちり腰を九十度に曲げた。
「すみませんでしたッッ! あの、悪気があったわけじゃなくて、本当、ただ迷ってしまっただけで! すぐに出て行きます! 申し訳ございませんでした‼」
ぎゅんっと音を立てて背を向けたノーアの肩を、ユーレティアは素早く掴んだ。
「いっ⁉」
「あ、ごめんなさい。つい」
その細腕からは考えられないほど強い力で、思わずノーアの喉から引きつったような悲鳴が漏れた。だがおかげで、力んでいた体からは少し力が抜けた気がする。
「えっと、な、何か……?」
「ええ、そんな寂しいこと言わないでほしいと思って。そんなに怯えられたままだと悲しいし……」
「そ、それは……すみません」
「それでね、ちょうど私たち、ささやかだけどパーティーをしていたところなの。あなたも一緒にどう?」
「はぃっ⁉」
喉の奥で声がひっくり返った。
しかも「どう?」と聞いておきながら、ユーレティアの手はノーアの背中を押して進んでいるのだから、もはや決定事項だ。
「いや、あの、」
「精霊の秘郷と世界の境界は曖昧よ。完全に閉じられてもいないけど、開かれているわけでもない。だから、ここに人間が来るなんてとても珍しいことなの。一体いつぶりかしら? きっとみんなも歓迎してくれるわ」
「そ、それは光栄です……けど、その、」
「それに、出ていくと言っても道は分からないままよね?」
「ゔっ、ま、まあ……」
「ね、だから少しお話しましょ?」
「は、はあ……」
結局ユーレティアに押し切られ、運のいいノーアは精霊自らに招かれるというさらなる幸運を手に、谷の奥へと足を踏み入れた。
「さあ、ようこそ。私たちの家へ」
パーティーと言っても、緩やかなカーブを描いた幅の広い川のそばに集まっている様子は、人間からするとピクニックのようであった。
野花揺れる岸辺から、そして深く澄んだ川の中から、楽しそうにはしゃぐ声が響いてきていた。
「あらぁ、おかえりなさい、ユーレティア。また珍しいお土産を持って帰ってきたわねえ」
川に足先を浸していた精霊が振り返って笑った。
「もう、クラリス姉様ってば。彼は迷子のお客様よ。せっかくだしお招きしたの」
「珍しいということには変わりないでしょ? さあいらっしゃい、迷子のお坊ちゃん。こっちで一緒に一杯やりましょう?」
「わっ、クラリス姉様がそんなことを言うなんて。天変地異でも起きてしまったらどうしましょう」
「あら、人聞きの悪い。私の気分がこんなに良くなるぐらい、いい天気なんだから大丈夫よぉ」
ユーレティアに背中を押されるまま、ノーアは彼女とクラリスの間に座るしかなかった。
(す……っごい緊張する……)
左右から違うタイプの良い匂いがして、体はガチガチに強張ったまま。全力疾走したときのように脈打つ心臓も、収まるにはほど遠かった。
「さあどうぞ。さすが最高傑作と売り込んできただけのことはあるわー。本当に美味しいのよ」
「あ、はい。ありがとう、ございます。えっと、いただきます……」
水晶を削ったグラスに注がれたお酒は、薄い白に濁っていた。おそるおそる口に運んだノーアだったが、酒特有の苦みがなく、鼻から抜けていった爽やかな甘めの香りに目を丸くした。
「あ、美味しい」
思わず素直な感想をこぼすと、クラリスはさらに気をよくしてノーアのグラスにお酒を注ぎ足した。
「ふふん、そうでしょ? ……ところで、名前はなんと言ったかしら、お坊ちゃん」
「あ、はい、ノーアと言います。よ、よろしくお願いします……?」
「かわいそうに。怖がっているの? ユーレティアが何かしたのかしら」
「えっ⁉ いや、そんなことは!」
「むぅ、失礼な。クラリス姉様に飲まされて怖いんでしょう」
「いや、それも違います⁉」
顔を赤くしたり青くしたりしながら左右の精霊に弁解すれば、二人ともクスクス笑っていたので、からかわれていたのだと気がついた。
「あの……」
「悪かったわぁ。つい、あなたの反応が可愛いものだから」
安穏とした永い時を厭うわけではないが、やはりたまには刺激が欲しいもの。このような珍しさを、精霊たちは歓迎していた。
もしもノーアから邪な心を感じたり、あるいは猛々しい戦士であればこんなことはなかっただろう。
だがユーレティアやクラリスが見たところ、その体格は貧相と言うほどではなかったが、戦士として鍛えられた体とは違って薄い。初々しさの残る顔立ちも、かまいたい気持ちをさらに刺激した。
するとそのとき、対岸の突き出した大岩の上から、尖った耳の精霊が手を振って声をかけてきた。
「ねえ、ユーレティア姉様ー! 見て見て!」
「どうしたの、アラン」
「行っくよー! えいっ」
彼は背中から水へ飛び込み、見事な回転を描いて足から着水した。特に怪我もなく、すぐに浮いてくるとユーレティアのほうへ泳いできた。
「ねえねえ、どうだった姉様! すごいでしょ? この前川の精霊たちに習って、ずっと練習してたんだ!」
「へんっ、一回転できた程度で喜ぶなんて、まだまだだなアラン」
ユーレティアが返事をする前に割り込んできた声は、アランよりも少し背の高い少年の精霊だった。
「おれなら二回転はできるぜ。なんなら教えてやろうか?」
「でもシリル兄様、この前失敗して頭ぶつけてたじゃん! そんな人に教わることなんてないよーだ」
「な~に~? 生意気な弟だな。よし、それじゃあどっちがきれいに飛び込めるか勝負だ!」
「いいよ! 絶対負けないから!」
「他の奴らも誘おうぜ!」
そして二人はまた川の方へ走っていった。ちなみにシリルはさりげなく、クラリスの前にあったお皿からお菓子をひとつつまんでいった。
「チビッコたちは相変わらず元気ねえ」
クラリスはそう言って、下流のほうへ目をやった。
つられてノーアもそっちを見ると、肩車をされて川を渡っている幼い姿の精霊の後ろから、別の精霊が水をかけようとしていた。
激しい攻防の声がここまで届いてくるも、遠慮のないやりとりに険悪さはなく、兄弟の仲の良さが窺える。
(そういえばオレも、兄さんたちと同じようなことをやってたな)
五つ上の兄や故郷の友人たちとの懐かしい思い出が蘇ってきて、ノーアはくすりと微笑んだ。
「ねえ、あなたは布を売る商人みたいなものなのでしょ? たとえばどんな物があるの?」
「あら、立派なのねえ」
「あ、いや、商人と言えるほど大したことはありませんが……。そうですね」
ユーレティアが袖を軽く引っ張り、クラリスも身を乗り出してきたので、ノーアは顔を引き締めて背負っていた荷物の中を探った。
ちらりと見上げた空には、燦々と輝く太陽。人と精霊の身体のつくりがどこまで同じかは知らないが、これなら。
「たとえば、こちらの布はいかがでしょう。布を二枚重ねているので多少重さはありますが、表面に塗った特別調合の糊が雨水を弾いてくれるので、体や荷物に巻いて雨避けになります。それに、日光を通さないのでどこでも快適な日陰が作れるんです。夏に窓の外にかけておくと涼しいって評判なんですよ」
「まあ、いいわねえ。ここにいると、暑さはともかく眩しくて」
ノーアの狙いは的を射ていたらしい。内心でひそかにガッツポーズをきめた彼は、次の瞬間、精霊の奇蹟を目の当たりにした。
【楽園の栄誉あるささやき】
クラリスが布に触れ、吐息とともに人間には聞き取れない言霊を吹きかけると、みるみるうちに布が形を変えた。まるでピンッと張ったテントのように、三人の頭上に浮いて広がる。
「すてき、裏側は華やかな黄色なのねえ」
クラリスが手を叩いて喜んでいる横で、ノーアは唖然とその様子を見ていた。
「まあ、大きなお口。小魚ぐらいなら入ってしまいそう」
ふいに頬をつつかれて、慌ててノーアは口を閉じた。
「冗談よ?」
ユーレティアはそう笑っているが、なにせ目の前は川である。本当に入れられるかも……と恐れるのも、仕方ない。
「……コホン。えーっと、そちらの布が気に入ったのなら差し上げます。美味しいお酒のお礼に」
「まっ、気前の良いこと。……と言いたいけれど、それはちょっと悲しいわぁ」
「え?」
「だってあなたはユーレティアが連れて来たお客様じゃない。お客様にお酒のひとつも出さないような無礼者だと思われてたなんて、心外よぉ」
「えっ⁉ いや、そんなつもりは全然⁉ あの、ホントに、良ければって思って! 素敵だって言ってもらえて嬉しかったっていうのもありますし!」
流れてもいない涙を拭うクラリスに、ノーアは大慌てで両手を振って弁明した。それを宥めたのは、反対側に座っていたユーレティアだ。
「本当に素直な人。怒っているわけじゃなくて、クラリス姉様の意地悪よ。さあ、これもどうぞ。この川でよく冷やしておいたの」
「むぐ?」
ユーレティアがノーアの口に押し込んだのは、濃いピンク色の果肉だった。初めて食べる味だったが、慣れればほどよい酸味がくせになりそうだ。
「……これも美味しいですね」
「お口にあってよかった。本来は南のほうの暖かい地域で育つ果実なのだけど、ここは森の神の秘郷だから。望めばそれが森にあるかぎり、谷で手に入らないものはないわ」
「えっ、それはすごいですね。オレはまだ南の方って行ったことがなくて。こんなものが食べられるなんて羨ましい。次の目的地にしてみようかな」
「……」
毒気を抜かれるような、下心も含みもないただの感想。ノーアの本性が富に価値の重きを置く抜け目のない商人であれば、こんな言葉は出てこなかっただろう。
強欲は人の大罪、清廉は神の美徳。精霊は人間よりもはるかな超感度でそれらを感じとる。だからノーアの言葉が心からのものだと、二人にはよく分かった。
「お坊ちゃん、商人には向いてないんじゃないかしら?」
クラリスも同じことを思ったのか、グラスを傾けながら笑った。
「えっ! い、いきなりどうして……」
うろたえるノーアを横目に、二人は肩をすくめるばかり。
「なんでもないわあ。それより、この布の対価に何を払おうかしら」
「いや、あの、本当にオレ、何もいらないんですけど。精霊に気に入ってもらえたっていうだけで、十分誇りに思えることです。父さんもきっと喜んで……」
「ああ、そうだわ。東雲の花なんかいいかもしれないわねえ。遠い東の地方に伝わる染料よお。きっとあなたの役に立つんじゃないかしら」
まったく聞いてない。どころか、きっと聞く気もない。
(……これは、たぶん、どれだけ言っても意味ないんだろうな)
遠慮を含む諸々の感情を、ノーアは諦めて胃の底に飲み込んだ。そして何事もなかったかのように、聞き逃せない単語を繰り返した。
「染料、ですか?」
「ええ、そうよ。とーってもきれいな薄紅色に染まるんだから。ユーレティア、案内してあげて」
「はーい。さあ、こっちよ」
「え、いや、こっちって……!」
歩き出した先は川。飛び込んでも怪我をしないような深さの川だ。このまま渡れるとは思えない。
手を振り払うこともできず、かといって足を止めることもできず、オロオロしていたノーアの体は急にぐんっと引かれて、宙へ浮いた。
「わっひぇああああ⁉」
ユーレティアの奇蹟の力によるものだったが、そうだと理解するよりも早く、宙を歩いたことのないノーアは驚きと恐怖が混じった叫びをあげた。
だがこの場にいるのは、それが当たり前の精霊ばかり。人間の滑稽すぎる悲鳴に、さざなみのような笑い声が広がったのは、いうまでもない。
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