第一章  夜から夜へ、星を渡っていつか恋初の君に会いに行こう 1




 「今日はお前から話せ、ヴェルメイユ。わざわざ押し掛けたからには、いい話の一つや二つあるんだろうな」


 「おっと、そうくるかい? ふむ……それじゃあ、この前見かけた人の子たちの話でもしようか」






 小学校での学年が上がり、授業に理科の科目が増えた。そこで初めて、ヨハンは星座盤を見た。毎年生徒に教材として配布するものなのだから、特別どうだったわけではない。どうせ大量生産された安物だっただろう。


 それでもなんだか無性にドキドキして、ずーっと見つめていたことを、大きくなってもヨハンは覚えていた。


 それから毎夜、星座盤を抱えて空を見上げる日々が続いていたことも。


 それまでの十年程度の人生、べつに夜空に惹かれることもなく、外で好きなだけ走り回ってはベットに飛び込んで、即寝落ちするガキだったというのに。


 家、店、街灯、地上のいろんな光のせいで空の光は見えにくかったが、それでもひとつ見つけては星座盤で確認するのが楽しかった。


 同じ時間に同じ場所から同じ星を見ていても、微妙に星のいる場所は違っていて、それをノートに記録するのもカッコイイ感じがして楽しかった。


 あんなに高い所にあるものが、この手の中にある。あんなに遠いところにあるものを、この手で追いかけられている。まるで世界を手に入れたかのような、そんな気分だった。


 その頃、ヨハンにはとても仲がいい友人がいた。家も近かったし、よく遊んだ。星を好きになったヨハンが、本を読んで手に入れた星の神話や逸話やうんちくなんかを披露しても、その子はなんでも「すごいねえ」と言って聞いてくれていた。


 だから、ヨハンは調子に乗ってしまった。


 ある冬の寒い日のことだった。いつもの分かれ道で、ヨハンはこっそりとその子の耳に囁いた。



 「誰にも言ってない秘密なんだけどさ。今晩、百年に一度の大ほうき星が見えるらしいぜ。たくさんある流れ星の中でも、一番、ちょーすごい星なんだってよ。で、どんな願いも必ず叶えてくれるんだってさ」



 嘘だった。何から何まで、全部。


 ただその子が、「すごいねえ」とキラキラした目で見てくれるから。自分が万能の天才になったような気がして、気持ちがよかったから。もっと言ってほしくて。



 ただそれだけの理由で、ヨハンは嘘をついたのだ。



 翌朝、集団登校の集合場所にその子は来ず、代わりにその子の母親だけが来た。そして、



 「熱が出ちゃったから学校はお休みするね」



 と言った。


 その子は季節の変わり目には風邪を引くような子だったから、ヨハンは「またか、大変だな」としかそのときは思わなかった。


 学校から帰ってきて、ヨハンは母親から本当のことを聞いた。ヨハンの親もまた、その子の親と仲が良かった。



 「なんかねー、昨日一晩中窓を開けて空を見ていたらしくって。四十度近い熱が出て、しかも吐いちゃったりもしたらしいのよ。色々と大変みたいよー」



 ヨハンの全身から血の気が引いた。指先から温度がなくなっていく。喉がカラカラに渇いた。心臓が早鐘のように打ちつける。


 なんで、という疑問は一瞬で消え去った。



 (いや、もしかしなくてもそうじゃん)



 つまらない嘘だった。


 つまらないウソ、のはずだったのに。



 「お、おみまい、とか、行ったほうがいい……のか、な」



 謝らなきゃいけないと、ヨハンはすぐに思った。こんなことになるなんて思わなかったんだって。ごめんなって。そう言わなきゃいけないと思ったのだ。



 「んー、そうね。そうしてあげなさい。あ、でも今すぐには難しいと思うから、落ち着いたらよ」


 「わ、分かった」



 落ち着いたら、まではすごく遠かった。ヨハンの体感では、いつもの三倍速く心臓は動いているぐらいなのに、時計の針の早さはいつもの十分の一以下にまで遅くなっているように感じていた。


 実際にはそう何日も経つ話ではなかったのだが。二日か三日か、それぐらいの出来事だった。


 まだ全快とは言えないようだったが、その子がヨハンに会いたがっているというので、ゼリーを持ってお見舞いに行った。


 ヨハンが家に行くと、その子は二階の自分の部屋でベットに座っていた。まだ顔は赤くて、どこか辛そうな感じがしたが、いつもみたいなキラキラした目でヨハンを見て言った。



 「ねえ、大ほうき星は見えた?」



 思考、筋肉、心臓。全てが一瞬で止められた気がした。



 「ボクは見れなかったんだよね。方角とかタイミングの問題かなあ。せっかく教えてくれたのに、ごめんね」



 しゅん、と耳が垂れた犬のようなその子の声には、疑いなど微塵もこもっていない。ヨハンも大ほうき星を見ていたと信じて疑わない、純粋な言葉だった。それら全てが、細い針のようになってヨハンの全身を刺した。



 「やっぱり、君の家みたいにマンションの十五階とか高いところからのほうが見えたのかな。空に近いんだし」


 「……っ、ぁ」



 謝るんだ。


 早く謝れよ!


 そのために来たんだろーがっ!



 「…………いや、オレも見えなかった」



 嫌われたくない。嘘をついて、人を傷つけたなんて認めたくない。


 そんな保身とプライドが勝った。口にしたとたん、猛烈な自己嫌悪にかられたが、言い直す勇気もまた、ヨハンにはなかった。



 「そっかあ……。百年に一度ってことは、次に見れるのは百年後ってことだよね。ボクたち生きてられるかな? やっぱ摂理に反するから無理?」


 「……さあ。どうだろう」



 二、三そんな会話をしたあと、ヨハンは逃げるようにその子の家を飛び出した。不思議そうに見送ってくれた顔を、それ以上見ていたくなかった。


 それから、その子は全快を待たずに引っ越していった。

 


(ああ、そういえばそうだった……。引っ越しするときは何か星の本をプレゼントしようと思って、こづかいもためてたのに……)



 結局、風邪を引いてから一度も小学校には来れないままで、担任の先生やクラスのみんなは残念がっていた。


 ヨハンはその子がいなくなってほっとした反面、胸に抱えた鉛のような罪悪感がさらに重みを増したように感じていた。


 けれどそれは、もうどうしようもできないものだった。この先ことあるごとにその重さを思い出して、何度もため息を吐くようになった。




 それ以来、ヨハンは星を、空を見ることを止めた。少しでも反対のことをしようとして、部活はずっと陸上部で長距離をやっている。



 「お疲れさまでしたー」



 高校生になって、学校と家の間にある店でアルバイトを始めた。深い人付き合いをしなくなっていたので、特に使い道のない金は溜まっていく一方だった。


 何にも興味を持てず、涸れた灰色のような日々を送っていたある夜のことだった。


 マンションの入口まで帰ってきたとき、突然スコーンッと音を立てて何かがヨハンの頭の上に落ちてきた。



 「痛った⁉」



 地面に転がったそれを拾ってみると、コルクで栓をされた試験管だった。


 ヨハンの頭に当たってワンパウンドしたおかげか、ヒビなどは入っていなかった。軽く振ってみると、中の白く光る石がカラカラと音を立てた。大きさはだいたい、ヨハンの小指の爪くらいで、とても小さい。



 「え、は、何これ。誰のだ……?」



 くるくると試験管を回してみても、持ち主の名前は書いていなかった。ただ、黒いラベルに金字で試料名のようなものは書いてあった。


 〈シリウスの種火〉


 ヨハンはもう一度石を、じいっと注意深く見てみた。ゆらりと石の表面で、極薄の青白い火が揺らめいた気がした。


 でもそんな風に見えたのは一度だけで、あとはどれだけ目を凝らしてもほのかな光を放つ石にしか見えなかった。



 「……気のせいだな」



 そう結論づけて、ヨハンはようやく自分の家に戻った。もうひとつ、別の可能性も頭をよぎったが、ないないと首を振って追い出した。


 試験管は一応落とし物として、写真を撮ってマンション共用の掲示板に張り出しておいた。名乗り出る住人は最後までいなかった。


 次の日も、スコーンッと景気よい効果音をつけて何かが落ちてきた。今度は小さなフラスコに、燃えている最中の炭が砕けたような欠片がいくつか入っていた。



 〈獅子の咆哮で飛ばされた星の破片〉



 試料名はそうなっていた。



 「しし座流星群とでも言いたいのかよ」



 そう毒づいて、ヨハンはフラスコを机の上に放った。ベットに寝転がると、昨日は追い出した別の可能性がまた浮かんだ。


 この世には魔法という不思議な力がある、らしい。人によってはそれを魔術や錬金術や占星術とも呼ぶ、らしい。


 ヨハンの捉え方としては、あくまで「らしい」だ。ときどき噂で、雲に乗って空を飛ぶ人の話や、動物と会話して手足のように使う人の話を聞くことはあった。だが直接見たことはないので、半信半疑は変わらなかった。



 「近所のマギアクラフトショップで運が良くなるお守りを買ったから、今回のテストはイケる気がする!」



 そう叫んでいたクラスメートも見たことあったが、赤点ギリギリだった彼が平均点をなんとか取っただけでは、信じようとは思えなかった。


 神々が見た浅き夢の名残が、零した吐息が、目には見えない祝福の力となって、この世には降り注いでいる。その力をうまく利用する技術を魔法と呼ぶ。


 そう謂われる魔法をヨハンも昔は本気で信じていたし、星を見上げていた頃は占星術師になりたいと言っていた。


 だが、今はもう思っていない。現実的な話ではないからというだけでなく、魔法の力を信じ込んでしまったとき、自分は何か馬鹿なことをやってしまいそうで怖いから、という漠然とした不安が少なからずあった。



 (でも、本当に魔法使いっていうのは実在してて、この試料たちはもしかしたら魔法使いのコレクションか、もしくは何かを作る材料だったりとか……)



 そんなファンタジーなことを考えて、ハッとなった。


 「いやいや、ンなわけねーって」


 誰かに言っていたわけでもないのに急に気恥ずかしくなって、ヨハンはその日枕に顔を埋めてふて寝した。


 次の日も、その次の日も、毎日何かしらがヨハンの頭めがけて落ちてきた。


 一週間もすれば慣れたもので、今では一度マンションの入口で足を止めて、帽子を上に向けて待ち受けているぐらいだ。


 住宅街の奥のほうにあるマンションだったので、人通りはいいほうじゃなかった。ヨハンは今、猛烈にそのことに感謝していた。こんなこと、はたから見ればただの変人だ。


 今日は試験管に入った〈ベテルギウスの蓄音機〉だった。


 小さいトゲがたくさんついた細い石の棒で、どちらかというとレコードよりオルゴールのようだった。なんとなく耳を近づけてみたが、残念ながら何も聞こえなかった。


 我に返って恥ずかしくなり、ヨハンは乱暴に試験管立ての空いている穴につっこんだ。


 あまりにも試料が増えるから、しかたなくバイト代をはたいて保管するための箱やら棚やらを買いそろえた。おかげで、部屋の一角が年頃の男子とも思えぬ有様になっている。



 (こんなの母さんにだって見せらんねえよ……。オレはごく普通の人間デス)



 星に関わるものなんて、前の星座盤みたいに捨ててしまいたいというのがヨハンの本音だった。だが、誰の何のための物か分からないせいで、ずっとできずにいる。


 さらに、弊害はもうひとつあった。



 「そういえばさっき外に出たとき、オリオン座がきれいに見えたよ。理科で覚えさせられたの思い出したわー。なんだったっけ? あの、ほら、冬の大三角とかいうやつの星の名前」


 「おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオン、オリオン座のベテルギウスですね」



 ある日、バイト先で先輩の世間話に食い気味に答えたせいで、ちょっと微妙な空気が流れた。



 「ヘー、詳しいんだ。なんか意外。星好きなの?」


 「……子どもの頃、ハマったときがあって」


 「あ~、いたいた、うちのクラスにもそんな奴。けど、今でも覚えてるとかすげえな」


 「まあ、アレですよ。昔取った杵柄的な」


 「あー、四つ子の魂百までっていうアレね」


 「それいうなら三つ子だろ。え、今のガチボケ?」


 「う、うるさいですよ! ちょっと言い間違えただけじゃないですか!」



 こんな風に、あの頃の知識をひけらかすような癖が出るようになってしまったのだ。このときは同級生のおかげで、すぐに小学校の頃の他の思い出話に話題がそれてくれたが。


 今の時間、バイト先の店を出る頃には、上弦の月もだいぶ西へ傾いている。そう思うことすら恨めしかった。


 何百という夜を越え、もう忘れてしまいたいと、何度願ったか。


 何百という夜を越え、この罪悪感を捨ててしまいたいと、何度祈ったか。


 だがヨハンにも分かっている。あの子に会って謝るまではきっと、叶うことはないと。だから、この重荷から解放される日は、この先もきっと来ない。


 重い足を引きずって帰宅すると、いつものように頭の上へ何かが降ってきた。その場で確認するのも今日はめんどくさくて、ヨハンは無造作にカバンにつっこんだ。


 そのままつい忘れて、思い出したのは晩ご飯も風呂も終えたあとのことだった。


 明日は使わない教科書をカバンから抜き出したときに、一緒に飛び出してきて床にカツンと音を立てて転がった。



 「あ、やっべ。そういえば忘れてた」



 見る角度によって、白や鮮やかな赤、淡く明るい青などに色を変える、不思議な石だった。とても綺麗で、ベットに横になりながら思わず食い入るように見つめていた。


 石は金具をつけられて紐に通されており、巻き付いていたラベルには


 〈行きたい場所へはどこへでも案内してくれるカノープスのペンデュラム〉


 と書かれていた。


 そして、唐突に理解した。



 ああ、これはあの子のものだ。



 あの日のずっと前。図書館から借りてきた星の図鑑を見ながら、あの子と話していたことがある。



 『あ、見て! このカノープスって星、大昔のギリシャの軍隊を案内した人のことなんだって』


 『わあ、かっこいいねえ。じゃあこの星にお願いしたら、きっとどこにでも連れて行ってくれるんだね』



 今思えば、幼稚な発想だ。でも、サンタや変身ヒーローがいると信じていたのと同じように、そのとき二人はたしかにそうだと信じていた。——魔法も同じく。


 ペンデュラムは振り子という意味だが、占いの道具という一面も持つ。気づけばヨハンは、このカノープスのペンデュラムを振って縋っていた。


 ——もう一度あいつに会わせてください。


 ——会って、今度こそちゃんと謝らせてください。



 「頼む、オレにもう一度チャンスをくれ……!」



 そして、ペンデュラムは応えた。


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