第一章  夜から夜へ、星を渡っていつか恋初の君に会いに行こう 2


 ペンデュラムはほのかな光を帯びて浮き上がり、閉まっているはずの窓をすり抜けて、どこかへ向かって飛びはじめた。



 「ちょ、ちょっと待て!」



 呆気にとられて、その様子をずっと目で追っていたヨハンは、ハッとすると慌てて声をかけた。


 急いで部活の遠征用のカバンを引っ張りだし、今までの試料を全部ぶち込んでいく。これらもきっとあの子のものだから、一緒に持っていかなくてはならない。



 「ちょっと出かけてくる!」



 リビングにいるはずの親に、返事も聞かずそう言い捨てて、玄関から飛び出した。エレベーターが上がってくるのも待てず、階段を駆け下りてマンションの外へ飛び出した。


 ペンデュラムは、まだヨハンの部屋の窓から出たところに浮いたままで、安心したのも束の間。そのままくるりと反転して家の上を、間を、時には路地をぐんぐん飛んでいった。


 それを追って、ヨハンもひたすら無言で走って、走った。ペンデュラムは、つかず離れずの距離を保って飛んでいるが、ふいに角を曲がって視界から消えるので、気が気でなかった。


 こんなところまで来て、やっぱり無理でしたなんてことは、ヨハンは絶対にごめんだった。



 「くそっ! こ……っのやろう!」


 下り坂で勢いをつけて、思いっきり踏み切る。宙に浮くペンデュラムへ手を伸ばした。



  ラピスラズリの流れ唄



 魔法なんて信じてない。なのにその言葉は自然と、心の内から湧いてきた。



  降り注ぐ星霜にまだ見ぬ夢を知ろう


  螺旋の邂逅が儚き光を生み


  奇跡の祈り手はその身を焦がした


  玲瓏たる祝福の歌をたれたまえ


  小さな想いは空へと散った


  泣けど叫べど、私は天上の瑠璃に憧れるだけ


  ああ、どうかこのささやかな願いに一雫の彩りを


  途絶えぬ歴史に育つ 淡い萌芽に恵みの光を


  人よりも人を知り、世界よりも世界を知るものよ



 ペンデュラムがより強く、より濃く、光りだした。



 「オレを……あいつのところへ連れて行け!」



  汝は夢幻の主 月光の凛花


  星のしるべがあなたを指すならば、夢はここに帰結する


  この身を満たす、全ての愛と成りて



 ペンデュラムを握りしめたとたん、ヨハンは空へ跳ね上げられるような感覚を味わい、気がつけば星空の中にいた。


 深く、とおい、涙をたたえたような夜空。そこに浮かび、燈えて流れる色とりどりの無数の星たち。


 ヨハンはこの先、どんなプラネタリウムに行っても鼻で笑うだろう。本物のあまりの美しさに息を呑んでいると、ごつんと背中が何かにぶつかった。


 振り返ったヨハンは、ここ数年で一番の悲鳴をあげた。



 「うっ……ぉああああああああああ⁉ なん、え、これ、ふ、船ぇ⁉」



 圧し潰されるかと思うぐらいすぐそこで、視界いっぱいをくすんだ茶色が埋め尽くしていた。


 慌てて飛び退けば、もう少し視界が開けて、遥か上空ではためく帆が見えた。碇をおろしたように悠々と、その場で静かに上下する船をただただ呆然として見上げていた。


 ふと、視界の端で何かがきらりと光ったので、そちらへ足を向けてみた。


 星空の中にいるというのに、泳ぐでもなく飛ぶでもなく、不思議とヨハンの足の裏には何か固いものを踏みしめる感触があった。


 光の正体は、船首についている守護神像だった。白から鮮やかな赤、淡く明るい青へと色を移らせていくのを見て、ヨハンは気がついた。



 「そうか、これカノープス……! ってことはこの船、アルゴ号か!」



 守護神像は、ペンデュラムと同じ色だった。


 アルゴ号とは、かつて世界中の勇者が乗り込んだとされる伝説の巨大な船だ。


 それにあやかって、もとはアルゴ座という大きな星座だったのだが、あまりにも大きすぎて分かりにくかったので、後の世に四つの星座に分割されている。


 カノープスはこのうちのひとつ、りゅうこつ座に籍を置いている星だ。


 竜骨とは船底の中心部分を縦貫している力材のことで、人間でいうところの背骨に当たる。その先端で輝き、瑞星として崇められているのがカノープスだった。


 昔取った杵柄、三つ子の魂百までとは本当によく言ったもので、すらすらとヨハンはそんな情報を引き出していた。ヨハンの記憶の本棚は鍵がかかっていただけで、錆ついてはいなかったようだ。


 星の図鑑や物語をめくっていたのは、もう何年も前のことだというのに、こんなにもはっきり思い出せるなんて。



 「えー……。マジかすげー……」



 ヨハンの口からは、もはやそんな言葉しか出てこなかった。一瞬、自分が何のためにここにいるかを忘れるほどだったが、ぐいぐいと手をひく感覚にハッと我に返った。


 このまま手を開くと、また勝手に離れて飛んでしまうと考えたヨハンは、紐の部分を握ってからペンデュラム本体の石を解放した。


 案の定、どこかへむかって飛び出していったが、残念ながら紐の長さ以上は進めない。紐はピンと伸びきって、それでも石は飛んでいこうと小刻みに揺れていた。



 (散歩中の犬みてえ……。いや、オレ犬飼ったことないけど)



 ペンデュラムに引っ張られるまま、今度は何の目印もない星空を走る。


 アルゴ号を通り過ぎると、すぐにオリーブをくわえて旋回する鳩を見た。そのさらに向こうでは、燦々と輝く宝石を身に着けたオリオンがこん棒を振り回していた。オリオンの雄叫びが耳を打ち、思わずヨハンは体を震わせた。


 そんなタイミングで、カバンがいきなり暴れだしたので、ヨハンはまた悲鳴をあげた。



 「わああああああ⁉ なに⁉ 今度はなんだ⁉」



 ペンデュラムの紐を離さなかったのはよくやったと、半ば自棄気味にヨハンは自画自賛する。


 そしておそるおそるチャックを開けて中を覗き込んでみると、波打つ縞模様が美しい石が、縦横無尽にカバンの中を暴れ回っていた。


 ヨハンはこの石に覚えがあった。わりと早いときに落ちてきたもので、表面がつるつるに磨かれた真球だった。ただ、ガラスケースの中には靄がかかっていて、不思議に思ったものだ。


 カバンの口が開いた瞬間、石は火球も真っ青の勢いで星空の彼方へあっという間に飛んでいってしまった。ヨハンはそれを止めることもできず、ただ口を開けて見送った。


 飛んでいった方角には、オリオンに襲いかかろうとする巨大な二本の角を持った白い牛がいたが、どんな関係があるのか分からない。


 石が入っていたガラスケースは粉々に割れていたが、〈迷子のユピテル一欠片〉と書かれたラベルは読むことができた。



 (これもあいつに会ったら謝んなきゃな……)



 ちょっと肩を落とすも、気をとり直してまた走り出した。


 地上したから見上げているときの夜空は、なめらかな漆黒のベルベットのようだった。その上に、トパーズやルビー、ダイヤモンドのような星たちが転がっていたのだ。


 しかし今いるここは、そんな単純な場所ではなかった。


 もっとたくさんの色の、ヨハンが名も知らぬ星たちが幾万とさんざめいている。船はたゆたい、牡牛も猛り、まるで生きた博物館だ。


 そしてそれら全てを覆う天は、烏羽色から紫紺色へ、さらに瑠璃色へと絶妙に溶け合い、幻想的な海を見ているような心地だった。


 ただただ綺麗という感想しか浮かばず、今さらながらヨハンは夢じゃないかと疑った。



 (いや、まあ、万が一本当に夢だったら困るんだが……。……うん、でもどうせなら、こういう景色はあいつと一緒に見たか……った、な……って何考えてんだオレ⁉)



 ヨハンは硬派な性格だとクラスメートから思われている。そして本人も、どちらかといえば自分は軟派なキャラではないだろうと思っていた。なのに、そんな自分が乙女チックなことを一瞬でも思ったことに鳥肌を立てた。


 それで意識が引き戻されて、いつの間にか水の音と湿った匂いがすることに気がついた。



 「星空の水といえば……天の川? いや、でもあれはミルキーウェイだったか。みずがめ座の水瓶からもたしか水が……いや、あれは不老不死の酒だって話だったな。だいたい、みずがめ座はオリオンの近くじゃないし。えーっと、じゃああとは……」



 他に誰もいないので、つい一人言が漏れた。


 もう少し進むと、滔々と流れる大河の畔にたどり着いた。川はかすかな光を帯びていて、とても幻想的な景色だった。



 「……あー、そうだ、思い出した。エリダヌスだ。昔は地上を流れていたけど、いつしか涸れてしまっていた、世界で最も美しかった川の名前」



 カバンの中をあさり、目的のものを引っ張りだして、目の前の川と見比べた。


 〈凍らせたアケルナルからの飛沫〉。試験管の中で結晶化したその色は、目の前のエリダヌス座と同じ深いエメラルドグリーンだった。



 「アケルナルはたしか、エリダヌス川の終点地だったっけ」



 古い図鑑の記憶を辿り、下流へ目を向けた。だが当然ながら、ヨハンの視力ではとても見通せなかった。


 次に、おそるおそるエリダヌス座に指先を浸してみると、ほどよく冷たい穏やかな水の流れを感じた。



 「おぉ……!」



 屈んで踏ん張りが利かない状態で、ヨハンはその感動を噛みしめていた。だから、手に握ったペンデュラムが川へ向かって勢いよく突っ込むなんて、想像もしていなかった。



 「え」



 抵抗する暇も、それ以上声をあげる時間もなく、ヨハンの体はつられてエリダヌス座の水の中に落ちた。


 鮮やかなエメラルドグリーンの中で、無数に生まれる気泡が水面へ上っては弾けて消えていく。星よりも、砂よりも、細かなキラメキが流れに翻弄されて、乱れ舞った。


 溺れることを怖がる前にその光景に目を奪われ、



 次の瞬間、ヨハンは勢いよく高原に落下していた。


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