眠る竜
空木 種
眠る竜
あれは確か、俺が小学校二年生のときだったか。学校の宿題が、全部茶色く滲んだことがあった。麦茶を飲みながら宿題をしていたところ、手が滑って、持っていた黄色いコップをひっくり返してしまったのだ。
「何やってんのよ」
タオルを持ってあーあーと近づいてきた母を、俺は上目遣いに見ていた。
「もう、全部こぼしちゃって。ちゃんと両手で持ちなさいって、いつも言ってるでしょ」「あ、ノートもびちゃびちゃ」
母は、机にできた浅い湖から、かんじれんしゅうノートをつまみ上げた。頼りなく吊り上げられたノートの角からは、しみ込んだ麦茶が滴っていた。最初は、湖に帰る竜のように、麦茶は一つなぎに滴っていた。やがてそれは、粗い滝となり、すぐにまばらな雫となった。
うちの冷蔵庫には、母の作った麦茶が常備されていた。全く関係ないスポーツ飲料の二リットルのペットボトルの中に、いつも麦茶は入っていた。爽やかな青のラベルと、中身の茶色が不釣り合いだったのを覚えている。
「ご飯にコーラ?」
夕食のとき、俺の向かい側に座った母は顔を顰めた。
「うん。悪い?」
俺はぶっきらぼうにこたえ、これ見よがしにコーラを大袈裟に傾けて、ごくごくと喉を鳴らした。俺は高校生になってから、部活帰りに必ず一本、自動販売機で炭酸飲料を買ってくるようになった。
「信じらんないわ」
母は呆れたように言うと、青い漬物皿から黄色いたくわんをつまみ上げ、口に運んだ。こり、こり、というたくわんを食む音が、静かな居間によく響いた。
「お母さん、ここで倒れたんだよね」
俺が畳みに仰向けになって瞑目していると、姉の声が聞こえてきた。声の方向からして、姉は台所に立っている。俺は何も答えずに、じぃんじぃんという冷蔵庫の遠い音を聞いていた。
「なんか、喉渇いたね」
姉はそう言って、がしゃん、と冷蔵庫を開けた。
「はい、あんたも飲むでしょ」
姉は言うと、取ってきた物を円卓の上に置き、俺の隣に腰をおろした。
「うん、もらう」
俺はむくりと上体を起こした。
円卓の上には、黄色と桃色のコップが二つと、二リットルのペットボトルが置かれていた。麦茶は、もうペットボトルの下五センチくらいしか残っていなかった。
「なんか、懐かしいな」
「そうね」
姉は、ペットボトルを傾け、二つのコップに麦茶を注いだ。ドボ、ドボ、と竜は脈を打ち、コップの中でとぐろを巻いた。
姉が二つのコップに均等に注ぐと、ちょうど、ペットボトルは空になった。
「はい」
「ありがとう」
姉は、黄色いコップを俺に差し出した。俺はそれを受け取り、中をのぞき込む。
「なんか、少ないな」
「ちょっとしか、なかったから」
「そうだな」
俺は、空になったペットボトルに目をやった。空になったペットボトルほど、淋しいものはない。重さもなく、ただ中にある水滴をささやかに輝かせて、ペットボトルは立ちすくんでいた。
俺は、黄色いコップを大きく傾け、ごくごくと喉を鳴らした。
眠る竜 空木 種 @sorakitAne2020124
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