第7話 長崎好日

 グラバー邸での騒動があった二日後、絵都たちと尚姫一行は、港を望む丘の上に新しく普請された青海藩屋敷へ越していった。あのあと喜十郎たち藩主の供回りが、長崎奉行所を巻き込んで進めた取調べでも、奥女中として忍び込んだ女の素性は知れなかった。ただ、手引きした者は捕らえられて国許に送り返された。

 奥女中総取締、霞川だったのである。


「霞川さまが……」


 喜十郎からそう聞かされて、絵都はしばらく言葉もなかった。

 霞川はあの女中姿の若い女をグラバー邸に手引きしたことを認めた。取調べが進むうちに、彼女が開国論に接近する藩の現状につよい危機感をもっていることがわかってきたという。霞川は口にしないが、藩主と尚姫との婚儀がきっかけに、藩内でより開国派の影響力が強まるのを警戒していたということだった。


「だから、奥方さまを亡きものにしようと?」


 ただし、それがだれの差し金によるものかは、口を閉ざして語ろうとはしない。国許ではさらに厳しい取調べが行われるはずだ。霞川の身柄はただちに青海へ送り返されることになった。


「霞川さまは、どうなるのでしょう」

「……主殺しを図ったのですから」


 主殺しは大罪だ。霞川は死を免れない。

 絵都は太いため息をついた。


 このたびの不始末は別として、霞川は公正で公平しかも有能な奥女中取締だった。その心中は知れないが、赤城藩から輿入れしてきた尚姫に対しても藩主に仕えるのと同様に、十分以上に仕えているように見えた。殺害しようとしたとはいえ、尚姫自身に対する悪意はなかったのだろう。時と場所が違えば、ふたりは良い主従となっていたはずだ。これは不幸な出会いだったのだ。絵都は、あの日以来、ずっと顔色がすぐれない尚姫を思い出していた。


 それから十日余り。洋式武装の購入を巡る青海藩とグラバーとの商談がまとまったらしく。尚姫のもとへグラバーからの招待状が届いた。


 ――拝啓。尚姫と奥女中の皆様方。

 先日は騒動のあれこれで十分なご挨拶もかなわず失礼しました。

 この度、予定しておきながら開催することができなかった茶会を改めて催したいと考えております。

 奥方さまにあっては、いやな思いをされた当家の屋敷に足を向けるのは気づまりでございましょうし、許されるなら新しい青海藩のお屋敷で洋式の茶会を披露したいと考えております。

 つきましては――。


 絵都たち奥に勤める女たちは相談した結果、あれ以来ずっと部屋にこもりがちな尚姫に気分を変えてもらうためにも、茶会の許可を求めるよう勧めることにした。


「そうですね」


 前向きな尚姫の返事に、ふさぎ込んでいる妻を心配していた藩主からも否やはなかった。


「楽しみですね」

「そうですか」


 絵都からそう聞かされても、喜十郎はぴんとこないようだった。


「なにいってるんですか。あなたも招待されているのですよ」

「わたしが?」

「グラバーさまのお屋敷に入り込んだ曲者を捕らえたのは、あなたじゃないですか」

「そうですね。たしかにそうだ! しかし、茶会ですかあ……」


 そういうと、喜十郎は腕組みをして考え込んでしまった。大方、茶会の作法ついてわきまえないことを悩んででもいるのだろう。そんなこと絵都も知らない。ましてや、洋式の茶会など、気にしてどうなるものでもないと思っている。


 茶会当日の青海藩屋敷は、華やかな雰囲気に包まれた。

 茶会は長崎の港を眺めることのできる庭で催したいとのグラバーの提案により、屋敷の庭にグラバーの屋敷から持ち込まれた洋風のテーブルや調度品が並べられた。そこを洋装の使用人がくるくると立ち働く様子は、グラバー邸の庭をここに移したかのようだった。


「まるで西洋の庭になったようだな」


 座敷から物珍しげに様子を見守っている藩主もご機嫌な様子だった。絵都たち青海の女中たちもグラバー邸の使用人に混じって忙しく働いた。


 ひとり庭の隅で所在なげに立ち尽くす喜十郎が少し気の毒だったが、女中に混じって侍が食事の準備を整えるわけにもいかず――、こういうとき男というものは役に立たない。


 やがて茶会がはじまった。

 驚いたことに英国式の茶会には、食事が供されるらしい。亭主役(英語では「ホスト」というらしい)のグラバーが説明してくれることには、午後のお茶会には、紅茶に加えて軽食と菓子が供されるものらしい。


「貴族のあいだで流行し、その後一般的になった英国の習慣です。ぜひみなさんもAfternoon teaを味わってみてください」


 洋式の食器がテーブルに並べられ、二段重の菓子皿(これを「アフタヌーンティースタンド」というらしい)が運ばれてきた。一段目には、麦餅パンに野菜や果物、鶏の卵などを挟み込んだ「サンドウィッチ」という食べ物が、二段目には、黒褐色の光沢を持った小さな菓子が並べられていた。


「これは……?」

「ザッハトルテといって、ウイーンのホテル・ザッハーの名物です。チョコレイトをふんだんに使ったケーキで、非常においしい。ケーキの王様です」


 グラバーはそう言いながら、絵都に片目をつむってみせた。あの日、毒を手にした女が、チョコレイトの入っていた鍋の前にいたことは内緒だぞという意味だろう。あのとき、厨房ではこれを作っていたのか――。


「これが英国のお茶ですか」

「赤い色をしているのですね」


 取手のついた白い陶器の器で飲むイギリスのお茶は、長崎の夕陽を閉じこめたように赤かった。


「紅茶です。お好みでミルクを加えてお飲みください。口当たりが優しくなります」


 また、西洋ではナイフやフォークと呼ばれる銀食器を用いて食事をするらしいが、はじめて目にする食器の使い方が分からない喜十郎は、大汗をかいてサンドウィッチと格闘している。


 離れたテーブルでは、尚姫がお茶を飲みながら楽しそうに藩主となにか話している。そばには笑顔の桜野も控えている。


 明るい日差しと爽やかな風が吹き込んでくる午後だった。眼下に広がる長崎の港には、停泊する外国商船の帆柱マストが林立し、沖合に何艘もの行き交う船影が霞んで見える。


 ――長崎へ来たんだなあ。


 絵都は、改めてそう思った。

 大変なことがあった。これからも大変なことがあるかもしれない。でも、いまこの庭には穏やかな時間と人びとの笑顔が満ちている。すばらしい日だ。


「ザッハトルテを召し上がってはいかがかな」


 グラバーに勧められるまま、恐る恐るその黒いお菓子を口に運ぶ……。


「おいしい!」


 絵都の周りで控えめな笑い声が起こった。

 武家の女として甚だ不謹慎な声をあげてしまった。しかし、思わず声を上げてしまうほどに……天上の食物かと思うほどに美味だったのだ。


「あら。ほんとうに」

「結構なお菓子ですね」


 口にした女性は皆とろんとした表情になって、口ぐちにザッハトルテの美味を褒め称えている。ひとり喜十郎だけは、眉根に皺を寄せて黙っていたけれど。ふたたびテーブルに笑い声が沸き起こった。


 ――ほんとにすばらしい日。


 絵都の頭上をかもめが一羽、海をめがけてまっすぐに飛んでいった。


(つづく)

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