第8話 奇妙な武士

 数日後、絵都はふたたびグラバーの屋敷にいた。青海藩屋敷で開かれた茶会のお礼を述べるために尚姫がグラバーを訪ねたのだ。

 例によって、喜十郎も一緒である。

 長崎における藩主の身辺警護が、喜十郎の任務だったはずだが、このところずっと尚姫の警護に当てられている。グラバー邸での騒動を収めたことで、藩主から妻の警護に適任と判断されたようだった。


「なにもなくて退屈です」

「あら、奥方さまとご一緒した方が、美味しいお茶菓子とかをいただけますよ」

「十やそこらの子どもではありません」


 喜十郎はそう言うが、今日も一番に出されたお茶と団子を平らげていたのを絵都は見逃さないのだった。


 いい天気だった。季節は春から夏へと変わりつつあった。空はますます青く、雲はいよいよ白い。庭の緑は濃く、色とりどりの花が咲き乱れている。


 尚姫は、屋敷の応接室でグラバーに先日の礼を述べている。話が弾んでいるのか、まだ出てくる気配はない。絵都たちが屋敷の庭を歩いていると、見事に咲き揃った紫陽花あじさいの花の前にひとりの武士の姿を見つけた。しゃがみこんで大きな青い花を覗き込んでいたが、絵都たちを認めて立ち上がった。大きな男だった。


「やあ、これはいかんところを見られてしもうた」


 白い歯を見せて笑った顔が、釣り込まれるように人懐こい。


「これでござる」


 恥ずかしそうに開いてみせた男の手のひらの中に、一匹の蝸牛かたつむりが包み込まれていた。大の男が昼日中ひるひなか、紫陽花についた蝸牛をとっているとは、相当変わっている。

 男は「わしは土佐の坂本龍馬といいます」と名乗った。


「絵都さんと板野さんとは、許嫁いいなずけ同士かな」


 絵都たちが名乗ると、坂本はいきなりとんでもないことを言いだした。


「ちがいます!」

「ちがいます……」


 ふたりが異口同音に否定したことはいうまでもない。


「やや、それは失礼しました。おふたりが仲良さげに歩いておられたので、てっきり――」


 口では謝罪しているのとは裏腹に、坂本は悪気なさそうににこにこと笑っている。絵都たちをからかっているのだ。およそ武士らしくない振る舞いだが、なぜか憎めない。


 ――人たらしというか、な性格のお人だ。


 絵都の感想である。

 そして、よく話す。聞いてもいないことをぺらぺらと絵都たちが大丈夫なのだろうかと心配するくらい。


「銃を1000丁、大砲を5門、船を2艘ほど買い付けにきたのです」


 長崎へは武器の買い付けにきたのだという。

 土佐の訛りが丸出しの話ぶりや、子どもじみた振る舞いから、坂本が土佐藩の上級武士とは思われないが、話は藩の機密ともいうべき内容である。

 その口からは、銃を買うだの、船を買うだの、攘夷はだめだの、勤王にはやり方が大事だの……。果ては頼るべき外国はフランスであるべきかイギリスであるべきかなど。まるで土佐一国の使命を、坂本ひとりが背負ってでもいるかのような話ぶりに、絵都も喜十郎もすっかり呑まれてしまった。


「世の中、金とですき」


 ちろりと口から舌先を覗かせた坂本に、喜十郎は顔をしかめ、絵都も呆れてしまった。世の中には、なんとも軽薄な武士がいるものだと。あからさまなふたりの表情に、しかし、坂本はまったく頓着しない。かえって、じろじろと喜十郎の体つきを眺めまわしていた。


「板野さん。あんただいぶ遣えるね」


 刀を抜く真似をしてみせる。

 喜十郎の技量をひと目で見抜いた。


「ぶっそうな世の中ですき。長生きするには、あまり目立たないことです」


 大きな声で笑いながら、予言めいたことを言い残して坂本は屋敷の方へ去っていった。

 あとに、呆気にとられた絵都と喜十郎を残して。


「なんなんでしょう。あの方は?」

「さあ……」


 グラバーへの挨拶は滞りなく終わり、日が傾きはじめた午後、絵都たちは尚姫に付き従って藩屋敷への帰途に就いた。

 外国交易の玄関口としてにぎわっている長崎だが、グラバーの屋敷が建つ外国人居留地は少し港から離れており、周囲に人家は少ない。一面に畑が広がってして、その向こうにいくつかの外国船の行き交う長崎の海がきらきらと光っている。あの港は遠く外国からくる船に開かれているのだ。あの船たちはイギリスやフランスといった遠いとおい国からやってきているのだ。


 ――行ってみたいなあ。


 絵都は自分の考えにおどろいていた。青海にいる間は思いつきもしなかったことなのだ。あそこにいるときは、ここでじぶんの人生は完結するものだと疑いなく思っていた。


 ――そうではないかもしれない。


 長崎という街は、不思議なところである。

 世界に開かれた街は、人の心も開いてくれるもののようだ。

 絵都は、尚姫の乗る駕籠かごや先だって歩いてゆく喜十郎の背中を眺めながら考える。尚姫や喜十郎も長崎へきて変わったのだろうか。心が開いたのだろうかと。

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