(完)




 火照って冷めない顔を見られないように、さりげなく手で覆い隠す。

 震えた声で紡がれた言葉はなおも続いた。


「先輩に告白する資格がないのは、分かってます。でも、……ずっと好きでした。恋をしてから、電車であなたを見かけたときは嬉しかった。今日も頑張ろうって、前向きになれた……」


 冤罪の証拠を見せれば、当然撮影者である彼女の立場も危うくなる。俺に嫌われる覚悟はあっても、淡い下心なんてものはなかったはずだ。

 それでも、勇気を出して助けてくれた。


(たかが一目惚れだろ。人って、そんな些細なきっかけで動けるのか)


 聞けば、盗撮の通算は九回。悪用は誓ってしていないという。

 どれも数十秒で完結する俺の平凡な日常は、名前も知らなかった一人の女の子の支えになっていた。


「……ばかだなあ。アンタ」


 俺の短い呟きをどう捉えたのか、綾野の肩がぴくりと跳ねた。それをあえて無視して目を逸らす。

 謝罪のおまけだとしても、あれが告白というのに変わりはない。玉砕覚悟で打ち明けてくれた彼女に、俺は何を返せるだろうか。


 青春に憧れを抱いていたはずなのに、この子が恋人になる未来が想像できない。だから、たぶん好きにはなれない。

 なのに、拒む気にならないのは、なぜだ?


 クラスメイトの昨日の言葉を反芻はんすうしてみる。


(オレ、ときどきお前が分からなくなるよ)


 そうだな。俺も自分の気持ちが分からない。

 心のなかで同調してから、気がついた。〝何を返せる〟だなんて、結局はひとつしかなかったのだ。

 意を決して顔を上げると、綾野は落ちついた様子でこちらを見つめている。

 伝えることはもう決まっていた。


「――動画の件はもういい。礼を言うつもりはないけど、今朝助けられたのは事実だし、謝罪も受け取ったんだ。この話は終わった。それでいいな?」


 消え入りそうな声で「はい」と返事が返ってくる。それきり綾野は口をつぐんだ。

 再び訪れた沈黙に、自然と鼓動が速まる。

 俺は汗ばむ両手の力を抜いて、酸素が行き渡るように深い呼吸を繰り返した。


「……俺は、アンタを恋愛対象としては見れない。きっと、それは一生変わらないと思うんだ」

「……はっきり言っちゃうんですね」


 声こそ平静を保っていたが、切なげに細められた目からは、ついに涙がこぼれ落ちた。綾野は濡れる頬をいささか乱暴に拭い、その唇で無音の泣き声を震わせる。

 それでも気丈に振る舞おうと息を殺す姿は、少し痛ましかった。

 けれど、期待をもたせるような答えは出したくなかった。そう思うくらいには、俺のなかで大事な存在になっていたのだから。


「……それが先輩の優しさだって……分かってあげられるの、もしかしたら、私だけかもしれないですよ? それでもだめ、ですか」


 いじらしいその言葉に、どれだけの勇気が含まれているのか。これだけ俺のことを理解してくれるのなら、もう答えは分かりきっているだろうに。


「――ありがとう。でも、諦めてくれ」


 そして同時に、自分の心に呼びかける。


(じゃあな。俺の甘やかな青春)


 一人の異性が、自分に好意を寄せてくれた。

 もう、こんな素晴らしい奇跡は起きないかもしれない。だから最大限の誠意で感謝を伝えた。

 俺が返したものが、近いうちに彼女にとって苦しくない思い出となることを願う。


 たぶん俺も綾野も、かつてないほどに穏やかな心持ちでこの地に足をつけていた。

 目の前の後輩の呼吸が整った頃合いを見計らい、俺は一歩だけ距離を詰める。


「好意には種類があるだろ。アンタとは出会ったばかりだけど、俺とは違う、まっすぐな生き方が……ばかだなあ、きれいだなって思えた。ほんと、……初めてなんだ、こんな女の子は」

「……そうですか」

「一緒に居てつらいというなら、今度は俺が諦める。――友達になってくれないか?」


 最後の勇気を振り絞って、おそるおそる手を伸ばす。地面に止まったふたつの影を、穴が空くほど見つめていた。


 数分、いや、一分にも満たなかったかもしれない。時間と共に今日の命まで消耗した気分だ。

 綾野は俺の手をそっと掴み、そのまま下ろしてしまった。すぐ消えたのは、触れた手の温もりとやわらかさ。それをどこか名残惜しく思う自分に気づき、とたんに居たたまれない気持ちになる。

 先輩、と存外優しい声が耳に届き、意識がそちらに引き寄せられた。


「あなたの一人目の友達は、私じゃないでしょう? 手を伸ばす相手、間違えてますよ」

「――そうかもな」


 思わず笑ってしまった。

 いくら接点が少ないとはいえ、互いに同じ学校に通う身だ。当然、廊下で俺を見かけることもあっただろう。

 そして俺の本心を、見つけたのか。


「……参ったな。まさか俺より先に気づいてたなんて」

「ふふっ、先輩は鈍感ですもんね。……私は二番目で充分です」


 明日の放課後、ここで待ってます。と、俺に新たな約束をくれた。後輩に甘やかされている自覚はある。彼女は明日も待ってくれるというのだ。

 なんだか胸が熱くなってきた俺は、もう一度だけ「ありがとう」と呟いた。綾野がぱちりと瞬く。そして黙って首を横に振り、今だに潤んだ目を恥じらうことなく向けて笑顔を見せる。

 そうやって臆病な俺の背中を押し、彼女は丁寧なお辞儀と共に走り去っていった。






「――ということが、あったんだよ」

「へえ。いい子だな」


 頬杖をついてわずかに口もとを緩めるクラスメイト。誰にも使われていなかった机が軋みの音を立てた。

 丸一日口を利いていなかったから、互いに多少のぎこちなさは残るものの、返ってくる反応が普段の温かさに満ちていて安堵する。

 開け放った窓から入ってくる朝の風は心地よく、さし込む陽射ひざしは柔らかだ。



 綾野に告白された日の夜。

 俺は鈴木に電話をかけて、「明日の朝、校門前に来てほしい」とだけ伝えた。ちなみに、一度も使ったことのない通話ボタンを押すには五分かかった。

 そして翌朝、いつもより早い時間帯。校門前で挨拶を交わした俺たちは、どちらからともなく人が来ない三階の空き教室へと歩き出していた。


 向かい合わせに座ってまずは俺が昨日の出来事をかいつまんで話し、鈴木が時おり相づちを打つ。一通り話終えたら、さっそく本題に移った。


「鈴木。俺なりに一昨日のことを考えた結果、結論が出た。お前は俺と友達になりたかったんじゃないか?」

「……考えた結果がそれか。ま、石川にしては頑張った方だけど……」


 鈴木はふてくされた顔に小さな笑みを浮かべ、俺の瞳を見据える。


「オレはさ、とっくにお前とダチのつもりだったわけ。そこにあの発言ときたもんだから、少し堪えただけだ。だから……お前の話、聞いてやるよ」


 オレに言いたいこと、あるんだろう?

 平坦な声で鈴木は聞いてきた。


 チャンスだ。ただ一言、友達になろうと言って俺の方から歩み寄ればいい。

 だけど口は動いてくれなかった。誰かに手を伸ばすのは怖いと、幼いままのこころが畏縮している。


 するとふいに、あの日の記憶がよみがえってきた。

 女の人と縁を切った父が帰ってきた夜。俺の笑い声を苦い顔で受け止めた父は、言った。……蓮には情けない姿ばかり見せたが、父さんは変わったぞ。お前が母さんを思う気持ち、ちゃんと届いたからな。


(……『きっと勇気は、人に分けることができるんだ』)


 ――当時の俺は、その言葉の意味を半分も理解していなかった。ただ覚えているのが、どうでもいいと思っていた母の存在が、思いの外自分にとって大きかったという認識の改めだ。

 今なら父の話が少しだけ分かる気がする。俺が一人のときに何かと声をかけてきた鈴木も、電車で動画を公開して告白してきた綾野も、絶対に通ってきたはずの道だ。


 二人に勇気を分けられた俺が、踏み出せない理由はどこにある?


「――友達になりたい。だから、これからもよろしくな。鈴木」


 このとき、確かに大事な何かを掴んだ音がした。


「……ったく、今さらだっつの。でもまあ、仕方ないな。オレはそういうところもぜんぶひっくるめて、お前とダチになったんだからさ」


 白い歯を見せて俺の肩を叩いた鈴木は、「ほら、さっさと教室行こう」と立ち上がる。

 迷いなく進んでいく背中を、俺も笑って追いかけた。




 一歩踏み出せば、必ず誰かが共鳴する。もし駄目だったとしても、次こそは。そうやって伸ばした手を、掴んでくれる奴がいつかは現れる。

 青春なんて、案外そういうものなんだろう。

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