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「この人痴漢です!」
なるほど、こうして冤罪が生まれるのか。
無駄に化粧が濃く、膝上までスカートを短くしている茶髪の女――おそらく近くの大学生だろう――に腕を掴まれ、俺はいやに冷静な頭で状況を分析していた。
とたんにざわつく車内。
朝の通勤ラッシュの混み具合は今日も変わらない。最新型のイヤホンをつけて参考書に目を通す若者から、早くも疲れた様子が目立つ年配のサラリーマンまで、幅広い年齢層の人たちがこの電車に乗り合わせている。
そんな乗客たちに、一斉に疑惑の目を向けられた俺の心情は想像するに難くないだろう。
(あー……。これ、詰んだわ)
もちろんこの女には誓って指一本触れていない。俺はもっと清楚で控えめな女の子が好みなのだ。だからといって道を踏み外すような行いはしないけども。
とはいえこのまま沈黙を貫けば、自分が圧倒的に不利な立場に立たされるのは目に見えている。せめてもの抵抗として素直に無実を主張しようと、口を開いたそのときだった。
「待ってください。これは明らかな冤罪です」
可憐でいて凛とした声が、その言葉ひとつで乗客たちを黙らせる。
つり革に掴まって立っていた俺の向かいの席。そこに彼女はいた。
癖のないショートカットの黒髪と、化粧せずとも分かる整った顔立ち。黒いベストに長袖の白ブラウス。胸元の紺色のスカーフには皺がなく、スカートの丈も標準だ。
うちの学校の制服をそつなく着こなす彼女は清潔感があって、隣の茶髪女よりはるかに好感が持てた。
話したことはおろか、校舎内で見かけたことすらないが、幸いにもスクールバッグのポケットから生徒手帳が覗いている。学年別に色分けされているため、堂々と俺に歩み寄ってきた彼女が後輩だというのはすぐ分かった。
「冤罪……? ウチ、この人に触られたんだけど」
「証拠ならあります。私はずっと、彼を見てましたから」
静かな車内でもう一度声を張り上げた後輩の女の子は、後ろ手に持っていたスマホを他の乗客にも確認できるように高く掲げる。それから俺と茶髪女、そばに座る第三者の婦人に、〝証拠〟を提示した。
途中から再生された動画には、退屈そうにあくびを噛み殺すおれの姿がばっちり捉えられていた。
歪んだ笑みを浮かべた茶髪女が俺の脇に立つ様子も、端の方に映り込んでいる。この人痴漢です! と叫ばれて目を見開く俺を最後に、画面が黒くなる。
それは決定的な瞬間だった。
普通ならまず撮影の動機を気にするところだろうが、この際どうでもいい。他人の冤罪を晴らそうと動いた彼女が、悪いやつには思えなかった。
当事者である俺は、祈るような思いで婦人の足もとを見つめる。顔を見る勇気はない。
痛いくらいの沈黙は、殊の外すぐ破られた。
「この青年は無実ですよ。動画を見た私が断言しましょう」
名も知らない婦人のまっすぐな言葉を聞いて、ほっと胸を撫で下ろす。
俺が少しだけ震えた声で「本当のことを言ってくれて、ありがとうございます……」と呟きながら頭を下げると、婦人は温かな微笑みを返してくれた。
「……冤罪ですって。危うく彼を犯罪者に仕立てあげるところでしたね」
「あの人、X大の人じゃない? サークルで何度か見たよ」
「最低だな……。社会のクズが」
うつむく茶髪女に冷ややかな視線が浴びせられ、車内は悪意の囁きで満たされる。
大学名を言い当てられて蒼白になった顔に同情しかけたのもつかの間。派手な外見に反してこの女は頭が悪くなかったらしく、俺はやられたな、と舌を巻くことになる。
「違う。ウチはこの子に嵌められたの! 痴漢されたって騒いで、お馬鹿な高校生で遊んでやろうって誘われたんです。たまたま証拠の動画が出てくるなんて、おかしいでしょう」
形勢逆転。
天使が通った車内は、こんな女の味方だったのか。
(何か策があるんだろうな……?)
俺の視線に気づいた後輩は、どういうわけか頬を紅潮させて目を逸らす。妙な反応が気になりつつも、彼女が茶髪女への反論の言葉を持ち合わせていないことは把握した。
窓から見える景色は、着実に目的の駅に近づいている。そして幸いにも、言い逃げは俺の得意分野だ。……密かに覚悟を決めて、すう、と息を吸う。
「ていうかー、証拠の動画と称して、この人を撮って……あんた、実は常連ストーカーなんじゃないの?」
「――それは違うな。だってそいつ、俺の彼女だし」
言ってから一人で頭を抱えたくなった。
かばうために咄嗟についた嘘。これで俺たちは、電車で特殊なプレイを楽しむラブラブなカップルになってしまったのだ。穴があったら入りたい。いや、むしろ埋めてほしい。
他に思いつかなかったこの脳みそが恨めしかった。
「……そ、……そう」
口もとを引きつらせた茶髪女は、半歩後ろに下がろうとして他の乗客にぶつかっていた。その動揺ぶりに、いくらか溜飲が下がる。
学校の最寄り駅に着くなり、俺は無言で後輩の手を掴んで走り出した。
一年C組の
テスト期間で部活動がないクラスメイトたちは、どこか浮き足立っているように見えた。
高校生というのは案外単純な生き物だ。下校時刻が数時間早まるだけで、不思議と気分が高揚することもある。
廊下の真ん中を陣どる不真面目トリオの尻を蹴飛ばし、早足で向かう。
そこには既に、硬い表情の綾野が立っていた。
「待たせたか。悪いな」
「いえ……」
スクールバッグをきつく握りしめる手が、かすかに震えている。そんなに力を込めたら痛いだろうに。
しかし、それを親切に指摘してやれるほどの余裕はなかった。どう話を切り出せばいいのか……、慎重な言葉選びは不慣れだ。
先に口を開いたのは彼女だった。
「石川先輩……、ごめんなさい。……一目惚れ、だったんです」
今にも泣き出しそうな瞳と、可哀想なくらい真っ赤に染まった顔。今朝とは違い、絡んだ視線は外されない。
人生初の告白をされたのだと数テンポ遅れて理解した途端、俺の頬も一気に熱を帯び出したのだった。
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