悪魔のリストバンド

すずり

悪魔のリストバンド

「岩田さん、ちょっと」


昼過ぎに起きて、コンビニへ行こうと玄関を開けたら、なぜか大家が立っていた。


「あのね、言いにくいんだけど。最近、部屋でなにか、大きな音立てたりしてる?」


ついに来たか、と俺は思った。


「あんまりうるさくないように、気をつけてたつもりなんですけど」


「そう……あなた真面目そうだから、こんなこと言うのもアレなんだけど。明け方に、なにかをずっと叩いてるような音がするって、ちょっと聞いたもんだから」


大家は、探るような目で俺を見た。


「すいません。練習で、雑誌叩いてました。今度から音量気をつけます」


俺は、頭を下げた。


「あのね、そういうことじゃなくて。古いアパートだから、ちょっとの音でも響くのよ。よくわからないけど、もし練習したいなら、そういう場所を借りるとか」


「はい、そうします」


大家はまだなにか言いたそうだったが、俺は逃げるようにその場を立ち去った。

個人練のためにスタジオを借りるなんて、金がもったいない。




カップラーメンをすすっていると、山本からLINEがきた。


「ごめん、やっぱオレ、バンド辞めるわ」


俺は腹が立って、すぐに電話を掛けた。


「お前、どういうつもりだよ。昨日のスタジオ練も結局来なかったし」


「あのさ、岩田。オレら、もうすぐ三十じゃん」


「だからなんだよ」


「いや、なんていうか。いいかげん、そろそろ現実見た方がいいのかな、って思ったりして」


「お前、夢あきらめるのかよ」


「夢って……」


山本は、困惑したように笑った。


「だって、正直オレら、才能ないじゃん。いつまでもバイトじゃキツいしさ。どうせお前も惰性だろ」


俺は黙った。


「だからさ、とりあえずハローワークとか行ってみようかと思って」


「ふざけんなよ」


俺は、一方的に電話を切った。




夕方、俺は猛烈な勢いで、自転車をとばした。

線路沿いの道を、汗だくになって漕ぎ続ける。

視界に入るものは、なにもかもが疎ましかった。


いつも誰かに邪魔される。

なにひとつ、うまくいかない。

でもそれは……


うしろの方で、踏切の音がした。

俺は、心の中で叫ぶ。


でもそれは、俺のせいじゃない。


急行列車が、一瞬で俺を追い抜いていった。




バイト先に着いて、制服に着替える。

後輩が、汗拭きシートを一枚くれた。

メンソールが目にしみた。


今日はカップルが多くて、ハッピーバースデーを三回も歌わされた。

ホールのスタッフはみんなやりたがらないから、仕方なく俺がキッチンから出ていく。

四回目を歌い終わった時、ちょうど日付が変わった。

俺は、三十歳になった。




閉店後の片づけを済ませ、まかないを食って、店を出た。

自転車で、明け始めた空を見ながら、十年住んだアパートに帰る。


ふと、山本の言葉がよみがえった。


「だって、正直オレら、才能ないじゃん」


うるせえよ。

俺は、その声を振り切るように、がむしゃらにペダルを踏みこんだ。


その時、突然左側から、なにかが俺を追い抜こうとした。

黒い影。自転車?

驚いて、ブレーキをかける。

そのはずみでバランスを崩し、俺は転倒した。


アスファルトで、思いっきりひじを擦りむいた。ひざも痛い。

前を見ると、もう誰もいなかった。

立ち上がろうとして路肩に目をやると、黒いシリコンバンドのようなものが落ちていた。

よくライブハウスで売っている、グッズのリストバンドのように見えた。


知ってるバンドのやつかな。

なんとなく気になって、拾ってみた。

「LEFT HAND ONLY」と書いてある。


変わったバンド名だな、と思ったが、ロゴのデザインがカッコよかった。

いつか俺も、こんなグッズ出せるようになりてぇな。

そんな風に思いながら、俺はそれを左手首にはめた。






翌日も、昼過ぎに起きた。

ひじの痛みで、転んだことを思い出す。


台所でインスタントコーヒーを淹れようとして、俺はリストバンドの存在に気づいた。

明るいところで見ると、なんとなく気味の悪いロゴだ。

サイズはかなり大きめで、腕を上げると、ひじのあたりまで落っこちてきた。



コーヒーをすすり、タバコに火をつける。

ふと、頭の中に言葉が浮かんできた。

なにかの歌詞のような、よくできたフレーズ。

俺は、急いでスマホのメモアプリを開くと、そこに文字を打ち込んだ。


不思議だ。

流れるように、詩ができていく。

こんな体験は初めてだ。


その時、山本から着信があった。


「ごめん、岩田。昨日のこと、マジで勘弁な。よく考えたんだけどさ、やっぱオレ、お前とバンド続けたいと思って」


「お前……」


調子のいいヤツ、と思ったが、不思議と腹は立たなかった。


「でさ、知り合いにボカロで曲作ってるヤツいるんだけど、今そいつから急に連絡きてさ、なんか曲書いてくれるって言ってて」


ああ、そうか、と俺は思う。

運命の歯車が、ようやく噛み合ってきたのかもしれない。


「それなら、ちょうどいい歌詞があるんだ」




山本の知り合いは、プロ顔負けのボカロPだった。

俺はSNSでアカウントを作り、試しに音源を上げてみた。

すぐに何個か「いいね」がついたが、翌日にはもう見向きもされなかった。

通知も来ないのに、五分おきにスマホを確認する。


なんで「いいね」が増えないんだ。


イラつきながら、俺は無意識に、リストバンドをいじっていた。

すると突然「いいね」がついて、誰かが俺をフォローした。

おっ、と思ううちに、また別の誰かから「いいね」がついた。

そうして「いいね」はどんどん増えていき、みるみるうちにフォロワーは百人を超えた。


なんだ、簡単じゃないか。

心臓が高鳴った。

あったんだ、俺にも。才能が。




それからは、なにもかもが俺の思い通りになった。

下手くそでやる気のないギターをクビにしたら、楽器がうまくて容姿端麗なギタリストが見つかった。

フォロワーは面白いように増えたし、ライブのチケットは秒で完売。

ファンの投げ銭のおかげで、俺はバイトを辞めることができた。




「それさ、ドラム叩くとき邪魔じゃないの?」


ライブ当日、サウンドチェックの合間に山本が聞いてきた。


「ああ、これ」


俺は左手のリストバンドを見た。


「まあ、ちょっとデカいけどな。なんかこれ着けるようになってから、運が向いてきた気がして」


俺はドラムスティックをくるくると回した。

ブカブカだったリストバンドが、心なしか、小さくなっているような気がした。


「思ったことがなんでも叶う、魔法のリストバンドだよ。人生なんて、意外とちょろいもんだよな」


「それってさ」


山本は、なぜか遠慮がちにつぶやいた。


「ホントだったら、ちょっと怖いよな」




前座の演奏が終わり、俺たちの出番がきた。


「やばい、やばい」


山本は、ガチガチに緊張している。


「オレら、まともにライブするのなんて、大学の時以来だよな。なんでお前、平気なんだよ」


バカだな、と俺は思った。

なにもかも、うまくいくに決まってるじゃないか。

だって、俺にはこのリストバンドがあるんだから。




言うまでもなく、その日のライブは大成功だった。

自主制作のCDも、飛ぶように売れた。

俺たちは次第に大きなハコでライブができるようになり、ついにはメジャーレーベルからデビューの誘いがかかった。

なにもかも、怖いくらいに、うまくいっていた。




ある日、スタジオで練習中に、俺はトイレに立った。

用を足し、ふと、左手を見る。

またひと回り、リストバンドが小さくなったような気がした。

ドラムの叩き過ぎで腕が太くなったんだろうと、その時は思った。



トイレから帰ると、山本が心配そうな顔で俺を見た。


「お前、大丈夫かよ」


「は? なにが」


「なんか最近、顔色悪くね?」


「気のせいだろ」


お前、いつからそんな心配症になったんだよ、と俺は心の中で笑った。




レコード会社と契約を交わし、正式にメジャーデビューの日が決まった。

アルバムの制作のために、俺は一日のほとんどをスタジオで過ごすようになった。

次から次へと湧いてくる新曲のアイディアを、夜も眠らずに書きとめる。

いつの間にか、俺は作曲までできるようになっていた。




もう三日ほど、まともに寝ていなかった。

ソファーでうとうとしていると、突然、山本が俺を揺さぶった。


「おい、岩田。お前、その手……大丈夫かよ」


山本は、血の気の引いた顔で、俺の左手を指さした。

俺は、視線を落として、ぎょっとした。


手首にきつく巻きついた、不気味な黒い物体。

そいつが俺の皮膚に食い込んで、ぎりぎりと血管を締めつけていた。

まるで、たっぷりと血を吸って膨れあがったヒルのようだ。


手首の先は、死体のようにどす黒い。

それなのに、どういうわけか、痛みはまったく感じなかった。


俺は立ち上がり、ふらふらと、ドラムセットの方へ向かった。


「岩田?」


山本の声が、遠くに聞こえた。

俺は、黒ずんだ左手で、スティックを握ろうとする。

指先はしびれたように感覚がなく、スティックが床に落ちて、乾いた音を立てた。


「どうすんだよ」


俺は苛立った。


「これじゃ、ドラム叩けねぇじゃん」


その時、そばにあったマイクスタンドが目に入った。

俺は、スタンドからマイクを引っこ抜くと、その場にしゃがみこみ、床に左手を押し当てた。

右手でマイクを握りしめ、高々と振りかぶって、躊躇なく左手めがけて振り下ろす。

山本の悲鳴が聞こえた。


力んだせいで、狙いが外れた。

マイクの先端が、親指の先をかすめて、床を叩きつける。

小さな破片が飛び散った。


次こそは。

俺はもう一度、マイクを強く握りしめ、右腕を振り上げた。


「お前、頭おかしいのかよ」


山本が飛びついてきた。


「なんのつもりだよ」


「なんのって、この使えない左手を潰すんだよ」


「なんでそんなこと」


「潰せばきっと、新しい左手が生えてくる。俺が願えば、なんだって叶うんだよ。だって俺にはこのリストバンドがあるからな」


俺は、山本の手を、勢いよく振りはらった。

山本は、はずみで尻もちをついたが、起き上がって、またしつこくしがみついてきた。


「離せよ」


「岩田!」


山本は、大きな声を出した。


「なあ岩田、もうやめよう。こんなの間違ってるって。オレさ、なんとなくずっと、なんかおかしいって思ってたよ。だって、オレたち今までなんも、努力してこなかったじゃん」


「努力?」


俺は、山本をにらみつけた。


「才能があれば、努力なんか必要ない」


「お前、いいかげん目覚ませよ。ないんだよ、才能なんか。お前も、オレも。お前が才能だと思ってるのは、たぶん、この変なリストバンドのせいだよ。お前、こいつに取り憑かれてるんだって」


「ごちゃごちゃうるせえ。今叩けなくなったら困るんだよ」


俺は、思いっきり山本を突き飛ばした。

その時、スタジオのドアが開いて、他のメンバーたちが入ってきた。

俺は、もう一度、大きく右腕を振りかぶった。


「みんな、岩田おさえて!」




そのあとのことは、よく覚えていない。

聞いた話では、俺はメンバー全員におさえつけられ、レコード会社の担当が救急車を呼んで、病院で鎮静剤を打たれたらしい。


あんなにきつく締まっていたリストバンドは、救急の医者が、いとも簡単に切断したそうだ。

なんの変哲もない、ただのシリコンバンドだと話す医者の声が、おぼろげながら聞こえた気がする。



念のため、その日は入院となり、俺は空いていた個室に寝かされた。

まともに横になったのは、何日ぶりだろう。

ボンヤリとそう思いながら、俺は眠りに落ちていった。




夢の中で、俺は自転車を漕いでいた。

明け始めた空。線路沿い。

すると突然、なにかが俺の左側を追い抜いた。


そいつは、音もなく進路を変えて、気づくと俺の正面に立っていた。

暗がりの中で、はっきりと、俺はそいつの顔を見た。

ぞっとするほど美しい、子供の顔が笑っていた。


そいつは俺に向かって、長い袖に包まれた両腕を、ゆっくりと差し出す。

袖口から、白い手のひらが現れた。

右手の上には、あの黒いリストバンド。

そして、左の手首の先は、なかった。




目覚めると、病室はうっすらと明るくなっていた。

廊下の方から、きびきびと慌ただしい気配がする。


——朝だ。






山本は、親戚か誰かのコネで、正社員の仕事が決まったらしい。

一度同僚を連れて飲みにきたが、スーツ姿もまあまあ似合っていた。


キッチンでポテトフライを揚げていると、後輩が俺を呼びにきた。

またか、と思いながらホールへ出る。

俺は今日、生まれて初めて、一日に八回もハッピーバースデーを歌った。




店じまいして、まかないを食って、店を出た。

自転車に乗る前にスマホを見ると、昨日上げた動画に、初めての「いいね」がついていた。

明日はレッスンがあるから、昼までは寝ていられない。


俺は自転車にまたがり、線路沿いの道を、明け始めた空に向かって走り出す。


才能は、ないかもしれない。

だけど、今度こそ。


うしろの方で、踏切の音が聞こえた。


今度こそ、自分の力で、できるところまでやってみよう。


始発電車が速度を上げて、あっさりと俺を追い抜いた。

俺はハンドルを握りしめ、力いっぱいペダルを踏みこんだ。

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