5♭ = e♮

「ねえ、ジャズやってみたいんだけど」

「ジャズ?」


 音大時代、ピアノ科で出された二台ピアノ課題について、智昭の家で曲決めをしていた時だった。時代もジャンルも自由ということで、自分のレパートリーも多い十九世紀の楽譜を机の上に広げた私に対して、キッチンから出てきた智昭が唐突に切り出した。


「ジャズで二台?」

「うん」


 智昭が渡してくれた珈琲のグラスの中で、積み重なった氷がカランと音を立てて崩れる。まだ付き合いはじめだったせいで、せっかく塗ったグロスが剥げてしまうのが気になる。口をつけるのに躊躇し、そのまま話を続けた。


「でも私のレパートリー、十九世紀までだよ。様式、全然違うじゃん」

「だからかえって面白くない?」

「えぇ、不利じゃない。そもそもまず曲自体、全然知らないから選ぼうにも」

「そうかな。知ってると思うよ」


 すると智昭は座りかけていた姿勢からもう一度立ち上がり、自分のグラスを手にしたままピアノへ近づいた。


「明子、これ好きなんじゃないかな」


 サイドテーブルにグラスを置くと、智昭は「いま、ソロ用しかないけど」と、ピアノの上に無造作に散らばる楽譜から一冊を抜き出し、譜面台に開きながら座った。緊張も気合もない楽な体勢で何気なく上がった右手が軽くしなり、そのまま鍵盤の上に降りる。


 低いGFファの長いトリルのあと、丸まっていた右手が解放されたように二オクターヴ以上も鍵盤を右に滑る。足がペダルを踏み込む拍子に肩が揺れ、フラットの響きが揺れ動いて繋がり、あの旋律になっていく。


「あ……そっか、ジャズだ」

「そう」


 ジャズだ。確かに一つ、知っていた。ジョージ・ガーシュウィン、《ラプソディー・イン・ブルー》。純クラシックではないが、リストらを嚆矢とした技巧的なクラシック・ジャンルの中でのラプソディーの性格やバッハの影響を匂わせながら、彼が過ごしたアメリカの音楽と融合した柔軟な作品。さらに言えば、「シンフォニック・ジャズ」と言われるようにグローフェの大編成管弦楽編曲が有名とはいえ、もともとガーシュウィンが書いたのはピアノ二台のスコア。そこからピアノを軸にした管弦楽版が初演用に作られ、その後に多数の編曲が作られたのだ。


 蠱惑的で惹きつけられる独特な旋律線は、長調でも短調でもない、半音ブルーノートを散りばめた音の連なり。甘美なのにどこか苦くて、捕まえようとすると逃げそうなうねりがどうしようもなく耳を誘惑する。ルーズに引きずるシンコペーション、誘うようなトリルの連続、気だるい響きが段々と和音の厚みを増し、そうかと思うと急にピアニッシモに一転する。一度出てきた旋律が二度、三度、ふらっと顔を見せては消え、リズムが揺れて主題が気まぐれに移り変わる。左右の指が同じ動きを繰り返しながら鍵盤上を離れては近づき、そして突然、智昭の左手が低音から高音へ大きく飛んだ。


 けたたましく畳みかける不協和音が鳴り渡り、壁に反響し、私の耳を圧迫する。


「入って」

「え?」


 智昭が身体を椅子の左端にずらした。


「上声単旋律、弾けるとこだけでいい」


 和音で戻ってくる主要主題。チラリと見上げる彼の目と目が合い、私は空いた高音の鍵盤に手を飛び込ませた。耳が覚えた音の連なりが頭で考える間もなく指を動かし、同じ鍵盤の周りを遊ばせる。智昭の足がスカート越しに触れ、ペダルを踏むリズムが私の身体に伝導すると、緊張に加速する鼓動も曲の律動に飲み込まれていく。

 こちらはほぼ初見なのに、彼の音楽が私の動きを引き出した。左から近づいてきた手を身体ごとよけて私より太い指に複雑な和音を任せ、軽く目くばせしてまた鍵盤に戻る。体幹に響く重低音を感じながら、片手で弾くはずのオクターヴ旋律を二つの人差し指だけで転がした。

 弾き慣れないヘミオラに指が馴染まず、予想外に入り込む半音に転びそうになる。でも、私が落ちれば智昭が拾った。下から登ってきたアルペジオを受け取って、タップダンスみたいな同音反復を鋭く叩く。指の腹が受ける刺激が気持ちいい。前打音をはじいて中指が踊る。私と智昭の高低の音がポリリズムを作り出す。


 もっとに入りたい。片手だけじゃ、指一本ずつじゃ満足できない。


 低音と高音に交替する和音の揺れが、智昭と私の手の間で交替する。視線を交わしたら、彼の目が笑って大きな手が私の両手を飛び超えてはずんだ。手が触れて、離れて、また触れる。


 なんて中途半端な二重奏。でも、なんて興奮する二重奏。体の中も外も音で充溢して、ぎりぎりの高揚を目指して最後の主題。

 オクターヴ和音を即興で付け足し倍音効果で響きを広げる。上半身全てを使って二人同時に指を鍵に押し出す。踏み込まれたペダルが全音域の弦を解放し、振動がぐわんと立ち上がった。壁にぶつかり、跳ね返り、狭い部屋の中に余すところなく満ちて私たちを丸ごと包み込む。



 詰めた息を吐いたら、他にない脱力感と快感が一緒になって、身体中が痺れたような感覚になる。それでいてまだ満ち足りず、全身がなおも求める。


「どう?」

「うん」

「好きでしょ」


 少し動けば触れる位置で、智昭が訊いた。胸がわずかに上下している。彼がサイドに置いたグラスを取り上げるのを見たら、私も喉が詰まっているのに気がついて、新鮮な空気を入れようと息を吸い込んで頷いた。


「好き。でも、ダメ。楽譜の上段上声だけじゃもの足りない」


 二台ピアノになったら、確実に今よりずっとキツい。でもだからこそ、確実にもっとずっと面白い。伝統的なクラシックにはない響き。空間全てを変えてしまう、独特で不思議ないろどり。


「クラシックもいいけど、ジャズ、いいね。やってみたい。なんだろ、単純じゃなくて」


 次が予想できる長短調でも、モノクロームな明暗でもなくて。


「なんていうか、味がある」


 至近距離で見つめた智昭の顔が、ふっとほころぶ。


「こんな?」


 なに、と訊き変えそうとしたら、不意に視界が遮られた。

 そして生暖かな息遣いの後で、半端に乾いたキャラメルのグロスが、珈琲味と融けて湿る。


「……あまにが

「それがジャズ」

「キザ」

「かもね」


 ははっと笑って、彼が言ったのを覚えている。


「甘くて苦いから味があるんだよ。だからいいんじゃん? 人生と一緒で」

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