初夏色ブルーノート
蜜柑桜
3♭ = d♭
カラン、コロン、と空虚なチャイムが響く。店内に足を踏み入れると一瞬、視力が奪われた。だが次第に焼くような日差しから逃れた目の奥の緊張が緩み、ブラインド越しのぼやけた光の中で殺風景な室内が浮かび上がる。
私の背で歯切れの悪い蝶番の音を立てながら戸が閉まった。そして単調なベルチャイムの名残も消えると、正面から控えめなピアノの音が聞こえてくる。フランツ・リスト、《愛の夢》か。音のする方へ片足を踏み出せば、カウンターの向こうで白髪の混じった男性が、「好きな席へ」と抑揚なく述べる。マスターだろうか。男性に軽く頷き、カウンターに近い席の椅子を引いた。少し汗ばんだブラウスのボタンを一つ外し、脱いだスーツのジャケットを椅子の背に引っ掛けて座る。
おしぼりを持ってきてくれた男性にアイスコーヒーを頼むと、私はトートバックの口からついさっき受け取ったばかりのクリアファイルを抜き出した。
白黒のアーティストの写真に略歴、ディスコグラフィー。それから公演詳細。
——参った。
何度となく聞き飽きたリストのピアノを耳から遮断し、いっそのこと手放したくなるばらばらな思考をなんとかかき集めようとする。
社で担当している音楽雑誌の連載、演奏会予告を兼ねたアーティストとの対談コラム。次回は中堅世代のピアニストで、彼のバッハやメンデルスゾーンに惚れ込んでいる自分としては願ったり叶ったりの相手。次の公演は特に人気のホールだし、絶対に私がよく知る彼のメジャー・レパートリーだと踏んだ。余裕だと思った。
でも、そんなに甘くはなかった。いましがた、所属事務所の担当者と打ち合わせに行って告げられた曲目は——ジャズ。
考えてみれば、手広い活動とチャレンジ精神が注目されているアーティストだ。また、うちの雑誌は
しかし私の守備範囲じゃない。今まで記事を担当したこともない。
五月頭にしては蒸せ返る空気の中で、大仕事の面談だと気合いを入れて久しぶりに塗ったグロスが中途半端に乾き、唇に
書類然とした面白みのない黒の明朝体で並んだ曲名と作曲者名。かろうじてW. A. モーツァルト《トルコ行進曲》のファジル・サイ編曲なら聴いたことがあるくらいで、他はほとんど解らない。そもそもジャズには全く疎くて、曲を挙げろと言われても思い付かないくらいなのだ。
ここから「読ませる」記事にするなんて。全て一から調べて聞き込まないと、インタビューの質問なんて作れない。
——会社の誰かに聞いてみるか、それとも戻る前に楽譜屋に寄っていくか……
先の男性がアイスコーヒーを運んできてくれたのに軽く会釈を交わし、鞄からタッチパッドを取り出す。いずれにせよ帰社の連絡と先方へのメールを入れなけらばならない。無意識に噛んだ唇のキャラメル・フレーバーがいやに甘ったるい。汗をかいたグラスに手を伸ばし、ストローもささずにそのまま口につけた————その時。
聞き覚えのある不協和音が、耳に風穴を開けた。
——あ……
唇を濡らして溶ける、甘いキャラメルと珈琲の苦味。
————甘くて苦いから味があるんだよ。
大気が熱を帯びた五月。ブラインドを降ろした室内。たち込めるブルーマウンテンの香り。グランドピアノの鍵盤を走る大きな手。それから——
痺れるようなあの時の感覚が、全身に蘇える。
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