18 お手柄メガネ

「やめろ! やめてくれ! 思い出したくない…! いやだ…熱い…いたい…やめろおおぉっ!」

「クロツキ? どうしちゃったの?」

 おそるおそる手をばすと、ビュッ! と見えないくらいのスピードでクロツキのうでんでくる。


いたっ!」

 右の長そでのひじから下にけるようないたみが走った。この前お猫様ねこさまれて行こうとした時に、公園のトイレのうらで引っかかれたのと同じところだ。


「おれにさわるな! あっちへ行け!」

 このひっかき方は手加減てかげんしていない。クロツキは本気だ。

「どうしよう、クロツキが…」

「あいつはねぇ、ネコだったころ人間に虐待ぎゃくたいされていたのさ」


「え…」

 コタツだけじゃなく、クロツキにもかわいそうな過去かこがあるの?

 そういえば『ブラッシングしてもらったことはない』って言ってたっけ。


わるいブリーダーの元にまれちまったのがうんがなかったねぇ。産まれつき病気があって売り物にならないと分かった途端とたん、エサももらえず世話せわもされなくなった上、暴力ぼうりょくを受けてきたんだ。ブリーダーのストレス解消かいしょうって理由りゆうでね」


 ブリーダーっていうのは、ペットショップで売るために動物を飼育しいくしてませる人のことだ。中には専門的せんもんてき知識ちしきを持たず、ひどい環境かんきょうのまま世話せわをせず放置ほうちしたり、お金もうけ目的もくてきでどんどんやして、ブームが終わると殺処分さつしょぶんしたりするような人もいるとテレビでやっていた。


 一体、命を何だと思ってるんだろう。

 それだけでも充分じゅうぶんゆるせないのに、自分よりもずっと小さなネコに暴力ぼうりょくるうなんて!


「ブリーダーの元をげ出したは良いが、長年の虐待ぎゃくたいに心も体もひどくきずついたクロツキは、たすけようとしてくれたやさしい人間や子供にもなつかずにみついて危害きがいを加えてしまった。そして人間すべてにおびえ、心を開かず、だれからもすくってもらえないネコになってしまったのさ」


 わたしは言葉が出なかった。灰色はいいろのフワフワ毛で、きれいな青い目。ちょっとおこりんぼだけど、普通ふつうに人間とらしていればきっとかわいがられたはずだ。なのに自分勝手じぶんかってなブリーダーのせいで。

「そういうことだったんだね」


『いつも身勝手みがってで、自分たちの都合つごうしか考えてなくて、自分のためなら他のものをきずつけてもかまわないくせに! 人間なんてっ…!』

 カッターナイフのみたいな声でさけんでいた意味いみがやっと分かった。


げて、げて、このまちにやってきたところで交通事故こうつうじこってしまってね。あたしの元にあらわれた時はもう瀕死ひんし状態じょうたいで、ネコのままじゃたすからなかった。だから人間にして生命力をあたえるしかなかったんだよ。あいつはのぞんで人間になったんじゃないのさ」


「うううぅぅぅっ…! 人間なんて、人間になんてなりたくなかった!」

 ギラギラした赤い目でまっすぐにらむ先は、わたし。


「クロツキ…。カフェを始めたのは、一流いちりゅうのスイーツを作るために修行しゅぎょうしていたのは、のぞまないことだったの?」

 ゆめかなえるためにあんなに一生懸命努力いっしょうけんめいどりょくしていたのに。


「クロツキのミルクティーで、みんなしあわせそうな顔してたよ?」


 カフェに来たお客さんはみんなそうだった。ちょっとこわそうな常連じょうれん佐々木ささきさんだって、女子高生だって、みんなクロツキが丁寧ていねいに心をこめていれてくれるからよろこんでたんだよ。店の手伝いをしたからわたしには分かる。


 けれど、わたしの言葉はとどいていないみたいだった。


「さあ、今こそ全人類ぜんじんるいをネコ化するぞ! わたしともに来なさい少年よ!」

 社長ネコのぶち上げに「ウウウウゥゥーッ!」っとひくうなり声で答えるクロツキ。


「どうしよう魔女まじょネコ! どうしたらいい? クロツキがおかしくなっちゃうよ!」

「あの男、人間のくせにぬぁんでアタシやこいつらがネコだと分かったかね?」

「人間のくせにって、もしかして魔女まじょネコにも見えてないの? あの人ネコだよ?」

「ぬぁんだって?」


「みんなと同じ二本足で歩くネコ。キジトラ模様もようの大きなネコだよ。メガネを外して見たら普通ふつうのおじさんだもん、まちがいないよ」

 わたしが言うと、魔女まじょは大きなネコ口をニタアァッと開けて、ガラガラの魔女声をひびかせた。


「イャ——ッハッハッハッハッハア——ッ! なぞけたよ! お前のメガネのおかげでね! そうかい元ネコかい」

「なに? なになに?」

 魔女まじょネコが名探偵めいたんていレンになっちゃったわけ? 


 その間にもクロツキがわるネコどころじゃない悪魔あくまみたいなギラギラした目で、キバとツメを向けて来る。こわくて動けないでいると、横から黒いものがんできた。


 コタツのネコジャンプキックだ!

 けれど人間サイズのクロツキにはかなくて、簡単かんたんに投げ飛ばされてしまう。空中でクルッと体をターンさせるけど、間に合いきれずにかべ激突げきとつした。


「ひどい! コタツは友だちじゃない!」

 こんなことやめさせなきゃ。引っかかれても、みつかれてもクロツキを取りもどさなきゃならない。


 すると今度こんど魔女まじょネコがサッと前に出て、クロツキの顔に強烈きょうれつなビンタをお見舞みまいした。

「フギャァッ!」

 しっぽを逆立さかだてて後ろに下がるクロツキ。けれどその目はまだわたしをにらみ続けている。


「アンタ、桃金太郎ももきんたろうだね?」

 クロツキを遠ざけた魔女まじょネコが、社長ネコに向けて言う。

 桃金太郎? へんな名前…


「やっと思い出してくれたか、ミミィ」

「いーぃや、アンタのことなんかこれっぽっちも覚えてないさ。陽子はるこが庭でエサをやってた野良のらネコの中で、特にかわいがってたデカネコに桃金太郎モモキンって名前をつけてたから言ってみただけさ」


「ふっ、相変あいかわらず冷たいな。むかしからあなたはそうだった。お屋敷やしきむあなたは、野良のらネコのわたしのことなど眼中がんちゅうになかった」

「アンタの思い出話なんざどーぅだっていいんだよ! とっととあいつらを元にもどしなぁ!」


「あなたならネコのとうとさを分かってくれるだろう? じっと見上げてくるひとみきよらかさ、毛づくろいする姿すがたあいらしさを!」


「そんなのネコだった時は知らんかっただろうがバカタレが! 人間になったからこそ分かったんだよ! 人間がいなきゃネコをいつくしんでくれる存在そんざいもないだろうが! そんなことも考えずに人類じんるいをネコ化するなんてアホくさっ。大体アンタ自身はネコにもどらないってのかい? えぇ?」


 この二人の温度差おんどさがすごい。桃金太郎モモキン社長ネコは野良のらネコ時代から魔女まじょネコミミィちゃんが好きだったんでしょ、たぶん。なのに魔女ネコの方は「バカタレ、アホくさ」だもんね。


「私とともにネコにもどろうではないか、ミミィ」

「っはあ?」


わたしはあなたに相応ふさわしい男になりたかった。ネコの時から一度も私のことなど見てはくれなかったな。あなたにり向いてほしくてみとめてもらいたくて、私は人間になって会社を始め、ここまで大きくしてきたんだ。あなたがマンクス製薬せいやく株主かぶぬしとして支援しえんしてくれたことは知っている。私をみとめてくれたと思っていいのだろう? だから今度はとも———」


「バッカ言うんじゃないよこのドアホが! はた迷惑めいわく勘違かんちがいもホドホドにしなぁ! アンタなんかのためにこのあたしが金を出すわけないだろうが。あたしゃ自分のため、それから不幸ふこうなネコのためにかせいでるんだよ。頭の中身がお目出めでたいジジイのことなんざ知るもんか」


 あちゃー、全否定ぜんひていされておじさんガックリきてる。相当そうとうショックみたい。

 でもわるいけどおじさんの告白こくはくはどうでもよくて! 真っ赤な目をしたクロツキがキバをむいてるんだもん。

 憎悪ぞうおの目はわたしにだけ向けられている。


「人間をにくんでるんだね。この中に人間はわたししかいないもんね」

 魔女まじょネコが話してくれたクロツキの過去かこと、のぞんで人間になったわけじゃないという言葉に打ちのめされそうになる。


 ひくうなり声とともにクロツキが向かってくる。けることもできずにわたしが立ちくしていると、小さなネコのコタツがまた代わりに攻撃こうげきけてくれた。


 クロツキの高速こうそくネコパンチでふっばされても、着地してまたすぐに飛びかかっていく。そして灰色はいいろフワフワしっぽにガブッっとみつく! 「シャアアア——ッ!」とキバをむき出しにいかりまくるクロツキ。


「にゃあァァァ——! ニャアア! にゃあああお——ぅ!」

 コタツがネコ語でクロツキに何かをうったえている。小さな全身から必死ひっしさが伝わってくる。そうだよね、いつものクロツキにもどってほしいよね。 


「わたしがやらなきゃ」


 だって魔女屋敷まじょやしきでひだまりのビー玉の光につつまれたあの時、『二人を助けてね』って言われたんだ。あれはきっとお猫様ねこさま———陽子はるこちゃん。人間になったクロツキとコタツをずっとたすけて見守ってきた、まもがみみたいなネコからのおねがいだもん。


 そして二人を人間にした魔女まじょネコも、きっと同じようにねがっているはず。

「そうでしょ魔女ネコ?」

「フンッ、人間をにくむクロツキをすくえるのは人間だけだ。やってみな」


「うん」

 魔女ネコに向けてわたしは大きくうなずいた。

「言葉にしなきゃ気持ちはとどかない。そうだよね、クロツキ」

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