9 ロイヤルミルクティー

 火曜日、今日は午前授業じゅぎょうだった。ママはまた100きんに買い物に行ってるから、先に宿題しゅくだいやりなさいって言われずにラッキー。


 今日もすぐにロシアンブルーへ向かった。

 茶色の玄関げんかんドアには【CLOSED】のふだがかかっていたけど、横のまどからのぞくと、中でクロツキが開店準備かいてんじゅんびをしているのが見える。


 ガラスをたたくと、玄関げんかんドアを開けてくれた。

「今日はずいぶん早いじゃないか。まず掃除そうじから手伝てつだえ」

「はいっ」


 ほうきとちりとりをわたされる。さっき教室の掃除そうじをしてきたばっかりなんだけどね。

 カフェエプロンをいてゆかきながらさりげなくお猫様ねこさまを見上げると、やっぱりいつも通りまるくなって置物みたいにている。


「終わったらネコトイレの掃除そうじな」

「それも?」

店長てんちょうへの口ごたえ禁止きんし

 仕方しかたなく【private】のドアの向こう、二つのネコトイレからオシッコで固まったトイレすなをビニールぶくろにすくう。


「にゃ~ん」

 するとあまえた声のナナちゃんがやってきて、すわりこんだわたしの太ももや手にすりすりしてきた。


「もしかして、ありがとうって言ってくれてるの? かわいいね~」

 ギューッとっこしたいけど、いやがる子もいるからぐっとガマン。代わりにナナちゃんの頭を両手でつつんで、なでなでしまくった。


「みゃあん」

 ナナちゃんは頭をプルプルッとると、掃除そうじが終わったばかりのトイレに入っていく。すなの中でじっとすると、ジョーッという音がした。


「はは…、今きれいにし終わったところなんですけど」

 もう一回トイレをきれいにして手を洗い、ゴミを捨ててもどると、クロツキがカップを取り出し、小さなおなべに湯をかしている。


「今日は何かイヤなことがあったのか。この世の終わりみたいな顔して」

 ドッキーン! 


 昨日はミスばっかりだったけど、それで落ちこんでるわけじゃない。今日は失敗しっぱいしないように、教えてもらったセリフを家でもこっそり練習してきたんだもん。なのになんで分かったんだろう…


 一つは昨日ピアノ教室をサボったことが早速さっそくバレて、ママからすっごくおこられたこと。今朝もまだ怒ってた。

 もう一つは「卒業式そつぎょうしきのピアノはメガネには似合にあわないよね。キモイし」って美雨みうに言われたんだ。


「ふぅん。どうしてサボった? サボるなりの理由があるんだろう?」

 おにになったママは聞こうとしてくれなかったけど、クロツキからストレートに問われてわたしはやっぱり口ごもってしまった。

 ”モヤモヤ”に濁点だくてんがついたみたいなこの気持ちは何て言ったらいいのか分からなくて、家族にもさくらにも話せていない。


 カウンターの中でクロツキがパカッとかんを開けると、さわやかで深い紅茶こうちゃかおりがする。すごくいいにおい。

「そういえばクロツキ、金曜日にル・ブランではたらいてたよね」


 ふとわたしが言うと、体全体でビクッとして警戒けいかいしたようだ。

「お、おおおれじゃない」

「うそ! パティシエの中で一人だけネコだったもん。間違まちがえるはずないじゃない」


 すると観念かんねんしたようにネコひげをふにゃんと下げた。

「休みの日に修行しゅぎょうさせてもらってるんだ」

修行しゅぎょう?」


「スイーツセットはまだ始めたばかりでバリエーションも少ないし、買ってきたものを提供ていきょうすることもあるんだ。けど将来しょうらいは自分で考えて作ったスイーツを出したいと思ってて。だから修行しゅぎょうさせてもらってる」


 わたしは言葉が出なかった。おこりんぼでワルネコ顔のクロツキが修行とか、将来のゆめとか、マジメすぎじゃない?

「だってネコなのに」

「なんだよ。ネコに夢があってもいいだろ」

 ネコはなやみなんかなくてのんびり気ままに過ごすからネコなのに、努力どりょくするなんて…。


 おなべでコポコポしてきたお湯にスプーンで茶葉を入れる。

「これもな、ミルクティーに合うように三種類しゅるい紅茶こうちゃをブレンドしてるんだ」

「それって自分で研究けんきゅうしたの?」

「そうだけど」

「すごっ」


 おなべの中で茶葉が上に行ったり下に行ったり、くるくるとまるで生き物のようだ。

「なんかくすぐったい動きだね。おもしろ~い」


 その間にクロツキは冷蔵庫れいぞうこから牛乳ぎゅうにゅうを取り出すと、中を二度見にどみした。

「コタツのやつ、また勝手に牛乳ぎゅうにゅう飲みやがって!」


 バラのマークのあの牛乳、一番高いやつだ。パックのデザインがかわいいからこれにしてってママにたのんだけど、ケチだから買ってくれなかったもん。


 それから牛乳ぎゅうにゅうはかってなべの中にくわえると、い茶色の液体えきたいがきれいなマーブル色に、それからやわらかなブラウンへと変化する。


「わぁ、きれいな色。それに茶葉が下からいて出てくるみたいで、これいつまでも見てられるね」

 やさしい色合いのお茶の中を、くるくる現れては消える黒っぽい茶葉の無限むげんの動きが見ていてきない。

 うわ! はじっこからモコモコした牛乳のあわが出てきた。そこで火を止める。


砂糖さとうは多めだな」

「えっ、もしかしてこれわたしに?」

 スプーンで三杯お砂糖さとうを入れて、マグカップに小さなあみをセットした上からいきおいよくお茶をそそぐ。あのあみが茶葉を受け止めるから、カップには入らないんだ。


「ほら、ロイヤルミルクティーだ」

 ロイヤル! なんていいひびき!


 ふうふうしながら飲むと、まろやかだけど紅茶こうちゃかおりとしぶみがそこにしっかりとある。でもミルクのあまみも強くて、全部が一つになっている感じ。いつものミルクティーよりもさらに大人な飲み物な気がする。これがロイヤルなのね。


 しばらく二人ともだまっていたけれど、ミルクティーの湯気ゆげにメガネがくもって、クロツキが見えなくなったのをいいことに言ってみる。


「……わたしね、メガネをかけてから変な顔とかキモいって言われたり、政治家せいじかキャラにされたり良いことなくて。もうすぐ卒業式そつぎょうしきのピアノ伴奏ばんそうのオーディションがあるんだけど、それもやる気なくなっちゃった」

 

「二週間もすればみんなれるぞ。メガネ無しの顔を思い出せなくなるさ。人間の適応能力てきおうのうりょくだけはすぐれているからな」


「クロツキみたいに、その、か…かっこいい人にはわたしの気持ちなんて分かんないよ」

 途中とちゅう、ちょっと声がふるえてしまった。気づかれちゃったかな。


「分かるさ。ネコだって人間と生きていくなら、見た目が第一だいいちだ。人間の好みのために様々な品種ひんしゅが作られて、そのせいで病気になりやすかったり、つねいたみを持って生まれて来るネコもいるんだぞ。そんなこと人間は想像そうぞうもしないだろ」


 それは重い。重たい。わたしのなやみなんか紙切れみたいにうすっぺらいものに思えてくる。

 どうせわたしのなやみなんか、ちっぽけな事かもしれないけどさ…。


「オーディションのためにピアノの練習れんしゅう頑張がんばってきたんだろう? メガネになったからって、凛花りんかの中身が何か変わるわけじゃないんだから、他のだれに何を言われても頑張がんばってきた自分をみとめてやればいいじゃないか」


 ル・ブランでおこられながらはたらいていたクロツキの姿すがたかぶ。人間の中で一人だけネコがいるのは、本当ならぎょっとする光景こうけいのはずなのに、ふしぎとそうは思わなかった。


頑張がんばったのに、なんで悪口わるくち言われなきゃならないんだろう」

 くもったメガネが晴れていく。使い終わったおなべを洗いながら、クロツキは宝石ほうせきみたいにきれいな青い目でわたしを見た。ワルネコの目つきなのにドキッとしてしまう。


「おれだってル・ブランで修行しゅぎょうしたくて、何度も何度も頭を下げて通ったんだ。緊張きんちょうしたし、最初は相手になんかされなかったよ。おこられて蹴飛けとばされることもあるけど、それでも一流いちりゅうのスイーツを作れるようになりたいって言い続けて、そうしたら少しずつ変わったんだ」


 すごいなぁ、ネコなのに頑張がんばり屋さんで。


「ネコだった時は、人間はおれの声なんて聞こえないふりしてた。でも人間には言葉があるじゃないか。思いを言葉で伝えようとしたらきっと変われる。それは目に見えないほんの小さなものかもしれないけど、だまってじっとしたままじゃ何も変わらない」


 今日のクロツキはおこりっぽくないし、『人間なんて信じられるか!』と言った時と全然ぜんぜんちがう。


 まるでミルクティーみたいだ。わたしみたいな子供こどもにはちょっとしぶ紅茶こうちゃをミルクのにおいでつつんで、今まで味わったことのない未知みちの世界への一歩をみ出させてくれるような。


「ネコだったおれにできたんだから、人間にまれた凛花りんかならできるはずだ。だって、凛花には初めてのカフェに一人で入ろうとしたり、いきなり店員になる勇気ゆうきがあるんだぞ」


 そうかな。わたしにもできるのかな。何かが変わるかな。

 って単純一直線たんじゅんいっちょくせんのコタツみたいになっちゃって、なんだかずかしい。


「…ワルネコのくせに」

「おっ、お前だってマンクス製薬せいやくのスパイのくせに!」

「それはちがうもん、いいかげん信じてよねー」


 どうしてクロツキは人間になったのかな。

 聞いてみたいと思ったけど、その勇気ゆうきはまだない。


「コタツが牛乳ぎゅうにゅうを飲みやがったから、ちょっと買いに行ってくる。それ飲んで留守番るすばんしててくれ」

 黒いエプロンを外すと、財布さいふとエコバッグを持ってクロツキは出て行った。


「これ…チャンスじゃない?」

 思いがけないロイヤルミルクティーですっかりわすれていたけど、わたしはお猫様ねこさまれ出しに来たんだった!

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