バイアス

「あのさ、そろそろ名前とか教えてくれるかな?」


 未来は視線を落としながら質問した。


 結局あの後、少女は帰る術を持っておらず、そのまま別れるわけにもいかず、未来の家に上げることになった。

 コンビニから小走りでニ、三分程の距離なので、会話もすることなく帰り着いた。


 未来の家は十階建てのマンションで、八階に住んでいる。

 家に入ると、ビショビショになった少女にシャワーに入るよう勧めた。

 浴槽にお湯を張り、少女に浴室を明け渡して三十分が経った頃だった。

 少女が未来のスウェットを着てリビングに入ってきた。

 未来の身長は174センチだ。未来の服は小柄な少女には大きく、首元から鎖骨や肩筋が見えて目のやり場に困る。


「先に名乗ったほうがいいかな。俺の名前は未来。今はこの家に一人で住んでるんだ。」


 少女はタオルで髪の毛を拭きながら、部屋を見渡している。

 十畳ほどのリビングには、中心に座卓があり四人掛けの大きなソファーが置いてある。よくあるリビングの風景だ。

 未来はソファーの端に座り、コーヒーを口に含む。

 未来も大雨に打たれていたので、少女が風呂に入っている間にスウェットに着替えていた。


「ミクルは広い家に住んでるんだね。お父さんとお母さんは何処にいるの?」


 そう言うと少女は未来の隣に座り、フゥーと息をつく。


「いきなり呼び捨てかよ…母親は俺が小さい時に離婚していない。父親は今は仕事で海外に行ってる」


 未来はそう言うと、少女に向き直り軽く睨みつけた。


「ていうかさ、俺の質問に答えてくれない?…名前は何ていうの?何処からきたの?」


 少女は未来に目を合わせず、コーヒーを手に取った。


「うーん…質問がニつになってるね…」


 そう言うと、笑いながらカップに口をつける。


「あまり人をからかうと、この大雨の中、家から追い出すぞ!」


 未来の本意ではない言葉に、少女は名残惜しそうに「はいはい」と言いながら、カップを定位置に戻す。


「私の名前は結菜ゆいな。何処から来たかは言えないかな…」


 結菜という少女は軽い感じで言っていたが、未来はどこか声のトーンが落ちたことが気にかかった。


「歳はいくつなの?あの場所にいた目的は?」


「なんか、尋問されてるみたい……歳は十七。あの場所にいたのは未来に会うため、かな?」


 そう言うと結菜は隣に置いてあるクッションを引き寄せて、膝の上に置いた。


「同い年じゃねぇか。てか、真面目に答える気はないみたいだな…まぁ家出か何かだろ…」


 未来は呆れ顔になり、大きなため息を吐くと思い立ったかのように立ち上がった。


「まぁ、いいや…。お前が話したくないんだったら、話さなくても…」


 未来はそう言うと、キッチンの方へ歩いていく。

 歩きながら窓の方へ視線を移すと、雨は更に勢いを増して降り続いていた。窓腰に地鳴りのような雨音が室内に入ってくる。

 嘘でも結菜に対して、外に放り出すと言った自分に若干の罪悪感がよぎった。それを振り払うかのように、少し優しい口調で口を開く。


「それより、お腹空いたろ?」


 時刻は夜の七時を過ぎている。

 未来はキッチンの上に置いてある袋をあさりだした。雨に濡れてはいるが、中身は大丈夫だ。

 カップラーメンにパックに入ったお寿司、サンドイッチにおにぎりやナポリタンと、ジャンルが定まっていない。他にも袋の中は異国間でせめぎ合っている。


「何がいい?何でもあるよ」


 未来が少し自慢げに言うと、結菜はクッションを放り出して小走りで寄ってくる。


「お前は捨てられた子犬か!」


 そう言われると、結菜はどれにしようかと悩む仕草をする。かなり迷っている様子だったので、「どれでもいいよ」とひと声かけてあげると、一つを指差した。


「これにしようかな…」


 結菜はビニールに包まれたおにぎりを選んだ。いわゆる、コンビニには必ず置いてあるアレだ。

 数ある種類のおにぎりの中から選んだのは、鮭だった。

 それを手に取り、舐め回すように見ている。360度、手の中の鮭おにぎりを回しながら観察する姿は、まるで初めて手に取ったかのように見えた。


「もしかして、初めて食べるの?…」


 未来の質問に結菜は微笑む。


「聞いた事はあったんだけどねぇ…」


「聞いた事はって、今どきそんな子いるのか!?」


 まさかの衝撃発言に、未来は溺れかけの金魚のように口をパクつかせる。

 この現代日本において老若男女問わず、コンビニおにぎりを見た事ない人なんて、おそらくほんの一握りしかいないはずだ。

 そんな人に出会うのは、奇跡に近いかもしれない。未来はその低確率な出会いに驚きを隠せずにいた。

 見ると、結菜は手に取った鮭おにぎりをどう食べればいいのか分からず手遊び状態だ。

 未来がそれを奪い取り、ビニールを剥いてやる。


「ねぇ、知ってた?…物事って、聞くと体験するとじゃ頭の中で理解する度合いが全然違うんだよ」


 結菜の言葉に、未来はビニールから取り出されたおにぎりを手渡しながら首を傾げる。


「そりゃ、そうだろうな…聞くと体験するとじゃ、情報量の差が歴然だし…」


 結菜は軽くため息を付きながら、ひと口頬張る。


「分かってないなぁ…未来のその言葉は、本当に理解してない人の言葉だよ」


 またも未来は首を傾げる。


「聞くと体験するとじゃ理解する度合いが違う、って事を体験したことのない人の言葉だって事…」


 そう言うと、二口目を口に入れ、「美味しいっ!」と一言漏らす。


「なんか、急にややこしい事言い出すんだな、お前…」


 未来は頭をボリボリ掻きながら、結菜に対して不平を漏らす。実際、そのような事を深く考えるのが初めての未来には、難しい話に思えたのだ。


「真実を教えてあげてるだけだよ」


 結菜はそう言うと、三口目で鮭おにぎりを食べきってしまう。


「いきなり上から目線…?ってか、食うの早ぇなぁ、おい!」


「はぁ…美味しかった!」


 結菜の見た目と食べっぷりのギャップに驚きながらも、袋の中身を全て出しておかわりを勧めてみる。

 

「次はどれにしよっかな……」


 結菜が次に美味しそうなものを漁りだす。


「コンビニ弁当初めて見たって奴、初めて見たわ…」


 未来自身、予想もしなかった韻を踏んだ感想が出たところで、次が決まったらしい。


「次はツナマヨなのね…」


 結菜は先程未来が剥いてみせたのを真似して、自分で挑戦してみる。

 まるで爆弾でも解体処理するかのように、慎重な面持ちで真剣だ。顔を近づけすぎて、寄り目になっているのが可愛い。


「出来たっ!」


 少し海苔が破れてしまったが、初めてにしては綺麗に剥いてみせた。


「ってか、未だに信じられないんですけど…今までどんな生活してたの…?」


「人ってね、物事の情報をどれだけ持っていても、実際に体験したり体現したりしない限り、バイアスのかかった思考しかできないの」


「お前って気持ちいいぐらい、人の事無視するよな…」


 結菜のペースに振り回されながらも、未来は彼女に話を合わせる事にする。


「バイアスって言葉…見たことも聞いたこともないんですけど…」


「一般的な言い方だと、偏見を持った考え方って言うのかな…?」


 そう言うと、片方の手におにぎりを持ち、もう片方の手は腰に当てて、大きな一口でかぶりつく。


「今、未来は私の事を得体の知らない、よく食べる可愛い女の子としか思ってないでしょ…?」


「まぁ、最後の方は自分で言うとちょっと引くかな…」


「それは、バイアスの掛かった思考で私の事を見てるからなの」


 そう言うと、何故か急いでおにぎりを食べきってしまう。


「でも真理とは少し違うんだけどね…」


 結菜は真剣な表情で語りながら、またキッチンの上に広げられた食品の物色を始める。

 そこで、未来は結菜の話を妨げた。


「とりあえず、リビングで話そうか。こんな所で立ち食い話もなんだから…」


 そう言うと二人は、とりあえず食べたいものを選んで、リビングの座卓に移動する。

 結菜はおにぎりをニ個選び、未来はナポリタンを選んだ。飲み物も用意して、これでゆっくりと話が出来る環境を整える。


 それにしても不思議な子だ。コンビニ弁当を知らないのもそうだが、知らない人の家に躊躇いもなく入って来れる。状況が状況だったとはいえ、普通は警戒するのが当たり前だ。見た目で、未来が同じ位の年頃だと分かった上とはいえ、少しは慎重になっても良い筈なのだ。いや、慎重にならなければいけない。

 自分以外の人間が声を掛けていたらと思うと、想像しただけで怖い。未来は結菜に声を掛けて良かったと思った。少なからず未来自身、結菜に悪い事をする気持ちが無いからだ。


 二人がソファーに座るや否や、結菜が口を開く。

 結菜の視線はおにぎりをロックオンしたまま、今度はこ慣れた手付きで、ビニールを取っていく。


「何の話をしてたっけ……あぁ、そうそう…」


 未来は半ば一人で喋る結菜を他所に、耳だけを傾けながらナポリタンの容器の蓋を取る。


「さっき私が言ったバイアスっていうのは、この世界で脳科学や心理学、認知科学的な論理なの。未来に分かるように偏見と言ったけど、本当のところはソレとは少し違うんだよね…」


「さっきの説明でもなんとなく理解は出来るけど…違うの?」


 未来はそう言いながら、ソースが服に飛ばないように、慎重にプラスチックのフォークで麺を絡めとる。


「論理的には合ってるんだけど、真理はもっと別の所にあるんだよね…」


 対する結菜はそう言いながら、昆布おにぎりにかぶりつき、「例えばね…」と人差し指を立てながら続ける。


「道を歩いていたら、産まれたての可愛い子猫が私の後を着いて来たっていう体験をしたとするでしょ?その事実を未来にそのまま話すんだけど、未来には着いてきたのは子猫じゃなくて、子犬だと受け取られてしまうの」



 数秒間の沈黙が走った。

 


 結菜は言い切った感を顔の表情全てで表現している。




「…………………………。」




「……ちょっと何言ってるか分かんないんですけど……」


 結菜の眉間にシワが寄る。


「……なんかスミマセン……」


 未来は何故か謝ってしまったが、結菜は気を取り直したように眉間のシワを無くし、笑顔に戻した。


「まぁ、仕方ない反応だよね…最初はそんなもんだよ。実際に体験してないし…どこかの芸人さんみたいな事言うから、ちょっとイラッとしただけ…」


 コップに注がれたお茶を一口飲み、結菜はウンウンと頷きながら言う。


「自分の感情を包み隠さず表現するんだね……てか、コンビニ弁当は知らないのに、どっかの芸人のネタは知ってるんだね……」


 未来は彼女の表情で、なんとなく気持ちを察することは出来るが、性格まではまだ掴みきれてはいなかった。それと同時に結菜に対する興味が少しずつ湧き上がってくる。少なくともお笑いネタは封印しよう。


「つまりは、俺がこのりんごが赤いと言っているのに、聞いた側は、俺がりんごが青いと言ってると認識するってことだろ?…それって偏見とかそんなレベルの食い違いじゃなくね?」


 未来はパスタを口に運びながら疑問を投げかける。


「うん。この二つの例え話は少し大袈裟だけど、似たような事がこの世界では起きてるの…」


 そう言うと、結菜は食べる手を止めて、未来に向かい合う。今までに無い真剣な表情に、未来は咀嚼するのを忘れ結菜の目を見返した。


「そしてね…」


 未来は周りが静かな事に気付く。いつの間にか激しく打ち付けていた豪雨は止んでいた。

 未来は結菜の次に出る言葉を待つ。


「私が言った内容を納得していなくても、私が未来に話す事が出来たってことは、あなたもそういった事を実体験出来る状態にあるってコト…」


「えっ…どういう事……?」


 未来はこの現実離れした結菜の言葉を、咄嗟に理解出来ないでいた。




「…そして……」




「もう、後戻りは出来ないよ…」


「ちょっと待って…」


 未来は慌てて声を割り込ませる。


「話す事が出来たってどういう意味?話す事ぐらい出来るでしょ……後戻りってなに……?」


 未来の疑問は当然の感覚だった。話す事が出来る状態とは何なのだろうか。結菜が話そうとすると誰かが阻止するとでもいうのか。話す事が出来ない状態とはいったいどんな状況下に置かれている時なのか。後戻りとは一体どういう意味だ。この話をする前と後で何が変わると言うんだ。

 心がざわつかずにはいられない突然の内容に、未来の思考は止まりそうになる。


 結菜は未来の疑問に答えるべく口を開く。


「まだその状態にない人にこの事を話そうとしても、話す事が出来ない状況になるか、話しても相手にされず聞いてもらえなかったり、そもそも理解出来なかったりするの。でも、未来にはしっかりと話す事が出来て、理解もできた。つまり、未来はもう実体験出来る状態にあるって事…」


「何を実体験するっていうんだ…?さっき言ったみたいに猫を犬と認識したり、赤いものを青いと思ってしまうことか…?」


「少し違うわ。そういった現象自体は常に起こっているの。形を変えていろいろな場面で起きてるわ。ただ、皆が気付かないだけでね…。未来はその食い違いや矛盾に、これからどんどん気付くようになるの」


「そんな事、本当にあり得るの…?例えば具体的にどんな事が起こったりするの…?」


 未来の質問に結菜は首を振る。


「それは実際に自分で見てみたらいいよ…。とりあえず明日になってからだね」


 結菜はお腹いっぱいになったのか、両手を合わせている。

 ふと、未来は疑問に思ったことを口に出した。


「いや…今しれっとココに居座ろうとしてない…?」


 結菜の笑顔の返事に、未来は頭を抱え人生一のため息をつきたくなる衝動に駆られる。

 正直、結菜の話を信じることは出来ない。信じる為の材料が無いからだ。とりあえずは、結菜の言うとおり明日以降、本当に非日常が起きるのか待つしかない。


 今日はもう寝よう。全ては明日になってからだ。


 結菜には未来のベッドで寝てもらい、自分は父親の寝室で寝よう。

 結菜を寝室へ促した後、ふと窓際から外を見る。

 いつの間にか夜は深まり、さっきまでの豪雨が嘘のように星が輝いていた。未来はその綺麗な星空の世界をシャットダウンするように、分厚いカーテンを閉め、父親の寝室へと入っていった。


 

 

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見せ掛けconscious 宮奏 @gakunori95

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