第94話 死なない

 ディナダンの手がセラフィナの髪を撫でる。彼女はほのかに表情をなごませた。


「それで?」


 容赦なくフロレンスが問いかける。


「言いたいことがあるならはっきり言いなさい」

「フロレンス……」


 控えめなディナダンの声が発されるも、威勢はない。彼と同じ気持ちなのだ。イグナーツも、口を挟まず彼女の訪問の理由を待つ。


 唇を開けたり閉じたりともどかしくしていた彼女は、沈黙にえかねたか、ぼそぼそと呟いた。


「……このままじゃ、いけないって思ったんです」


 器を持つ手が、かすかに揺れる。


「私がちゃんとしなきゃいけないって。私は、皆さんの……。でも」


 言葉が詰まる。込み上げる気持ちを必死に抑えているようだった。ディナダンの指が再び髪をいて、寄り添う。


「怖いんです。人をたくさん殺さなきゃいけないのも。でもそうしないと護れないから、やるしかないって、……私たちがしないといけないって、分かっています。だけど」


 あどけなさの残る顔立ちが、くしゃりと歪む。


「貴方たちを失うのは、嫌です」


 消え入るようなその声は不思議なくらい、室内に響いた。黒い瞳は潤み、今にも泣きそうに3人を見張らす。


「命を比べるつもりはないですけど……どうしても、皆さんを失いたくないんです」


 それからもセラフィナは後ろ向きなことを言い続けた。くどいほど同じ内容だった。騎士たちがいかに大事な存在か、聞いてもいないのにうじうじと語ってくる。


 結論のない無意味な演説にイグナーツの苛立ちが高まる。とうとう我慢できなくなって彼はセラフィナに掴みかかった。


 細い肩をきつく握り、壁に強く押し当てる。大きな物音が鳴って彼女がうめいた。それでもイグナーツは力を緩めない。


「イグ!!」


 ディナダンの非難めいた怒声が反響する。しかしイグナーツが引き剥がされることはなかった。フロレンスが青年の動きを背後から取り押さえたからだ。


「フロレンス!? なんで!」

「いいから」

「良くないよ! おちびちゃんが!」

「黙っていろ」


 2人の言い争いを聞き流してイグナーツはセラフィナを睥睨へいげいする。


「だったらなんだ。逃げるってのか。今さら」

「! そんなこと、言ってな……!」

「一緒だろうが!!」


 もう一方の浅黒い拳が彼女の顔の真横を殴った。壁が振動し、拳から血がつ……と伝う。


「要は怖気づいたってことだろ、なあ!? てめぇが勝手に怖がってるだけだろ! 俺たちのせいにすんな!!」

「貴方たちのせいには、」

「ってか勝手に殺すな!」


 彼女の何もかもが気に入らない。独りで思い悩む癖も自分勝手に想像をたくましくさせる頭も。現実から目をらして進もうともしない彼女の姿に怒りが爆発した。


「自分のことばっか考えてねえで俺たちを見ろ!」


 暗かった瞳に光がよぎった。でもその光は涙をランプが照らしただけの、悲愴ひそうなものだった。


「……考えるしか、ないじゃないですか……! 自分のこと……っ」


 血を吐くような濁った声をセラフィナは吐き出す。


「だって私は、貴方たちを戦場に、死地に送り込むんですよ……!? 私が、死ねって、貴方たちに命令を! できないですよそんなこと……!」


 荒い息を繰り返して上下する細い肩。ひゅっ、と空気を吸い込む音。


「私は死んでほしくない!!」


 手つかずの夜食の器を抱き締めてセラフィナは叫んだ。高い音は壁を貫いて、隣の部屋にも届いたことだろう。もう今さらであるが。


「死なねえ」


 自分でも驚くほど自然に漏れた。セラフィナが顔を跳ね上げる。

 イグナーツはもう一度口にする。


「お前がそんなんで悩むくらいなら、死んでやらねえよ」

「そんなの……」

「信じねえ気か?」


 肩を掴んでいた手で彼女の頬をぐいと持ち上げる。額と額を合わせて無理矢理視線しせんを絡ませた。イグナーツの思いを彼女の中にぶつけるように。


 イグナーツたちは彼女が考えているような弱い存在でもなければ、簡単に野垂れ死んでやるつもりもない。生きて勝利し、歓喜に湧く故郷の様子を見てやろうというくらいの気概はある。


「国王でも何でもねえ。お前に誓ってやる。俺たちは死なない」


 セラフィナの細い喉が上下した。大きな瞳の目尻から澄んだ雫がひとつ、零れ落ちる。


「だからお前も決めろ。セラフィナ・シックザール。お前を認めてんだ。お前は俺たちの上司なんだよ」


 身体を離して彼女の反応を窺う。セラフィナは呆然とイグナーツたちを見ていた。顔色は悪いままだが、瞳には確かな輝きが宿っていた。


 まばたきをして、セラフィナは唇をきゅっと引き結ぶ。修道服の裾がひるがえった。


「……考え直させてください」


 コツコツと小さな足音を残してセラフィナは出て行った。相変わらず頼りない後ろ姿だが、背筋はしゃんと伸びている。


 手応えはあった。言いたいことはまだまだあるものの、ひとまず飲み込んだ。あとは彼女次第だ。 


 少しばかり溜飲が下がったところで、あの香ばしいハーブと小麦の匂いが消えたことに気づく。


「夜食、一緒に食うんじゃなかったのかよ」

「荒っぽすぎるんだよ君は……!」


 ようやくフロレンスの拘束から解放されたディナダンがイグナーツに突っかかる。


「ああでもしねえと聞かねえだろ」

「だからって! フロレンスも。俺じゃなくイグを止めてよ!」

「結果的に良かったじゃないか」

「君らのそういうとこ嫌いっ」


 ぷくっと頬を膨らませてそっぽを向くディナダン。途中で止まったチェスの盤上を睨みつける。戦局はフロレンスの方が優勢だった。むう、と翡翠の瞳がひそめられる。


「これで」

「あ」


 フロレンスは先ほどディナダンが上下を逆さまにしたルークの駒を元に戻す。


「僕が『天使』に成り代わる必要はなくなったわけだ」


 ルークをひっくり返して女王の駒に見立てて勝負を進めること自体は、チェスの中で認められている。ただし条件があって、ディナダンはそれを無視して女王に昇格させていた。


 正した上で、フロレンスは自分の駒を動かしてディナダンの持ち駒を奪い取った。気づけばディナダンの王の駒周辺はがらきで、フロレンスの駒の移動範囲に包囲されている。


「あー!!」


 初めてそこに気づいたディナダンは悲鳴を上げた。


「下手な小細工をしなくてもあの子は動いてくれそうだよ」


 フロレンスは満足そうな笑みを浮かべた。

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