第93話 盤上の駒

 白いルークの駒が、真横にあった黒い僧侶ビショップの駒を倒す。倒れた駒のあった場所に、そのルークがとん、と置かれた。


 そんな光景を見たフロレンスは、椅子の肘掛けに頬杖をつき、思案するような顔で息を零す。


 盤上に転がる僧侶ビショップは、いつの間にかディナダンの掌に移動していた。元はフロレンスの駒であったそれを、彼が取ったのだ。彼の白い駒をすでに先取したからと、少し油断してしまっていたようだ。


 数手先の盤上を読みながら、茶褐色の目が駒を注視する。白い騎士ナイトが動く範囲内に彼の駒である黒の女王があることに気づき、いったん避難させると、あ、と不満げな声が聞こえた。どうやら、ディナダンは密かにこの駒を狙っていたらしい。


 チェスのルールを全く知らないイグナーツは、ちまちまとしか動かない駒をぼんやりと見続けていた。


 ついさっきまでこの団長たちの部屋で、地図を囲みながら道中の移動の段取りや辺境騎士団との合流の計画などを3人で立てていたのだが、軽い息抜きと称してフロレンスたちがチェスに興じ始めた。嫌ほど頭を働かせた直後によくまたこんな遊戯ができるものだと、イグナーツは感心を通り越して呆れる。


 夜の薄暗い部屋。壁の数ヶ所に取り付けられたランプの明かりが、チェスの盤上にある駒を艶やかに照らし出す。黒い駒がしっとりとした光沢をたたえるさまは、彼女の髪と瞳を連想させた。


「ねえ、どうする」


 ディナダンがそう切り出した。フロレンスとイグナーツが同時に彼の方を向く。どうする、の問いのあとに、「セラフィナを」と密かに続いたのを、イグナーツは確かに聞いた。


 先代国王の崩御を見送ってからというもの、彼女は明らかに憔悴している。口数も減り、食事にもほとんど喉を通さず、何やら思い詰めたような表情が目立つ。


 どうして彼女があんなにも沈み込んでいるか。原因はひとつ。


 ――――ステファスとの、戦争。


 王立騎士団の長として出陣を命ぜられたセラフィナの顔は、すっかり青ざめていた。あの場で崩れ落ちていてもおかしくはなかったと思う。


 押し寄せる血戦の気運に士気を高めていた騎士たちは、日に日に暗さの増すセラフィナの落ち込みように気持ちを鈍らせている。このままだと困惑を抱えた状態で王立騎士団は戦争に突入することになる。それだけは避けねばならなかった。


「……代わってやるべきかな」


 僕が、とフロレンスが呟く。


 総轄長の座にセラフィナを据えたまま、彼女がやるべきことをフロレンスが引き受ける。つまり彼女の代わりに騎士団を仕切り、彼女の代わりに戦場で先陣を切るということだ。


 ディナダンはその言葉に同意した。コトン、と駒の置かれる音が場違いなほど軽い。


「おちびちゃんを傀儡かいらいにするってこと? 仕方ないよね。俺らみたいに覚悟があるわけでもないし」


 ディナダンは手元のルークをひっくり返した。堂々たる反則行為だが、フロレンスは咎めない。深く考え込んで、彼女の処遇と己の身の振り方を思い描いている。


 騎士になった時――――見習いの従騎士じゅうきしから正式な騎士の叙任じょにんを受けた時に、彼らは死ぬ覚悟を済ませた。誰もがそうだ。普段は心安い仲間や部下として接していても、いつかは弔い、弔われる日が来ると受け入れている。そういう立場なのだから。


 彼女にはそれがない。騎士の戒めをまだよく理解していないまま、ここまで来てしまった。


 総轄長という椅子は、彼女が思っているよりも重く冷たい。


 高い地位には責任と義務が伴う。状況を見定め、判断し、人を動かす。傍にいる人間の助言があっても、最後に決断するのは彼女なのだ。


 そこには騎士たちを、死地に送るという命令も含まれる。


 彼女が一番打ちのめされているのはそこなのではと、イグナーツはみている。


 部屋の扉が控えめにノックされた。立ち上がり、開けてやると、今まさに話し合っていた人物が立っていた。


「フロレンスさん。やっぱりこちらにいらっしゃったんですね」


 セラフィナは手に香ばしい匂いのする器を持っていた。棒状に焼かれたパンのようなものがいくつも入っている。


 彼女は部屋に入るのをためらっているようだった。テーブルに置かれたチェス盤に星空の瞳が不思議そうに丸くなり、次いでわきに畳まれた地図を見て気まずそうに睫毛を伏せる。


「……おいで」


 ディナダンが優しげに目を細め、彼女に手を差し伸べる。ようやく彼女は室内に足を踏み入れた。


「厨房の方々が、届けに来てくださって。お夜食みたいです」


 言いながらセラフィナは器を3人に差し出す。


 彼女が持ってきたのは、余ったパン生地を細長く伸ばしてカリッと揚げたものだ。練り込まれた絶妙な塩味とほのかに香るハーブの風味がクセになる。厨房の料理係は、中途半端に余った食材の残りでたまにこうした軽食を作ってくれる。


「おちびちゃんに、ってくれたんでしょ? こっそり食べたら良いのに」

「……皆さんと、食べたくて」

「そうなの? ありがとね」


 小さな囁きは、単なる口実だろう。きらきらした瞳が暗くなっていく。

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