第92話 脆く儚い平穏

 王が、身罷みまかられた。


 頑健で聡明な君主であったが、肺を患ってからもなお精力的に政務に打ち込んでいたのが災いしたのかもしれない。元々高齢でもあったため、いつ息を引き取ってもおかしくはないという状況でもあった。


 実の子の王太子は10年前に病没し、次の後継者は孫に当たる幼い少年。宮廷の人々は国王の遺志と臣下としての使命を負い、幼い王を支えなければならない状態である。


 それを見計らったか。ひとつの国が牙をぎ澄ます。



*******



 国王崩御ほうぎょの知らせを受けてからセラフィナは静かに、喪に服していた。王立騎士団の代表として大規模な葬儀にも参列し、長きに渡る治世をねぎらいながら安らかな眠りに就けるよう祈りを捧げる。王室の名の下に使命を受けた騎士であり、神の花嫁たるセラフィナだからこそ求められた務めだった。


 その後、宰相に呼ばれて初めて宮廷をおとのうたセラフィナの頭を、衝撃が殴った。


 ――――近隣の強国ステファスが、テネーレの新国王が若年であることを理由に王位を要求してきた。


 ステファスは、ある国の傭兵団が遠征に乗じて独立し、建国した国家だ。国として機能してきたのは実質100年も経たぬくらいだが、元は戦闘に長けた人間たちが集まってできた場所なので、その国力は大陸でも最たるものである。事実、最初は地図上でも欠片くらいの領土しか持っていなかったのに、今ではかなり肥大している。


 数十年前まで、テネーレとステファスの間には小国がいくつかあった。しかしそこもステファスとの交戦によって滅び、ステファス国の一部となってしまったのだ。


 そんな国が、圧倒的な軍事力を背景にテネーレそのものを要求してきたのだ。老いたテネーレ国王の死没という、混乱に乗じて。


 王位の請求など、テネーレの王族の血筋にしか与えられない権利だ。テネーレの王族と血縁を結んだ記録のないステファスに、そんな権利を主張するいわれは一切ない。それはステファスが一番理解しているだろう。


 分かっていながら、なぜテネーレの王座を求めたか。理由は明らかだ。ただただテネーレを奪い尽くす、それだけのこと。テネーレが従えば血を流さずに新たな領土を得、拒めば武力で侵略する。つまり事実上の宣戦布告だ。いずれにせよテネーレは飢えた獣の新たな獲物となっている。


 セラフィナは王立騎士団を率いる者として、大勢の騎士と共に戦地へ向かうよう命ぜられた。ステファスの与えた返答の猶予は10日。その間にすべての備えをして国境にせ参じよ、と。


 それは教会で清らかな静穏せいおんを享受してきた修道女にとって、あまりにも酷な命令だった。



*******



「――――セラフィナ」


 名を呼ばれて身体が震える。迷いの海に沈んでいたセラフィナは、舌を噛みながら声の主を振り返った。


「ひゃい!?」

「貴方ね……」


 呆れながら執務机に淹れ立てのお茶をコトリと置くフロレンス。ほんのり青っぽい、鼻腔びこうがスッとする清涼な香りはローズマリーだろうか。集中力を高めたり、疲れを癒したりする効能がある。


「手が止まっていましたよ」


 どうやら、何度も彼に呼ばれていたらしい。気づかず、セラフィナは署名のペンの動きを止めて物思いにふけっていた。


「何を悩んでいるんです?」


 フロレンスは見透かすように問うてきた。彼女の顔を覗き込み、視線を重ね合わせる。セラフィナが何に意識を奪われているか分かっていながら、彼女自身に答えさせようとしている。


 口にできたら楽だろう。彼も、厳しい言葉遣いでセラフィナの肩を揺さぶるだろう。今までみたいに。


 だからこそセラフィナは唇を閉ざした。自分の弱さがそうさせていると自覚していながら、抜け出せない。


「……悩んでいたって仕方ないでしょう。貴方が悩んだところで何も変わりませんよ」

「分かっています」

「では悩む必要はありませんね」


 フロレンスの声が突き放す。けれど茶褐色の瞳は、セラフィナを案じていた。


 それが逆に咎められているみたいで、彼女は顔をらす。ペンを握り直し、仕事に集中するふりをした。


 不甲斐ない姿に、肩をすくめる彼の息遣い。背中がギクリと縮こまる。


 彼は無言で執務室を出た。去りぎわにちらりと盗み見た横顔に感情はなく、セラフィナを映してもいない。ぱたんと扉を締められて、セラフィナは息を大きく吐き出した。


 どうして彼らは苦悩していないのだろう。淡々と受け入れているのだろう。


 宰相もそうだった。宮廷の広間で控えていた貴族たちも。緊張を孕みながらも、落ち着き払っていた。この日が来ることを予期していたかのように。


 告げられた『戦争』の響きに、取り乱したのはセラフィナだけ。同じくその場で聞かされたフロレンスたちも、いつも通りだった。


『俺たちが武器を取るのは、それがないと護れねえからだ。護るためなら何だってしてやる』


 初めて人を殺して憔悴しょうすいしたセラフィナに向けられた、イグナーツの言葉が反響する。


 『護る』。単純だが極めて難しい誓いが、彼らを奮い立たせているのだ。護らなければ大切な誰かを失う。それを阻止するために、彼らは戦う。


 彼らとかかわる中で騎士の使命を知った。人を殺めた。何も知らないなんて言えない。無関係であるはずがないのだ。


 でも、どうしても。重くのしかかってくる荒々しい現実に、押し潰されそうな自分がいる。


「あ……」


 ペン先のインクが垂れて紙面に黒いシミをつける。輪郭のぼやけた円はにじみ、徐々に広がる。


 セラフィナはペンを離し、頭を抱えた。指の食い込んだ髪が、くしゃりと乱れた。

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