第2話 大聖堂の天使

 王都の中心街にある大聖堂は、朝日が昇ると内部が宝石のように華やぐことで有名だ。光の道筋が色鮮やかな薔薇窓を突き抜け、細やかなガラスの色合いに染まって礼拝所を照らすさまは、まさしく極彩色の薔薇だ。


 参拝者用の長椅子を見下ろすステンドグラスは水色や青を基調とし、光をまとう神にひざまずく聖人と、純潔の象徴である白百合が浮き上がる。古来より紫と並んで神秘の色だとされる青は、大聖堂の西側にあるこの礼拝所でも多く使われている。


 その蒼く淡い光に照らされた祭壇。週末の朝に行われるミサで、神父が説教する場所だ。

 祭壇のかたわららには、一対の翼を広げ飛び立たんとしている子供の彫像があった。天使像である。それは大理石を彫っただけの像とは思えないほど精巧に作られていて、澄んだ石造りの瞳は遥か彼方を望み、すべてを見透かしているよう。

 ゆったりとした布がなびき、豊かな髪もそよいでいる。石の硬質さが取り払われ、本物に似た軽やかさがあった。


 天使は神の御使いであり、人々の祈りを聞き届けるという。その像の御前にてひざまずく娘も、一般信者に出入りを開放する前に早朝の祈りを捧げていた。


 手入れの行き届いた漆黒の髪と、対をなす滑らかな雪の肌。発色の良い蕾の唇。幼さの残る目鼻立ちが容貌を愛らしく仕上げている。

 閉ざされた瞼の奥にどんな煌めきが秘められているのか、まだ分からないが、それでも娘の持つ純真さは全身から溢れ出ている。


 まるで美しい宗教画だ。ぼんやりと観察していたら、背に真っ白な翼が透けて見えそうなほど、彼女は聖なる空間と調和していた。


「<セラフィナ>」


 ラテン語が礼拝所を満たす。低いしゃがれ声は困惑が入り混じっていた。


 最後の聖句を唱え終え、娘はしゃんと姿勢を正して立ち上がる。さらりと流れる黒髪。胸の影に隠れて組まれていた手が、ようやく朝の光を受けた。


 左の薬指に銀の指輪をはめる彼女は、今年で19歳。14歳で結婚適齢期とするこの国では、嫁いでいてもおかしくない。とはいえ、彼女は既婚者ではない――――修道女である。


 彼女がはめている指輪は、神との霊的な婚姻関係を結ぶ道具だ。大陸で広く信仰されているメサイア教の教典には『教会は神の花嫁』という記述がされており、純潔の誓願を立てた者は必ず指輪をはめる。修道女の着衣も宗教上では花嫁衣装であり、ゆえに彼女は生涯独身を誓っている。


「<カルディナリス、パードレ>」


 娘は先ほど、自分を呼んだ男を振り返る。金縁きんぶちの丸眼鏡をかけた、鷲鼻の老人だ。聖職者でも高い位階いかいの者にしか許されない緋色の衣は、彼が枢機卿であることを示している。


 ゾルタン・シックザール枢機卿。義理の父親でもある彼を、セラフィナは敬意をもって『枢機卿カルディナリス』と呼んでいる。


 彼の隣に男性がもう1人立っていた。後ろに撫でつけた黒褐色の短髪の、背の高い偉丈夫いじょうぶだ。シックザール枢機卿ほどでないが、それなりの年齢でシワがあり、厳めしい顔つきで鳶色の瞳が炯々けいけいと光っている。黒い平服キャソックの上に重ね着した白い祭服、神父パードレダニエルだ。赤ん坊の頃からセラフィナを知る大聖堂の聖職者の中でも、特にこの2人は何かと彼女の世話を焼いてくれていた。


「<例の件、本当に受け入れるんだな?>」


 重々しい口ぶりでダニエル神父が問う。

 この1週間、ずっと確認され続けてきたことの、最後の念押しだ。宮廷がセラフィナを名指しして届けた手紙。彼女を王立騎士団の総轄長という最上の地位に据えると書かれた任命書。


 修道士や聖職者が世俗の騎士団に入ることはあり得ない。ましてや女が武器を振るって騎士たちを統率するなど、荒唐無稽で物語にもならない。なのに宮廷は大真面目にセラフィナを次の総轄長に任命した。おかしい、としかいえない。


 彼らが崇めるメサイア教は、万物を創った創造主を父と仰ぎ、神が子なる人間たちに教示した行動といましめを教理として、神への愛と贖罪しょくざい、そして死後の救済を説く。その信仰に人生を捧げた者たちを修道士や聖職者と呼び、人々は彼らを通して神に祈りを捧げる。

 教皇が住んでいるテネーレの王都はその総本山ともいえ、ここを中心に修道士と聖職者たちが国をまたいで連携し、人々の願いを天に届けている。


 その意味では教会は国境を持たない『国』のようなものだ。そして教会と宮廷は互いに独立し合っている。王侯貴族が礼拝の場に来ることはあっても、聖職者を宮廷の仕事に就けることはない。逆もしかりだ。貴族の子供を教会に入れる場合は、癒着を防ぐため籍を抜く。そうやって教会は、どこの国とも一定の距離を保ってきた。


 今回の登用は、その均衡を崩しかねない。しかも国王の補佐として国務を担う宰相の名で、だ。当たり前だが聖職者たちの人事は教会で決める。最終の決定権者は教皇である。つまり宮廷の打診を教皇が受け入れたのだ。

 信仰に生き、神に尽くすべく隔絶された世界で過ごす鳥籠の娘を、唯一外へ放てる人物。メサイア教の最高位聖職者である教皇しかいない。何らかの思惑があって決定したことは明白だ。だがその思惑が見えてこない。


「<宮廷のご判断だとしても、それはしゅの御意思かもしれません。断ってしまえば主のお考えにもとります>」


 セラフィナは変わらぬ意思を一字一句違えず伝えた。鈴のような声。静謐な祈りの場に凛と響く。

 枢機卿もダニエル神父も、他の聖職者たちも、口をそろえて「断るべきだ」と反対した。修道士、それも若い娘を狼の群れに放り込むなど、とんでもない。


 だが教皇の裁可がある以上、嫌がれば尊顔に泥を塗ることになってしまう。


 セラフィナは、孤児だ。真冬の夜、礼拝所の祭壇に捨てられていた。生みの親に代わってシックザール枢機卿らが育ててくれ、幼い頃は教皇も彼女を訪ねてよく遊んでくれた。彼らには返しきれないほどの恩がある。

 この身を役に立てられるなら、セラフィナは喜んで差し出せる。迷いはなかった。


「<教皇猊下は主の代理人です。猊下が宮廷のご判断をお認めになられたなら、つつしんでお受けします>」

「<セラフィナ……>」

「<あとは主がお導き下さるでしょう>」


 セラフィナはにっこり笑む。屈託のない、不安や困難などひとつもないというような、ある種の強さを感じる笑みだ。

 セラフィナは王立騎士団のことはおろか、年配の聖職者たちに囲まれ信者たちに可愛がられる世界で育ったので、世間を知らない。若い男の本性がどんなものかも。あるのはただ、神への絶対的な信愛のみ。神のお導きに従っておけば自然と答えが見つかるはず。篤い信仰心がゆえ、聖職者たちの心配をよそに彼女はさほど深刻に捉えていなかった。

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