第3話 些細なきっかけ
すべてを動かしたのは、1枚の羊皮紙だった。
手紙を読んだゾルタン・シックザール枢機卿は発狂しそうになった。いや、もしかしたらすでにしたのかもしれない。喉がひりひりと痛かった。
昂った気持ちを落ち着けようと、シックザール枢機卿は今自分が立っている場所を見渡す。
聖職者のみが立ち入りを許された
気を取り直して、再度あの手紙に向き直る。そしてその内容がロクでもないということも再び認識した瞬間、彼はあらん限りの声量で叫んだ。
「……なんじゃとおおぉっ!!?」
ゴーン……ゴーン……。
大聖堂の鐘が鳴る。低い轟音と絶叫が重なり合い、奇妙な不協和音を奏でた。
大聖堂の庭に植えつられていた大樹が申し訳程度に揺れ、枝に乗っていた小鳥は大空へと飛び立った。
*******
天上から吊るされたガラス細工の照明器具がひらひらと光る。光の道筋が色鮮やかな薔薇窓を突き抜け、緑や赤などの色に染まって礼拝所を照らす様は、まさしく極彩色の薔薇だ。
参拝者用の長椅子を見つめるステンドグラスは水色や青で彩色され、光を纏う神に
その蒼く淡い光に照らされた、至聖所の大祭壇より一回り小さい祭壇。週末の朝に行われるミサで、神父が説教する場所だ。
祭壇の
ゆったりとした布がなびき、豊かな髪もそよいでいる。石の硬質さが取り払われ、本物に似た軽やかさがあった。
天使は神の御使いであり、人々の祈りを聞き届けるという。その像の御前にて
年の頃は十代の中頃か。手入れの行き届いた漆黒の髪とまったくの対をなす滑らかな雪の肌。薄い蕾の唇。幼さの少々残る目鼻立ちが容貌を愛らしく仕上げている。
閉ざされた瞼の奥にどんな煌めきが秘められているのか、まだ分からないが、それでも娘の持つ純真さは全身から溢れ出ている。
まるである種の宗教画だ。ぼんやりと観察していたら、背に真っ白な翼が透けて見えそうなほど、彼女は取り巻く聖なる空間と調和していた。
美しい情景をいつまでも眺めていたい欲を払い除けて、シックザール枢機卿は静寂を裂いた。
「<セラフィナ>」
力強いラテン語が礼拝堂を満たす。しかし、低い短音は明らかな困惑が入り混じっており、娘の胸で悩ましげにわなないた。
最後の聖句を唱え終え、彼女はしゃんと姿勢を正して立ち上がる。さらりと流れる黒髪。指ごと胸の影に隠れていた細い左手が、ようやく朝の光を受けた。
左の薬指に白金の指輪をはめる彼女は、今年で19。14歳で結婚適齢期とするこの国では、立派な婦人だ。とはいえ、教会の人間は結婚を禁じられている。
理由は単純明快。修道女だからだ。
彼女がはめている指輪は、神との霊的な婚姻関係を結ぶ道具だ。メサイア教の教典には『教会は神の花嫁』という記述がされており、修道女の指輪は死後も神に奉仕すると署名した契約書のようなもの。修道女の着衣も宗教上では花嫁衣装であり、ゆえに彼女は生涯独身の誓いを立てている。
「<カルディナリス? どうなさいました?>」
義理の父親でもある彼を、セラフィナは敬意をもって『
あと2年もすれば7つ目の大台に乗る老人の垂れ目を見つめ、養い子の娘は小さく首を傾けた。
疑うことを知らない可愛い我が子。昔は神に愛され若くして命を落とすのではないかと、養父のシックザール枢機卿を案じさせていた。そして今朝届いた手紙は、まさに不幸の前触れではなかろうか。
愛娘が絡むと打って変わって心配性になる枢機卿は、しわくちゃの手で握り締めていた羊皮紙を渡した。羊皮紙をしまっていた封筒に、教皇が検閲した証の承認印――――教会外からの公的な文書は必ずここを通る――――彼女の名が明記されていたという。外回りをせず、大聖堂で動き回っているだけの修道女に宛てた手紙とは珍しい。
差出人は宰相――――宮廷のとても偉い人だ。彼のサインとともに、テネーレの国花である百合の
養父をここまで追い詰めるなんて、一体どんなことが書かれているのだろう。セラフィナはというよりか、好奇心の勝る気持ちで文面に目を通した。
『主の恩寵めでたきシスター・セラフィナ・シックザール。貴公を次期テネーレ王立騎士団の
「<…………はい?>」
軽い気持ちはどこへやら、頭も心も真っ白になった。
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