第3話 すれ違い

「<そうか>」


 敬虔すぎる彼女の決意を聞き、ダニエル神父は諦めたように肩をすくめる。そして腰の帯に差し込んでいた、紫の布袋に仕込まれた棒状の物体を差し出す。


「<餞別だ。持っていくといい。必ず入り用になる>」


 その正体を察したセラフィナは礼を述べ、ためらいなく受け取った。


「<なんじゃ? それは>」

「<祈りに必要な祭具です。この子の信仰心が薄れることのないように>」


 セラフィナは2人に伴われて礼拝所を出、準備していた荷物を持って大聖堂の正面玄関に出た。聖職者たちが不安そうな顔で現れ、彼女を見送る。

 セラフィナは固唾を呑んで見守る聖職者と大聖堂の内装をぐるりと視界に収めた。


 ――――19年。


 身寄りのないセラフィナを育て上げ、護ってくれた場所、人。何物にも代えがたい、彼女の居場所。当たり前だった家族。

 お別れなのだ。

 実感し始めて、じわじわと胸が締めつけられる。空気を吸うと涙が零れそうで、ぐっとこらえる。


「<今までありがとうございました>」


 深々と礼をして、セラフィナは大聖堂の正面扉を開ける。

 そのあとは絶対に振り返らなかった。


*******


「<……2年になりますかな>」


 娘を送り出したダニエル神父が、ラテン語でぽそりと呟く。


「<先の国王が死んで、息子が即位したそうです。噂によるとだいぶ急進的な性格だとか>」

「<それがあの子と何の関係がある>」

「<恩寵が欲しいのでは?>」


 ダニエル神父の、影の具合で黒にも見える瑠璃色の瞳がシックザール枢機卿を見下ろす。


「<主の祝福と教会の力。どの国でも歴代の君主が奪おうとしてきたものです。宮廷の目的もまさにそれでしょう。そして教会も、あの国に大きな顔をされるのが好ましくないから妥協した。利害が一致したわけです>」

「<じゃが、なぜあの子を>」

「<橋渡し役でしょうな。宮廷と教会の長が表立って取引するとどうしても外野がうるさい。それにあの子は『天使』です。遣わしたような演出をするにはうってつけだ>」


 シックザール枢機卿はうつむいた。

 ダニエル神父のいう『あの国』とはどこを指すのか、知っている。教会の懸念事項でもあるからだ。いつかは対応に乗り出すと予想していたが、まさかセラフィナを担ぎ出すとは想定外だった。


「<儂は、あの子をこんな目に遭わすために、育てたわけでない>」


 最近一段とシワの増えた手を握る。

 眼鏡の奥で、枢機卿は昔を見ていた。


 娘が祭壇に現れた、あの夜の出来事を。


 身も凍るような寒さが吹き荒び、降りしきる雪の夜。甲高い金切り声に起こされて、彼は礼拝所へ降りていった。階段と廊下を渡る間、吐く息が真っ白だったのを覚えている。


 やまない叫びに導かれ、彼は礼拝所でまたとない幻想と出会った。


 薔薇窓とステンドグラスを透かす雪明かりが祭壇上に降り注ぎ、まるで神の恩寵を一身に浴びるかのように寝かされていた赤ん坊。大きくて鋭い叫びは、あの子の泣き声だった。生まれて間もなく捨てられた子供だろうが、あの瞬間から彼には天より遣わされた御使いにしか映っていなかった。


 神を賛美し、その子を抱えると、驚いたことに泣き声がやんだ。あの不安そうでどこか安堵したような表情に、枢機卿の心は鷲掴みにされた。

 赤ん坊を『神がもたらした天使』とあっちこっちに触れ回り、教皇の許に押しかけて仰々しい洗礼をさせ、『天使のように愛らしい』という意味で天 使セラフィナと名づけた。聖書では、天使は9つの階級に分けられており、その中でも最も神に近しい存在なのが熾天使セラフィム。彼女の名はそれから拝借したのだった。


 以来、彼はセラフィナを溺愛している。


 外出を禁じ、毎週末のミサで野郎どもが来た時は常に目を光らせた。できる限り彼女から離れるまいとしていた。

 そうしてセラフィナは、枢機卿が望んだとおりの純真無垢な修道女に育った。世間知らずと不用心さを除けば、自慢の娘だ。いつしか街の人々も『天使』と呼ぶようになり、誰もが彼女を愛している。


「<あの子がより多くの人々に愛されながら、神の花嫁の勤めを立派に遂げるのを見届けたかった>」

「<これも主が課した試練では?>」

「<そんな試練があるかっ>」


 軽口めいた返事を一喝する。

 神は愛する者に過酷な試練を課すという。だが本当に愛しているのならば、若い修道女に騎士団などという男ばかりの集まりを率いらせるだろうか。聖書でもこんなに突拍子もない試練は書かれていなかった。


 ああだこうだ不満を訴える枢機卿にダニエル神父は肩をすくめ、言い聞かせる。


「<猊下が承認なされた以上、何も申せますまい。なんとかなると信じましょう>」


 教皇の名を口にされてグッと押し黙る。それを出されてしまっては文句の言いようがない。


「<お話の途中失礼しますが。枢機卿、ダニエル神父>」


 2人は同時に振り返る。呼び止めた男は、彼らよりもっと年寄りのユハニ神父だった。曲がった腰を億劫そうに庇い、よろよろとした足取りで歩み寄る。

 杖を突く左手の2本の指には、今日届いた辞令の手紙が挟んであった。


「<この手紙を読む限りでは、王立騎士団の方からお迎えが来るみたいですが……>」

『<…………あ>』

「<……初っ端から、すれ違わせてどうするんですか>」


 びゅおおおおと、薄ら寒い風が彼らの間を吹き抜けた。

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