気付かれないよう寄り添って

あるむ

気付かれないよう寄り添って

 現在時刻は二十二時四十七分。こんな時間なのに、彼はパソコンに向き合ってカタカタとキーボードをタイプしている。せっかくの週末の夜なんだから、仕事なんて置いておいて、ゆっくり過ごせばいいのに。


 冷蔵庫でビールが冷えているのは知っているし、おやつだって今日の夕方買い込んで棚に仕舞っていたのを見た。ラブロマンスでもアクションでもコメディーでも、映画なんかを見ながらゆったりと過ごす時間が今の彼には必要だと思うのだけれど。


「明日でいいか」


 大きな伸びをしながら、あくびまじりにぽつりと彼は呟いた。そうそう、明日でいいよ。今日は休もう。立ち上がってお菓子を仕舞っている棚を物色している。チョコレートかな、スナック菓子かな。ポップコーンもあればいいな。


 と思ったら、スマホが鳴り出した。イヤな予感がする。


「はい、もしもし」


 少し緊張気味に受け答えをする彼。見ているこちらもつられて緊張してしまう。彼は電話する時、いつもよりちょっとだけ背中が丸まる。会話を聞かれたくないってことなのかもしれないけど、なぜ?って聞いたことはない。多分、無自覚だと思うし。


「え、今夜中、ですか」


 がっくりと肩が落ちたのがよく分かった。とても分かりやすい。「はい、はい」と頷きながら、手にしたお菓子たちを元の棚へ丁寧に戻して行く。そういう几帳面なところ、好き。


 几帳面なのはこの部屋を見れば一目瞭然。シンプルなデザインのものしか置かれていないし、物が散らかるといったこともまずない。というか、物がほとんどない。専門的な参考書がぎっしり詰まった本棚だけが、異様な存在感を放っている。


 棚と棚の隙間や、本棚の上部分、テレビ台の後ろ側まで、隅々に掃除が行き届いていて、とても居心地がいい。こういうところに、人間性って出ると思うの。でもほんのちょっとだけ、こんなにしっかりしている彼のお嫁さんになったら、苦労しそうだなって考えが頭をよぎる。


 トボトボという効果音が聞こえてきそうなほど、うなだれた様子の彼は、またパソコンの前に座り直した。頭を抱えながら、それでも必死ににらめっこして何やら難しそうな顔をしている。


 ちょっとくらい、こっちを見てくれたっていいのに。


 彼の作業を邪魔しちゃいけないのは分かってる。これがお仕事だもんね。突然の予定変更はしんどいだろうけど、私には見守ることしかできない。だけど、かじりつくようにパソコンとばかり見つめ合っているのを目の当たりにすると、やっぱり妬いてしまう。


 今日だって丸一日、彼が頑張っていたのを私は知っている。朝起きて、その日のニュースをトーストとコーヒーでチェックして。その時はわたしとバッチリ目が合って、毎朝のルーティーンにホッとした。それから午後になって買い物に出かけるまで、一生懸命頑張っていたのをわたしは見ていた。


 今はもう遅い時間だから、わたしだってだいぶ眠い。電気を消して、暗闇の中でゆっくりと休みたい。でも彼が起きている以上、そういう訳にはいかないのだ。


「お笑いにでもするか」


 彼はそう呟いてリモコンで操作する。さっきまではクラシック音楽が流れていたのだけど、急に言葉の大洪水に放り込まれてしまった。


 彼は作業をする時に、様々な音をつける。番組を見たり聞いたりするためではなく、単純に静寂を嫌う。その理由も、わたしはまだ聞いたことがない。


 今日のおやつは何にしようかと楽しみにしていたり、綺麗好きだったり、コーヒーや紅茶より緑茶が好きだったりと、見てわかることは知っているけれど、その裏側にあることはなんにも分からないのだ。


 こんなに長い時間、一緒にいるのに。


 流れてくるお笑い番組はコントをやっているみたいだ。大袈裟なリアクションでその滑稽さを演出している。急に声が大きくなったりするものだから、ちょっとびっくりする。彼に見つからないように、こっそりとボリュームを絞った。


「……ふぅ」


 彼は集中していると独特の呼吸になる。溜め息にも似た呼吸を時々する。それは彼の中で張り詰めているものを無意識のうちに外へ出す作業なのかなと、勝手に思っているのだけれど。


 こんなに煌々と照らされた明るい部屋なのに、生身の人間は彼しかいない。だから、その息遣いが妙に生々しく感じることがある。


「三月一日になりました。ニュースをお伝えします」


 お笑い番組はいつの間にか終わって、アナウンサーが暗いニュースばかり読み上げている。抑揚のない声で、ただ淡々と事実だけを述べていく。番組が切り替わってしまったことにも気づかないほど、彼は集中していて、それがわたしを惨めな気持ちにさせた。


 彼を困らせたいわけではないけれど、ちょっとくらい息抜きさせてあげたいな。

番組表をチェックして、投稿系のペット番組にチャンネルを合わせる。ボリュームを気づかれないようにそっと上げておく。


 「だいふく、そこにいたらパソコン打てないよ。どいて」


 豆大福のようなぶちの猫が、主のキーボードを占拠している映像だった。ふわふわと柔らかそうな細かな毛まで、よく映っている。猫、という生き物を実際に見たことはまだない。それはこのアパートがペット不可で飼えないから。それにペットなんか彼が飼ってしまったら、わたしとの時間だってもっと減るに決まってる。それは寂しい。


「もう、困らせないでよ」


 そう言いつつ、声の主はなんだか嬉しそう。手がかかることが愛しいと感じる心は、わたしにはないからよく分からないけれど、人間ってそういうものなんだよね。手のかからないわたしは、彼にとってそんなに重要なものではないのかもしれない。そんなことが、ふと頭をかすめていく。


「ん? こんな番組にしたっけ」


 彼がこっちを見てくれた。やっと、やっとだ。とても嬉しい。あんまり根を詰めると身体にもよくないよ。勝手に番組を変えてごめんね。でも休憩も大切だよ。


「懐かしいな。昔、こんな猫、飼ってたなぁ」


 顔をほころばせて、わたしを見ている。彼は昔、猫を飼っていたんだ。それは知らなかった。じゃあ本当はペットが飼いたいのかもしれない。わたしがお役御免になるのは嫌だけど、彼が素敵なおうち時間を過ごせるのなら、それも仕方ないのかもしれない。


「あぁ、犬ってこういう動き、するよな。自分の尻尾を追いかけまわして、見てるこっちが楽しくなる」


 微笑ましい顔でじっと見つめている。張り詰めていた緊張が和らいだのが分かる。良かった、彼に喜んでもらえて。


 犬も、実は見たことがない。彼の家で一緒に暮らすようになって、どこへも出かけたことがないから。番組の情報で、どういうものかっていうのは分かるんだけど、実際のところどんな感じなのだろう。


「かわいいペット動画、投稿いつでもお待ちしております。それではまた来週」


 あら、番組が終わっちゃった。ほんの五分くらいしか、彼は見れていなかったんじゃないかな。もう少し見せてあげたかったな。


 さっきとは違うアナウンサーが、またニュースを読み上げていく。ニュースなんか見たら、せっかく解れた気持ちがまたキュッとなってしまうんじゃないかと思ってハラハラする。


「ふわぁ……。眠いけど、もうちょっと頑張れそうだな」


 彼はさっきのペット番組の余韻に浸っているみたいだった。ああ、良かった。今日はわたしの作戦勝ち。彼は動物が好き、覚えておかなくちゃ。


 リモコンを操作し、適当に番組を変えていく彼。一周したあと、静かなトーク番組にチャンネルを合わせ、リモコンを机に置いた。


「やっぱりテレビつけっぱなしにしてると、こういう息抜きできるし、集中できるな。あとちょっと、お願いするよ」


 そう言って彼はわたしについた埃を、丁寧にとってくれた。ありがとう。応援しているね。

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