1058話 鎌倉府の役割、今川家の役割
伏見今川屋敷 一色政孝
1591年夏
「…なぜ、このような状況に」
強烈な古酒を片手に、困惑した様子で信康は夕餉の場に同席していた。
上座に腰を下ろしておられる万里小路様、その1つ手前に俺と幽斎殿がいる。そのさらに手前に複数の今川関係者が控えているのだが、誰も彼もが気が気でない。
そんな様子である。
特に万里小路様の来訪を知っていたものの、まさか夕餉をとられるとは思ってもいなかった台所を預かる者たちは顔面蒼白だ。当然毒見も行われたわけであるが、それよりも好みに合う味付けになっているのかどうかが不安なのである。
部屋が見える遠くの方の廊下からこちらをのぞき見しているのが確認できた。
「しかし今川家にとっての一大事。誰が名代として京に入られるのかと思っておりましたが、相模を預かる松平の嫡子殿が送り込まれるとは。今川殿も予感していたということでおじゃりましょうな」
「おそらく。こちらの動きは我らが駿河にお伝えしておりますので」
「それでも義任にくぎを刺され御所に近づけぬ政孝殿と、その代理としての役割が求められている細川殿とでは得られる情報もたかがしれておりましょう。今回の要請は朝廷と幕府が内々で取り決めたものでおじゃりますから、今川家の面々には知ることも出来ぬはず」
「…まぁそれは伝手、ということでございます」
「さすがは大名の一家臣という地位でありながら、有力な公家と縁を持つ政孝殿でおじゃります。しかし公家とて情報の取り扱いには慎重でございましょう。麻呂以外に宮中の動きを漏らす者がいるということは、どうにも信じられませぬ」
まぁ父親ほど親密ではない近衛様、現在京に滞在しておられぬ大炊御門様、良くも悪くも注目の的となっている勅勘三家、そして婚姻の密約を交わしたとはいえ現状は無関係を装っている九条様など。
万里小路様の言葉通り、今の俺が公家から宮中の情報を抜き取ることは難しいと言わざるを得ない。
だから必然的に情報源は限られてくるわけで。しかし万里小路様はそこまで追及はされなかった。
「まぁいずれにせよ、長らく存在する意義を失っていた鎌倉公方家が役割を取り戻すことになる。傀儡ではなく、いち幕府の組織として、のぉ」
「喜ばしいことでございます。その鎌倉公方様の御助けに今川家がなれることも」
奥羽ほぼ全域で発生した一揆と、津軽地方での大浦離反。これの鎮圧に動員された連合軍であったが、その総大将が鎌倉公方の足利国朝様だった。若年で戦経験など皆無に等しかったものの、戦の基礎を今川家の老臣方から教わり、截流斎殿を側近としていたおかげで無難に役割をこなされた。
おかげで鎌倉公方家の存在感を久しく天下に示すことが出来、加えて幕府が東国統治における出先機関としての役割を期待することも出来るようになった。
なったのだが、長らく役目を放棄しているような状態だった鎌倉府にそのような体制をすぐ敷くことは出来ない。それゆえに今川家にその補佐をするよう命が下されたのだ。幕府からではなく、朝廷からである。つまりこれまで御一家として幕府から職を受けるようなことがなかった今川家が例外的に幕府に関与する口実が出来たということ。
あと東国統治の出先機関として鎌倉府が期待されていると言ったことからもわかる通り、かつての鎌倉府にあった評定衆や引付衆、侍所、政所などのような組織は全て無くなり、当然のことながら現在空席となっている関東管領も幕府の要職であることを理由に今後廃止されることになるだろう。
そして今後鎌倉府に期待されることであるが、中央、つまり朝廷や幕府の決定に東国の大名らが従っているのか監視することが最大の役目になるとのことである。場合によっては与えられた権力を用いて、強制的に執行させることも1つ。だがそれは武力による強制ではなく、幕府の威光を示してということになる。ゆえに今川家が兵を出すわけではない。あくまで円滑に鎌倉府を運営していくための補佐に留まるということ。
まだ今は鎌倉公方様も慣れないことばかりであろうが、幕臣らも鎌倉に派遣されるとのことであるし、戦では早い順応能力を見せられたとのことであるから、公方様もさほどしんぱいはしておられぬと信康は言っていた。
そしてもう1つの役目。それは貨幣制度を始めるにあたって、日ノ本各地に両替商を置く必要があるという点で、その監督を鎌倉府も担うというもの。
今後は統一された貨幣が使用されていくため、適正な価値で両替を実施する必要があるのだが、これも公的機関によって監視されなければ不正を働かれては困ってしまう。
そこで幕府が両替商を監督することで旧不統一貨幣を徐々に日ノ本から無くしてしまおうという算段をたてられたわけだ。ついでに新貨幣の普及にも繋がって一石二鳥である。
このように鎌倉府の復活にはいくつもの理由があった。今川家の事情を考慮したうえで日ノ本にために働けということである。
「殿には誰か人をやればよいと申しつけられましたが、今回ばかりは自らの口で説明せねばなりません。予定になかったことでございますが、明日にでも駿河へ向かうことといたします」
信康は名残惜しそうにぽつりとつぶやいた。
本当はこちらに留まって俺や幽斎殿の助けとなるように命じられたようであるが、おいそれと人に託してよいような話でも無い。
「明日、か。当然船は確保できているのであろうな?」
「何かあっては困りますので、三河からともにやってきた松平の船を泊めております。何事も無ければ萬千代とともに三河に戻すつもりでしたが、何事どころか大事でございますので、それを使って駿河へ向かうつもりでございます」
「萬千代は如何する。当初の予定であれば迎えが来るまでは京に滞在予定であったはずだが」
「ちょうどよいので連れて帰るつもりでございます。置いて駿河に戻ったなど徳に知られれば、いったい何と言われることやら」
「はぁ」とため息をついた信康は、手にしていた盃をグイッと傾けた。俺が「待て!」と呼びかけたにも関わらず、本当に一息で。
直後、顔から色が抜けているさまが少し遠い俺の席からでも見えるほどに信康の顔色が悪くなる。
元々の予定であれば、信康も明日は暇であったはずなのだ。ゆえに酔いつぶれても問題ないと古酒を用意したのだが、明日帰るつもりであるならば絶対に飲むべきではない。
しかしあれは手遅れだ。酒の中身を知らなかった万里小路様も、ただならぬ信康の様子に凝視してしまうほどだ。
「のぉ、政孝よ」
「琉球の交易品でございます。とある知り合いの商人より買ったものでございますが」
「知っておる。麻呂も何も聞かされぬところで飲まされて吐き出した苦い記憶が…」
そう言いかけた万里小路様であったが、なにかを思い出したのか「ウッ」という普段絶対に聞けぬような嗚咽を漏らして口もとを隠しておられた。
いったい誰に騙されたのか、俺も苦い記憶であったゆえに鮮明にあの日、あの味、あの状況を覚えているわけであるが、信康も今日のことがトラウマになるのであろうか。
すべては自身が張った見栄のせいであるのだがな。
「せめて一言言うべきであろう」
「元々犠牲者は信康だけになる予定であったのでございます。ですが屋敷の者の手違いで想定以上の古酒を仕入れてしまったらしく、仕方なく夕餉で振舞った次第。しかし我らは駄目だ駄目だと声を揃えてしまう古酒も、好きな者たちにとってはまことの逸品と称賛の声も上がるとか」
とても信じられんと万里小路様は驚かれた。
しかし実際にそうなのだ。特に酒好きの薩摩の島津兄弟の間では好評らしく、呂宋交易の帰りに琉球王国に寄港、その後薩摩領経由で堺に戻る商人も少なくないとのこと。
「とにもかくにも信康をどうにかせねばなりません。とりあえず水でも飲ませて横にしておくといたしましょう。幸いにも萬千代にはこの失態を見られておりませんので」
萬千代はよほど疲れたのか、水浴びをしてから熟睡してしまったらしい。まぁ随分と京観光を楽しんでいたゆえ無理もない。
信康は夕餉を共にとるために叩き起こそうとしたのだが、万里小路様が気にする必要は無いと止められたのだ。これが結局良かったのだろう。父親の尊厳を守れたのだからな。
だが今後は無用な見栄を張らないことだ。そう信康も痛感したことであろう。
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