1057話 人か獣か
伏見今川屋敷 一色政孝
1591年夏
ひとしきり京を巡った俺たちが屋敷に戻ったとき、未だ信康は戻ってきていないようであった。
それもそのはず。今日は非常に重要な決定が言い渡される日であるからだ。内容については詳しくは聞かされていないが、朝廷からの命を間接的に公方様から伝えられるとのこと。まぁ表面的な話だけするのであれば、これまで範以様が固辞してこられた日ノ本統治に関わる何かしらの役目を正式に与えられるということ。
朝廷からの任官はあったが、これは全くそれとは違うものであると思われる。そうでなければ間に幕府が挟まれる必要が無いからだ。
「信康はまだ戻っていないか」
「細川様も未だお戻りではございません」
「ならば当分戻らぬであろう。いったい何の話をしているのやら」
如信は俺に肩を貸すような形で隣を歩く。
杖もあるのだが、なんせ足に力が入らぬのだ。足というよりも腰だろうか。
馬車に1日揺られるというのは、やはり衰え行く身体には厳しいようである。そもそも運動という運動でも出来ぬために、体の衰えは日々侵攻する。
抗ってはみても、限界というのは存在するのだと痛感する毎日であった。今日も萬千代と1日京を巡っただけでこのような有様であり、杖があったところで腰が痛くてまともに歩けない。
よって肩を借りて、力が入らない下半身の自立を補わなければならなかった。
「大伯父上様、私も何かお手伝いいたしましょうか?」
心配そうに後をついてくる萬千代に、俺は軽く笑って手を振った。いくらなんでも小さな体にもたれ掛かるようなことは出来ない。
楽しかったと松平の従者らに語ってくれれば、それだけで満足だと。
「ですが私のせいで」
「いやいや。今日は萬千代殿のおかげで楽しかったのだ。最近は望んでもいない客人と屋敷に籠って話す日々であったゆえ、退屈で退屈で。結局身体は凝り固まっていたことであろうから、むしろ外の空気を吸えただけ良いというものよ」
「カッカッカ」と笑ってみたのだが、笑うだけで腰に響く。脂汗が浮かぬよう、懸命に別のことを考えて痛みを忘れようとするのだが、やはりそれほど身体は単純にできていない。
痛いものは痛いわけで、このままでは萬千代に気を遣わせてしまう。そんなことを考えていた矢先の出来事であった。
通りがかっていた部屋の障子が突如として開かれる。
そこにおられた御方はよく知っているお顔で、如信もまた同様であったらしく反射的に身体を引きおった。そのせいで俺の体勢が大きく崩れ、苦悶の表情を帯びたままに廊下で尻もちをつく羽目に。
慌てて如信が俺の脇に入って立たせてくれたが、なんとも情けない悲鳴を上げてしまったものである。おかしげに笑うのはこの原因である御方であった。
「頭弁様、いたずらが過ぎますぞ」
「いたずらではない。ただ政孝殿に会いに来ただけで、決してひっくり返そうとしたわけではおじゃりませんので」
そう言いかけた頭弁様こと万里小路様は、何事かと固まってしまっている萬千代を見てこちらもまた固まっておられた。
「…それほどの歳の子がおったであろうかな」
「この者は私の子ではございません。現在、公方様の御前に出ている松平信康の長子、萬千代殿でございます」
「おぉ、そうかそうか。あの松平の倅とはおぬしのことであったか」
最初から信康とその子が上洛していることを知っておられたのか、興味深そうな視線を上から下へと数度動かされた。
そしてすぐに満面の笑みで「よう京に来られた」と歓迎の言葉を述べておられる。
一方で萬千代には頭弁様と言っても伝わらなかったようで、もっとわかりやすいところで説明することにした。
「こちらは万里小路頭弁様。帝の外戚となっている勧修寺家の出であられる御方であられる」
「か、じゅうじ…。万里小路様!?これは失礼いたしました!」
その名を聞いてすぐにピンと来たようであった。まぁさすがにそれくらいは知っていたらしく、如信と同様に両ひざをついて頭を下げた。
その様を見た万里小路様はどこか感動しておられる様子で、直後に俺をチラッと見られた。
「やはりこうして敬意を持ってもらえるというのは嬉しいことであるな」
「…なぜそれを私を見ながら言われるのでございますか」
「政孝殿もかつては…。いや、そういえば政孝殿が麻呂に対してこのような態度を見せたことは無かったか。むしろそれで当時は嬉しかったのだが、今思えば随分と豪胆な話であるな」
「あれでも敬意を持っておりましたが」
「それは麻呂ではなく、かつて縁を持っていた父上に対してであろう。我ら2人が縁を持ったのも、父上亡き後の堺であったでなぁ」
あれはたしか織田家主催の大規模水軍演習のときであったか。万里小路様と近衛様がともに俺のもとにやってこられたのが出会いであった。思い出したが、あのときは床几からひっくり返るほどの勢いでひざをついて頭を下げた気がする。
それこそ今の萬千代や如信と同等、いやそれよりも早いスピードで。忘れておられるのか、それ以降の話をしておられるのかは不明であるが、どこかで不満を持たれていたようである。ならばご期待に添う動きをせねばなるまい。
如信の肩に手を置き、俺も膝を折ろうとしたのだが、万里小路様は慌てて空いている反対の腕を掴まれる。
「待て待て。今の麻呂たちには麻呂たちの関係があろう。今さら仰々しくされたところで、変な感じになってしまうだけよ」
「てっきりそれを望まれたのかと思いました。しかしなぜ万里小路様がおいでであるというのに、屋敷の者が誰も言わなかったのか」
言ってくれれば、少なくとも情けない悲鳴を上げて尻もちをつかなかったであろう。忘れていたはずがないゆえ、意図的に言わなかったことになる。あとでしっかりと報連相の重要性を説いておかねば。
そう思っていたのだが、俺が不満そうにしている理由について勘づかれた万里小路様が「フッフッ」と笑われた後に、もはや手遅れだと思うようなタイミングで扇子を用意され、口元を隠される。
「政孝殿が留守であると聞き、ならば待たせてもらうと麻呂が言ったのでございますぞ。その際に決して政孝殿には漏らさぬようにと口止めいたしました」
「なにゆえそのようなことを」
「驚く顔が見たかったゆえでございます。たまには人らしさを出さねば、忘れてしまうものでございますのでな」
何を、とは聞かなかった。
今の言葉は冗談のように見えて、決して冗談などでは無かったと直感で感じたためだ。今の朝廷は正直ここしばらくに無いほどに混乱している。
それは幕府から課された法度もあるが、本物の日ノ本統一を目前にして権力闘争に再び動き始めたゆえだ。これは帝の寵愛を受けるものでは無い。
公家として生き残るための権力闘争。そのせいか、噂に聞くところによるとより醜い争いになっているとのこと。いかにライバルを蹴落とし、より重要な地位を確保できるかが重視され、その争う様はまるで血に飢えた獣のようで、と。
人らしさを忘れた獣はそのまま堕ちるということを万里小路様が暗に言われているようで、笑い飛ばすことは出来なかった。
「そういうことでございました。ならばたまには人らしく酒でも如何でございましょうか。今日は良い酒を入れておりまして」
とは言っても、信康に振舞う用の古酒であるが。
しかしそれを知らない万里小路様はたいそう喜んでおられた。良い日に顔を出したと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます