1055話 松平の血脈

 伏見今川屋敷 一色政孝


 1591年夏


「伯父上、お久しぶりでございます」

「久しいな、信康。しかし随分と様子が変わったではないか」

「苦労が重なり、老けたのであろうと皆が申しておりました。今正月、父上とも顔を合わせましたが歳の少し離れた弟かと思ったなどと言われてしまい」


 俺は決してそういう意味で言ったわけではなく、歳を重ねて堂々とした立ち振る舞いを覚えたなと褒めたつもりであった。

 だがどうやら本人が思った以上にその貫録をマイナスに捉えているようで、会って早々落ち込ませてしまう。幽斎殿は笑みを浮かべながら伯父甥のやりとりを見ておられるが、決してそんな良い空気が流れているわけではない。


「それは家康なりの冗談であろう。久しぶりに父子で顔を合わせるのに、緊張感など不要であると思って」

「…それが父上に従って江戸に入った者たちまでそのように言い放ったのでございます。あれが父上の御機嫌取りだったのか、それとも本心であったのか、未熟な私には見抜くことが出来ませんでした」


 見事なまでに肩を落とす信康に、となりの男の子が困り果てていた。

 これが予め聞いていた萬千代であろう。信康にとって待望の男児である。上には姉が2人おり、長女の登久は小笠原長時殿の孫にあたる秀政殿に嫁いでおり、次女の国は家康の命で本多忠勝の嫡子である忠政に嫁いでいる。次女の方は昨年の輿入れであり、蟄居中だった俺の耳にもその話は届いていた。

 しかしこの長子の話はほとんど聞いていない。松平家中では露出もあったのであろうが、家を出て表舞台に出るのは今回が初めてであるという。


「それよりも信康よ」

「おぉ、そうでございました!これは我が長子の萬千代でございます。萬千代、おぬしの大伯母上はわかるか?」

「はい。おじいさまの姉様であると」

「その通りよ。そのお相手様である。一色家の先代当主であり、今川家最大の功労者であり、今は公方様の相談役でもある」


 次々出てくる肩書に萬千代はたいそう混乱しているようで、だんだんと目が細まっていく姿が随分と愛らしかった。

 続柄で言うと何になるのだろうか。義理の大伯父か?少し関係が希薄過ぎてよくわからんが、それでもある種可愛がってきた信康の子であるから、これまた可愛いものである。

 最近は元服前の子と話をすることも無かったゆえ…。いや、1人いたがあれは例外であろう。まぁそれゆえ、どこか懐かしい記憶が呼び起こされるようで非常に愉快であった。


「政孝様だ。ほれ、しっかりとご挨拶をせよ」

「かしこまりました、父上。お初にお目にかかります。松平信康が長子、萬千代と申します」

「うむ。ところで萬千代殿、歳はいくつになった」

「10でございます」

「ほぉ、10か」


 側室の子であるため、信康の跡を継げるかどうかはまだ不明ではある。しかしこれより後に男の子が生まれなければ、きっと岡崎松平家の跡を継ぐのは萬千代になるだろう。

 史実を知る身としてはなんとも感慨深い話である。とは言っても、徳川最後の将軍である徳川慶喜は信康の血を引くとも言われている。つまり完全にその血はあの事件で絶たれたわけではないということ。まぁそうであったとしても、血を残したのは娘の方であるのだがな。

 さてさて、俺はこんな可愛い子を放って山科に行こうとしていたのかと反省していた。外はすでに薄暗くなっており、夕餉の支度が進められている。なにかもてなしをしてやりたいと思っていたのだが、残念ながら今から屋敷を出ることは出来ないだろう。


「10にもなれば外に出ることも許されるであろう。明日はともに京の見物でもするか?」

「よいのでございますか!?」

「構わぬぞ。そなたの父上は御所に顔を出さねばならぬゆえ、1人屋敷に残されても退屈であろう。その点、ワシであれば頼りになる護衛も傍におることであるし、安心して外に出ることが出来るであろう。どうだ、信康?」

「伯父上が傍についてくださるのであれば安心でございます。ですがよからぬ場所にだけは連れて行かれぬよう、お願いいたします。国許には萬千代だけを連れていくことに反対した室らがおりますので、よくないことを教えられたと知ればなんと言うてくることか」

「安心せよ。さすがの俺でも徳様を怒らせるようなことはようせぬ。生前、信長様には良くしてもらったゆえな」


 俺が信長の名を出した上で、よからぬことを教え込まぬと誓ったためか、あからさまに安堵の表情を見せた信康。

 しかし信康からは尊敬のまなざしを向けられることは多々あれど、たまにこういう失礼なことを平然と言ってくる。やはり父子でその無神経さは似ているのであろう。

 先ほど散々落ち込んだと愚痴っていたというのに。


「ところで、いったいどこを案内していただけるのでございますか?」

「信用が無くて困るわ。こういう時は俺の連れていきたいところを連れまわしても本人は面白くないであろう。このころの歳の者に気を遣わせるわけにもいかぬゆえ、それならば希望を聞いてやる方が良い。萬千代殿、いったい京で何を見てみたい」

「聞いていただけるのでございますか!?」

「出来る限りな。しかし連れて行ってやれぬところもある。例えばはなま」


 そこまで言いかけたところで、ずっと近くに控えていた如信がわかりやすい咳払いで言葉を遮った。

 もちろん冗談だ。そこがどこかと聞かれても、興味をひかぬような説明で誤魔化すつもりであった。俺としてはさんざん失礼なことを言ってくれた信康に対する仕返し程度のつもりであったのだが、如信はまことに冗談が通じない。前にも言うたとおり、それでよいのだがな。


「はなまとは何でございましょうか」

「ただの飯屋よ。だが酒が出るゆえ、萬千代殿は連れて行ってやれぬ。あれはおそらく父上ですら飲めぬ類のものであるゆえな」


 まぁあながち間違ってはいない。二条柳町は飯と酒と性を売る場所である。酒は酒だ。

 そして俺が想定した飲めない酒は琉球から持ち込まれる古酒のこと。俺も一度義任様に騙されて飲んだことがあるが、あれは本当に飲めない。癖が強すぎて、喉が二口目を受け付けない。せき込んでも口の中に強烈な味わいが残り、水を飲んでもずっと味が残っているようであった。あれは本当に好き嫌いが分かれるものであると思う。


「父上、それはまことでございますか?」


 落胆のまなざしを向けられた信康は、俺が何を想定したのかもしらずに良い格好をしていた。

 明日の夕餉に古酒は確定したようなもので、酒を嗜む程度に楽しまれる幽斎殿も哀れみの表情を向けておられた。しかしあの年の頃の子は、父親は何でもできるスーパーマンだと思い込んでいる節がある。そのような眼差しを可愛い息子から向けられたら、きっと信康でなくとも期待に応えようと無茶をしたことであろう。

 しかし今回は間違いなく相手が悪いのだがな。


「さぁさぁ萬千代殿、酒の話はあとにして」

「それでございますが、私は京の町の中を見てみとうございます」

「ほぉ、市井を。今のワシの力があれば寺社仏閣もある程度は入ることが出来ると思うが、それでも市井を巡りたいと」

「はい!」

「元気の良い返事だ。よし、ならば明日はともに京の町を眺めようとしよう。馬車があるゆえ、それに乗るとしようか」


 そう言ってやると、目をキラキラと輝かせていた。

 聞けば馬車に乗ることは初めてであるという。馬には乗っているらしいがな。


「ならば今日は早く夕餉をとって、ササッと寝なければならぬな」

「かしこまりました!」

「だがその前に一度身なりを正してくるべきか。長旅のままに挨拶をすることになってしまったゆえ、汗や埃で気持ち悪かろう」


 そう言ってやると、信康に許可をもらった萬千代はさっさと部屋を出て行ってしまった。

 幽斎殿は相変わらずにこやかに見ているだけであったが、信康はホッと息を吐いている。


「不安だったか」

「初めて外に連れ出したものでしたので。とは言っても、私と同じだけ京に滞在させることも出来ませんので、数日後には三河より迎えの者があります。それまでに京の雰囲気を知ってくれれば良いのですが」

「その辺りは俺に任せよ。少しばかり大人しくしておくように義任様に命じられたばかりであるからな」

「なっ!?天下の副将軍様自らでございますか…。いったい何をしでかされたので?まさか今川家にまで」

「迷惑はかからぬ。単に俺個人がやらかしたことに対する話で、それもじきに解消されるであろう」

「であればよいのですが。政孝様は私が物心ついたころからずっと変わりませぬ」


 まぁ無謀で無茶苦茶でとか、そんな話であろう。

 しかしそれでも慕ってくれるのだから、命を懸けて守った甲斐はあったということだ。


「そうしんみりしている暇はない。明日の夕餉は古酒をふるまうゆえ、万全な体調でなければ明後日以降に響いてしまうわ。さっさと荷を片して夕餉に備えるのだ」


 信康を見送った俺は改めて考えた。萬千代はただ漠然と市井見物がしたいと言っていたが、果たしてどこを見せてやるのが良いか。

 まぁいくつか候補は思い浮かんでいるが、信康の義父が築き上げたこの伏見に関してはちゃんと案内せねばならぬであろう。どうやら萬千代のことを徳様は我が子のように可愛がっておられるようであるしな。

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