動く今川家
1054話 松平信康が求められること
伏見今川屋敷 一色政孝
1591年夏
義任様より念入りに余計な真似はしないよう釘を刺された俺は、その言葉に従ってしばらく留守役としての本分を果たしていた。
今川屋敷は俺個人の来客も多いが、駿河への下向を求める公家衆も未だ多い状況にある。これは地方の大名家で結局一番の有力者である今川家と何かしらの縁を得ようとする動きが健在だからだ。
しかし範以様は基本的に京に留まられない。留まったところで来客が多すぎて、身動きが取れないからだ。それならば駿河へと戻り、今川領内の政に精を出した方が有意義であるとお考えなわけである。
それに南蛮との関係悪化で心を痛めておられる御方様も駿河に残しておられるゆえ、極力傍にいるために上洛にすら消極的なのだ。
そんな事情もあって、駿河への下向希望者が非常に多い。そして間を取り持ってもらおうと、一門に連なる俺のもとにやってくる方も多くなるのだ。正直、死ぬほど面倒である。
「お疲れ様でございました。先ほどの御方が最後でございます」
「義任様の手前、屋敷でしばらく大人しくはしておりますが」
幽斎殿自ら湯飲みを持ってきてくださったゆえ、ありがたく茶を頂いた。ほどよく冷たいからか、喉が凄まじい勢いで茶を求めている。
あっという間になくなった茶を見た幽斎殿は、「おぉ、見事な飲みっぷりで」と感心しておられたが、こちらとしては本当にそれどころではないのだ。
なんせ公家衆の来訪はただ挨拶だけではない。
良好な関係を築こうと、範以様の好みや趣味の話など、とにかく様々な情報を聞き出そうと話題を展開される。こちらとしてもさすがに無下には出来ぬゆえ、その話に付き合うのだが、1日に何度同じ話をしているのかとだんだん嫌になってくるのだ。
それでも範以様のお顔に泥を塗るわけにはいかぬと、精一杯笑顔を顔面に張り付けて対応している。今秋には久らが上洛してくるゆえ、そこまで耐えることが出来ればもう少し疲れも癒えるのであろうが、どうにもそこまで耐えられる気がしなかった。
「…山科にでも向かおうか」
「おやめください。世間体というものがございます」
この年になって、誰かに甘えたいと心の底から湧き上がるとは驚きであった。そのようなものは単なるエロ爺どもの欲求であろうと。
しかし疲れた心に、傍に妻がいないこの状況だとどうにもひと肌が恋しいと感じてしまう。何かしたいというわけではなく、ただ心の内の弱みを遠慮なく晒すことが出来る相手を近くに置いておきたいとか、そんな感情であると思われる。
そんな俺の淡い願いも、近くで目を光らせていた如信によって打ち砕かれてしまった。特に如信は淡海遊覧以降、その辺りに厳しく目を光らせているようで、小言も多くなったような気がする。
まぁ慶次には出来ない歯止め役を俺が求めているのだから、如信の行動としては何一つ間違ってはいないのだがな。
「…冗談だ」
「随分と伊達家の留守役殿に熱心なのでございますね。たしか伊達様の叔母でございましたか?」
「…まぁ、その通りです。頻繁に奥州へ向かっておりましたので、その際に少し縁を得ました」
「なるほど。その御方と政孝殿がよからぬ仲にならぬかと如信殿は疑っておられるわけでございますな。しかし聞けばその御方、二階堂家に嫁いだ身であるとか」
ギクッという擬音が出たのではないかというほどに、身体が跳ねたような気がした。たしかにほとんど離縁状態ではあったが、二階堂家の先代当主は家出という扱いになっているのだ。当時、蘆名に付くか、伊達に付くかを決めた盛大な親子喧嘩によって。
それゆえ阿南殿が俺に好意を寄せてくださっていることは分かっていても、手出しをしないわけである。いや、もちろん言いたいこともわかる。わかるが、俺の中ではまだ線引きをかろうじてしている状態であるのだ。
だからそんな目で俺を見るな、如信。
「しかし今日は屋敷に居てもらわねば困ります。政豊殿に代わって、人が寄こされるのでございますから」
「…そういえば今日でございましたか」
「公家衆の対応に追われておりましたゆえ政孝殿は知らぬ話であると思いますが、すでに一行は堺の港に到着し、伏見を目指しておられると。おそらく夕餉の前には到着されるかと」
「まぁ気兼ねなく話せる相手でありますから、大人しく屋敷で待っているといたしましょう。しかしまさかの人選でございました」
「まことに。あちらは未だ忙しそうに方々を駆け回っておられるようでございますが、本国はもう何年も落ち着いておりますからでしょうか」
「本国も落ち着いたのはここ数年のことでございましょう。いったい何度介入の準備をしたことやら。身内でなければ、もっと見返りを求めていたところでございます」
この発言を冗談だと捉えられたのか、幽斎殿は間髪入れずに「それはそれは」と笑われたが、実は本心からきた言葉である。
まぁ身内でなければそこまで手を貸さなかったかもしれないが、どちらにしても目と鼻の先が荒れては困る。ゆえになんだかんだと手は貸したかもしれない。
果てなき見返りを求めたかもしれないがな。
「此度は長子殿もお連れするとのこと。まだ元服も果たしておられぬそうでございますが」
「萬千代と申しましたか。たしか未だ松平家の家督を継いでいないことから、竹千代と名乗らせていないと申しておりましたが」
「三河は松平の分家が多くあり、西三河の旗印となった松平宗家にとってはその辺りも気をつけねばならぬのでございましょう。特に家康殿はもう何年も岡崎の地に戻っておられぬそうですし、信康殿自身が気を配る必要があるということでございましょうね」
松平宗家の当主は依然として家康である。
ゆえに嫡子は信康のままなのだ。まぁこの世界線で今さらそれがひっくり返されるとは思っていないが、信康が自らの子を竹千代とするとそれはそれでよく思わない者がいるということ。
実際にいるのかは不明であるが、家康の次子で江戸城で過ごしている長松を後継者にしようとする連中が面白く思わない、とかな。
念を押すが、実際にそんな連中がいるのかどうかも分からない。
しかし家康は経済的に発展しきった松平の地盤となる岡崎を信康に、伸びしろしかないが未だ都市とは言い難い江戸を長松に譲ろうと考えているのだという。おそらくであるが、実際に岡崎と江戸を預かった家康はこの広大で遠く離れた領地を1人の当主が治めることに限界を感じたはず。だから領地を分割して子らに分け与えようとしているわけであるが、圧倒的に広大な江戸領であるから信康が蔑ろにされていると感じる者たちも出てくるかもしれない。そういった連中が出てこないように、家康の思惑をしっかりと受け取りつつ、松平家の嫡子として存在感を示さなければならない信康は非常に難しい立場に置かれている。
そんな信康が、此度は政豊の代わりに上洛をしてくる。それも元服前の長子を伴って。
「まぁ政治的駆け引きは生まれましょう」
「…」
「気が置けない仲であるからとゆっくり出来ぬやもしれません」
「やはり山科に」
「なりません」
ぴしゃっと言い切られた俺は、人目も気にせずにごろッと畳に寝転がった。
本当に退屈だ。
俺が自発的に動くのであればよいが、誰かのために政略に巻き込まれることはあまりにも面白くない。
それであれば、義任様から無理難題の協力を押し付けられた方が幾分もマシであると思えた。とは言っても、あれから数日経った今日も音沙汰成しなわけであるが。
「謀られたのやもしれぬな」
「松平様でございますか?」
「いや、義任様に」
俺の言葉に2人が思わず絶句している。なんということを…。ということなのであろうが、今の俺はその義任様に手足をもがれた状態。
蟄居や軟禁というわけではないのだから、明日は堺の末吉孫左衛門の店を訪ねてみてもよいかもしれない。造貨所の開設はもう目の前で、何か面白い話を孫左衛門から聞けるかもしれぬでな。
いや、明日も公家衆の来訪予定があったか。
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